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「徐福縁たより」2016年7月18日 逵 志保

徐福縁のみなさま、暑い日が続いていますがお元気でいらしゃいますか?ここまであれこれと雑事に追われ、「徐福縁たより」が先延ばしになってしまっていました。
 2016年上半期は日本と中国で徐福の国際会議が開かれました。また開催地に向かう途中で徐福伝承地をそれぞれ訪ねましたので、その報告をします。

2016年5月20日 
第3回徐福文化国際研究協議会
佐賀大会

 日本徐福協会が設立して初の大会が佐賀県佐賀市でおこなわれました。徐福に心寄せる方たちが100人ほど集まり、大会議室はいっぱいでした。この「徐福熱」を広げていくことが今後の課題だと思います。
 今大会、午前は元北京・名古屋で韓国総領事をなさっていた柳洲烈さんの講演がありました。徐福を世界文化遺産にという目標を前に、日中・日韓で仕事をしてきたからこその話を聞くことができ、新鮮に感じました。
 午後は中国、韓国、日本がそれぞれに現状報告。日本は私が報告するようにということでしたので、「日本徐福協会設立をゴールにした話」という主催者からのご要望に合わせ、近現代の徐福を取り囲む状況、決して近代に徐福顕彰を止めることはなかったという事例をあげ、日本徐福協会の設立までの経緯をお話しました。
 今回、報告の中国語・韓国語訳が間に合わず、会場の中国・韓国の方たちには申し訳なかったのですが、報告を終えた後、会場にいらしたWさんが手を上げ、会場の中国人に知ってほしいからと中国語で私の発表内容を再度解説してくださいました。大きなイベントではできないことですが、そんなところもアットホームな会議でした。
 午後のメインイベントは徐福の共同研究を進めていくうえでの研究分野の確定のための協議【写真下:石山嘉男さん撮影】です。徐福は「徐福学」という言葉が出てくるほど、考古学、歴史学、地理学、文学、民俗学、文化人類学、社会学…、様々な学問からの研究が可能です。ですから共同の研究分野を確定することはとても難しいのです。私はこの難解な協議の司会を仰せつかりました。案の定、自身の徐福論を展開する方もあり、どうしたものかと頭を抱えたところで、中国徐福会副会長Lさんが「相手と戦うときには、十指を傷つけるのではなく、一本の指を切り落とすべきだ」といかにも中国らしい発言で流れを一つにしてくださり、なんとか進行することができました。
 今回、中国徐福会は「世界文化遺産登録に向けて、徐福伝説という立場で行く」と方向性を示しました。中国は世界文化遺産登録に向けて本気だと感じました。
 おわりに中国の徐福のドラマ制作発表【写真下】がありました。60回の連続ドラマだそうです。私が関わった荒俣宏さん原作・市川森一さん脚本の中韓日合作連続ドラマの企画は結局実現できませんでしたが、制作発表ではこのドラマの企画の話も紹介されました。

筑紫野「童男丱女岩」を訪ねる

 佐賀に行く途中、福岡県筑紫野の「童男丱女岩」【写真上】を訪ねました。文献記録では知られていたところでしたが、実際にあり、「天山(あまやま)ふれあい会」が管理していると聞き、案内していただきました。
 会によって整備された山を20分ほど登ると、すぐに見晴らしのいいところに出て「童男丱女岩」があり、その下には「船繋ぎ岩」もありました。お聞きすると、Iさんらは「東南官女岩」(とうなんかんじょいわ)と呼んでいて、この岩には中国(東南地方?)から何かが来たというおぼろげな話があったそうです。幼い頃は共有林のあるここまで来て、薪になる木を持って、この岩から草スキーで一気に降りたといいます。昔からの遊び場だったのだそうです。
 Iさんらは後にこの岩のことをインターネットで調べ、「東南官女岩」ではなく「童男丱女岩」だと知ったのだそうです。こうした伝承地発掘、これからもありそうです。

2016年6月14-16日 
2016中日韓徐福文化象山フォーラム

 2012年9月、中国浙江省寧波市象山県でおこなわれる予定だった徐福国際会議が尖閣諸島国有化問題で突然中止になり、以来、いつか象山県での開催をと願っていたところ、3年9ヶ月を経てようやく開催されることになりました。これは象山県のある寧波市が、韓国済州市、日本奈良市とともに2016年アジア文化都市に選定され、今年は文化イベントに許可がおりやすいことがわかり、象山県が飛びついた成果のようです。徐福関係者にとって、徐福を通した中韓日の民間交流の正式な再開にも感じられました。中国徐福会・象山県人民政府から招待状をいただき、大会に参加してきました。
 6月14日、象山に到着。会場の黄金海岸大酒店はリゾート地にありました。次々に参加者が到着し、夕食時の再会が楽しみでしたが、別室に呼ばれて合流できず。ですが別室に集まった方たちを見ると、中国徐福会の方向性が見えてきました。世界文化遺産登録にむけて、今回の会議はこれまでとはかなり参加者の専門分野が変わっていました。
 
 6月15日、2016中日韓徐福文化象山フォーラム一日目。8:15ホテルを3台の大型バスで出発し、徐福上陸地、徐福が不老の丹薬をつくるために掘ったと伝わる丹井(井戸)、徐福が象山に滞在したことを伝える唐代の蓬莱観碑(再建)、徐福が2年滞在したと伝わる石屋などを訪ねました。既に2013年に個人で来た時に案内いただいたところでしたが、手すりの設置など、今回のために細かな配慮が加えられていました。また、以前伺ったときには完成していなかった施設も整備され、展示もかなりお金がかかっていました。象山では古老から徐福の話を聞くなど、子どもたちに伝承していく取組みも試みられているようで、この日は新たに作られた徐福講堂で、子どもたちが『道徳経』を読み上げていました。
 11:00ホテルに戻り、昼食。
 
 午後、早めに大会議室に行くと、再会の記念撮影があちこちではじまっていました。会えなかった間に出版した本をサインを入れてプレゼントしてくださる方も多くありました。なかでも張良群さんは1950年から2015年の『当代中日韓徐福文化交流図志』(2016年)という写真で見せる徐福交流史の本を出版。そこには私が大学生時代に徐福伝説を知った経緯も紹介されていました。またFさんは先祖が唐代の詩人だったそうで、先祖が徐福のことを唐詩に詠んでいたことがわかり、その詩を収めた本をくださいました。誰もが今日のこの日を楽しみにしていたことがわかりました。
 14:00象山フォーラムスタート。司会は地元・寧波テレビ局のアナウンサー。中国の大会開会式では恒例の現地の役人の挨拶の後、中国徐福会会長・張雲方さん、日本は羽田孜元総理の息子・羽田次郎さんが祝辞代読、韓国は元北京・名古屋総領事の柳洲烈さんが続きました。
 開会式に続いて、2012年の象山大会で予定されていた表彰式がおこなわれました。表彰は3種あり、徐福文化貢献賞の個人賞(中国5名、韓国2名、日本8名)と団体賞(中国3、韓国2、日本2)、そして特別賞の徐福研究優秀論著会長賞=徐福文化学術研究賞(中韓日各1名)です。私は徐福文化貢献賞個人賞と特別賞をいただきました【写真下】。
 そのあとホテル前で記念写真の撮影。15:00から基調講演。基調講演には6人が登壇しました。今回の大会の特徴がよくわかるラインナップだったので記します。 
司会:中国:陳勤建:国家非物質文化遺産保護工作専家委員会委員、中国民俗学会副会長、華東師範大学対外漢語学院終身教授
1)中国:羅来興:中国共産党象山県委員会常務委員、宣伝部長「徐福文化の伝承と国際交流の拡大に向けて」
2)中国:姜躍春:中国国際問題研究院世界経済研究所所長、研究員「中日韓の協力を図るチャンスとチャレンジ」
3)中国:劉魁立:中国社会科学院栄誉学部委員、中国民俗学会栄誉会長「地方風物伝説の人的視覚」
4)中国:湯重南:中国社会科学院世界史研究所研究員、博士課程指導教官「徐福東渡と東アジア文化」
5)日本:逵志保:愛知県立大学講師、博士「徐福伝説を中韓日で語り継ぐために」
6)韓国:柳洲烈:韓中投資交流協会諮問大使、徐福国際文化研究協会顧問、韓日協力委員会事務総長、元北京・名古屋総領事「徐福ロード」
 今回の特徴は中国民俗学会の方々が徐福の会議に登場したことだろうと思います。いままで全く無かったことです。中国徐福会は世界文化遺産登録を進めるには「伝説」でいくしかないと5月の佐賀でも主張していましたが、もう次の段階に入っているのだと理解できました。
 中国徐福会・象山徐福会のみなさんが、私にこうした発表の機会を与えてくださったことには、ただただ感謝の言葉しかありません。私は今回、この大会がいつか開かれる時に発表しようと(開催への願掛け)、2012年に準備していた小論を発表することにしていましたが、主催者から「いま一番周りに伝えたいことを新たに原稿にして欲しい」と言われ、だとすれば2012年に尖閣諸島問題で象山大会が期限なしの延期になったこと、当時どのようなやり取りを中国徐福会としたのか、あの2012年9月のことをこの大会で確認しておくことに決めました。今後の徐福伝説を取り巻く交流史に残しておくべきことだと考えたからです。
 この発言については、あとから日本の方に「よくあの場で言えましたね」と言われたのだけれど、私が徐福関係者だけでなく地方政府の方たちが多くいる前でこの発言をすることについて躊躇しなかったのには、何よりも同時通訳への信頼があったからです。今回もまた北京から4人の国レベルの同時通訳の方たちが来てくださいました。そのリーダーで日中担当のYさん、日韓担当のKさんが私の古くからの友人で、二人から私が発表するときは必ず二人が担当するから、私の発言を確実に伝えるから安心して欲しいと言われていたのです。それは本当にありがたいことでした。
 18:00基調講演が終わり、ホテルの会議室から、大ホールに移動。「2016中日韓徐福文化象山フォーラムの夕べ「山と海の伝説」」と題して徐福の音楽舞台がありました。背面の映像とパフォーマンスに圧倒されました。
 そのまま円卓での大宴会が始まり、大盛り上がりで散会。
 
 6月16日、2016中日韓徐福文化象山フォーラム二日目。8:30大会議室で論文検討会。中国:張良群:中国徐福会副会長、日本:田島孝子:日本徐福協会会長、韓国:金享受:済州徐福文化国際交流協会理事長の3人が順に座長をつとめ、15人の発言がありました。
 スタートは今回の会場である象山県徐福研究会の代表。テーマは「徐福東渡と古越文化」でしたが、昨日の私の発表を受けて、急遽テーマを変更、2012年あの日の象山のことを話してくださいました。そして今日のこの日を迎えることがどんなに大変だったか、ずっと開催許可がおりないなか、象山県のある寧波市が日本の奈良、韓国の済州とともに「東アジア文化都市」に2016年選定されたのを知り、これはチャンスと申請し、やっと開催になったことを知りました。こうした事情はなかなか表に出てこないことで、前日の私の発言に共感していただいたことがわかり、本当に嬉しかったです。
 「東アジア文化都市」選定は日中韓の首脳会議で決まった国際イベントだそうで、選定されると1年間この名義を使って様々な文化イベントができるのだそうです。そう言われてみれば、今回の配布物には全て「東アジア文化都市」のマークがついていました。
 みなさんこの日のために準備した発表だから、本当はもっと時間が欲しかったと思います。その点では気の毒でしたが、私は飛行機の都合で途中で会場を抜けることになっていたので、閉会時間が早まり最後まで聞くことができたことは、心残りがなく有りがたかったです。
 10:45早い昼食を取り、11:30車で上海浦東空港へ向かいました。昼食時に羽田孜さんの息子・次郎さんと話しているうちに、ほぼ同じ頃に中国に初めてきたことを知り、1985年ごろからの激動の中国を肌で感じてこれたことは、自分たちに本当に良かったという話になりました。次郎さんは、だからこそ父親の祝辞を届けたいと思ったのでしょう。主催者も羽田次郎さんの参加に感激している様子でした。
 車は上海に入ったころから渋滞。高速道路のいつもの渋滞なのか、それとも事故?と思っていたところで、隣に座っていた新宮市職員Tさんが「今日は上海ディズニーがオープンです」というので、それが本当の理由かどうかはわからないものの、みなで納得。今回の大会は上海ディズニーオープンの日として忘れられることはないと思います。
 15:00上海浦東空港着。6月12日の第二ターミナル爆破事件を受けて、空港に入るのに2段階「爆破検査」と書かれたところで止められましたが、なんとか入場できました。フライトは遅れたものの、中部国際空港からの最終列車に間に合い、夜中12:30帰宅。

千灯徐福記念館、
そして蘇州徐福研究会へ
 
 今回、私は象山に行く前に江蘇省蘇州市崑山市にある千灯徐福記念館に行ってきました。6月13日、上海浦東空港に到着すると、空港まで蘇州市徐福研究会会長が迎えにきてくださっていて、すぐに千灯徐福記念館に向かいました。上海浦東空港から約100キロ、車で2時間ほどで到着しました。
 これまで徐福記念館というと、どこもかなり不便なところという印象がありましたが、ここは「千灯古鎮」という水郷地帯の古い町並みの観光地で、千灯徐福記念館はその古い町並みのなかの古い民家をそのまま使って展示館にしているのでした。だから違和感がなく、展示内容にはまだ課題もあるけれど、古鎮を観光していたら徐福記念館があって、徐福という人物を知りました、というような徐福との出会いを大いに期待できるところでした。
 なぜ蘇州の千灯に徐福?と思われるかもしれません。2500年もの歴史があるこの千灯、外来の侵略を阻むために、かつて北には長城が作られたように、南には防堤が作られたのだそうで、その防堤には土盛がつくられ、その上には遠望台と呼ばれる信号を出すところを建てたのだそうです。その千個目にあたるところが千墩(トウ=土盛)という地名になったとのこと。ところが文革時代に千墩とは名前が暗いということで、明るい漢字を当てて「千灯」になったとのことです。文化大革命にちなんだ名前があちこちにつけられたことは知っていましたが、古い歴史ある地名もそんなふうに変えられていった時代があったのですね。
 千灯に残る徐福伝説によれば、徐福には8人の子があり、1人はここに置いていかれ、3人を連れて行き、あとの4人は日本で生まれた子だといいます。数回に渡る徐福渡海の5度目の成功はこの地からの出航なのだそうです。この地に残された子は姓を王と改め、後の人は始皇帝と徐福を記念して延福寺を建てた(寺名を改めた?)といいます。
 古い町並みを満喫して千灯を発ち、車で1時間ほどで蘇州市に入りました。はじめに蘇州市徐福研究会事務所(小学校の敷地内の建物の2階を使っています)を訪ねました。新旧委員のみなさんが集まってくださり、食事会を用意してくださいました。元会長の管正さんは現在84歳。変わらずお元気そうで、他にも懐かしい方々にお会いできました。
 何年前のことかは忘れてしまったけれど、管さんから蘇州市徐福研究会顧問をとお話をいただいたとき、まだまだ早すぎると言ったら、そんなことはわかっていると言われ、私への励ましと受け取ってお引き受けした経緯があります。残念ながらまだその名にふさわしい役割を果たせてはいませんが、蘇州市徐福研究会がこの地域らしさを出していくことができるよう、これからも応援団をつとめていきたいと考えています。
 20時30分みなさんと記念撮影し杭州に出発。

 以上、今年の上半期は大きなイベントが続きました。ですが下半期もその勢いは衰えません。
 例年通り8月12・13日には和歌山県新宮市で熊野徐福万燈祭、徐福供養式典と新宮花火大会がおこなわれます。
 10月初旬には韓国済州島・南海で徐福の国際会議がおこなわれます。
 10月22・23日には日本の山梨県富士吉田市で「富士山徐福フォーラム国際大会」が主催・富士山徐福学会、共催・神奈川徐福研究会でおこなわれます。詳細お問い合わせは富士山徐福フォーラム国際大会実行委員会 fujisan@way.ocn.ne.jp までおねがいします。
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徐福 XUFU SEO-BOK JOFUKU − 徐福伝説を「縁」とした地域と人とのネットワーク-
http://xufu-net.sakura.ne.jp
 トヨタ財団ネットワーク形成プログラム「アジア隣人ネットワーク」助成(2006年11月―2008年10月)によって作成したものを継続して管理しています。細々と徐福を取り巻く中韓日の状況、私の知り得た情報をお伝えしていこうと思います。「徐福掲示板」には自由に書き込むことができます。まだまだ不完全なページですが、見守っていただければ幸いです。
逵 志保(徐福に関して)
日本:日本徐福協会顧問・熊野市観光大使・八女徐福会顧問/中国:蘇州市徐福研究会顧問(江蘇省)・連雲港市徐福研究所特約研究員(江蘇省)/韓国:巨済徐福会研究顧問(慶尚南道)・済州徐福文化国際交流協会諮問委員(済州道)
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