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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/
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最古の舟型木棺、弥生中期の舟葬
by :
木村正治
at : 2009/02/23(Mon) 16:04
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非常に重要な内容を秘めているので、既に読まれているかとは思いますが全文を載せておきます。
「最古の舟形木棺」2000年前、弥生中期の舟葬
名古屋市北区の病院建設予定地から、最古とみられる舟の形をした木棺が発見された。約2000年前の弥生時代中期のものとみられ、これまでに発見された舟形木棺より約200年さかのぼるという。舟形木棺は死者を死後の世界に送る乗り物といい、同市文化財保護室は「弥生時代の死生観を知る貴重な発見」としている。同室によると、発見されたのは同区平手町1の「平手町遺跡」。木棺は長方形の方形周溝墓(11m*7,5m)の中央付近で見つかった。長さ2・8m、最大幅が0・8mの舟形で、へさき側に足側を入れるよう収容されていたという。内容からは鎖骨などの人骨が発見され、身長155?とみられる。棺は頭部側が南東、足側が北西を向いており、同室は「太陽の沈む西側に向けた舟葬の方式とみられる」と分析している。舟葬は弥生時代から古墳時代まで続いた風習といい、今回の木棺から木製容器の副葬品が1点見つかっている。舟形木棺はこれまで京都府京丹後市の「金谷1号墓」で、約1800年前の弥生時代末期とみられるものが見つかっており、今回の発見で約200年さかのぼる。また、金谷1号墓は木棺の痕跡があるだけで、ほぼ完全な形で木棺が発見されたのは初めてという。以上2月22日 毎日新聞
朝日新聞には「舟が現世とあの世を結ぶ交通手段と考える「舟葬」という習慣が弥生時代中期までさかのぼることが明らかになった。弥生人の死生観を考える上で、貴重な発見だ」同市教委。
京丹後、名古屋にも徐福伝説はある。
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竜の詳細、有難うございました。
by :
木村正治
at : 2009/02/23(Mon) 14:48
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高木さん、竜の詳しい説明を頂き有難うございました。
竜を含めて古代中国思想が、徐福の渡来時期までに伝わっていたのか、いなかったのか?
徐福によってもたらされた古代中国思想が、あったのか無かったのか? 太陽祭祀との関連は如何? この辺が私の最もの関心事項です。
もちろん潮岬遺跡と笠嶋遺跡、全国の遺跡から徐福一行の渡来の痕跡を探り当てたい気持ちもあります。
高木さんの言う「土井ヶ浜遺跡」をインターネットで拝見しました。本当に徐福一行に近い遺跡ですね。近いというのは徐福一行と断定できないだけで、そのものという印象を受けます。
ところで最近名古屋市北区で発見された、毎日新聞が一番詳しいのですが、弥生中期の、舟形木棺、長さ280?、幅80?、高さ10cm、この地の有力者で身長は155?、舳先を北西に頭は南東に向いている、解説に西日を意識しているについて所感、関連事項がありましたらお願いします。写真の舟は大きな節くれが4か所あり、刳り船と見えます。取り急ぎ御礼を兼ねて失礼します。
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[151]
徐福さんは観光旅行に来ていたのか?
by :
岡本
at : 2009/02/22(Sun) 21:35
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私は五穀豊穣を持ってきて全国三千人を率いて観光旅行にきたらそこで弁当を食い終わって祖国に帰らざるを得ないだろうと考えている一人です。
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[150]
日本中どこを掘っても遺跡は出てきます。
by :
岡本
at : 2009/02/21(Sat) 22:07
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私たちのご先祖様が生活していた跡なのですから日本中どこを掘っても遺跡は出てくるでしょう。そんなことより徐福さんがこの国で何を伝えたのかを研究するほうが大事なのではないのですか?出てきた遺跡の品評会ならいくらでもできると思うのですが?素人の考え方です。
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[149]
弥生の龍の土器
by :
高木豊博
at : 2009/02/21(Sat) 16:17
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木村さんの龍の土器についての問いかけに、どなたもお答えにならないことに残念な思いをしていました。もう引退するように考えていましたが、今日ちょっと時間がありましたので、木村さんの熱意に答えて最後になりますが久しぶりに筆を取りました。
(1)龍を描いた青銅器やガラス器(玉器)
龍は中国で生まれた想像上の生物です。ただ龍の起源については、古代の長江などの南の河川に生息していたワニではないかと言われています。紀元前17世紀頃から11世紀にかけての商の時代の甲骨文に現れ、その後青銅器の金文や青銅器にその姿が見られるようになります。春秋時代に入った燕の宮殿の大門につけられた装飾用のドアノッカーにはとぐろを巻いた龍がデザインされていますし、河南省に本拠を置いた鄭国から出土した蓮と鶴をあしらった方形の青銅の壷(こ)には空を飛ぶ龍が取り付けられています。形は後代のものと比較してシンプルですが、ほぼその形はみてとれます。その他青銅器の楽器のめい鎛(はく)や鼎(かなえ)にも見られます。
精神理念の象徴であり装飾品でもある玉器にも龍が登場します。戦国時代ではS字型の玉珮(ぎょくはい)が流行し、そこでは龍の体が湾曲したS字型になっていて、頭は振り返った状態になり、上唇は巻き上がり、下唇はカギ状に曲っています。ただし龍には足があるのですが爪がありません。また青銅器や玉器だけでなく絵画のなかにも描かれるようになり、時代が下がるごとにポピュラーなものとなります。
徐福のいた秦の時代の秦公鎛(青銅の楽器、しんこうはく)では象形化した蟠螭文(ばんちもん)が見られますし、安車(あんしゃ、始皇帝の専用車)の扉には龍鳳文(りゅうほうもん)が描かれます。漢代の張衡は地震の測定器(地道儀)を発明しますが、その青銅のまわりには、後代に見られるはっきりした形の龍が見られます。ただまだ爪は3本です。
(2)『淮南子(えなんじ)』でも龍
龍の形がはっきりしてくるのは、前漢の『淮南子』の記述からです。ここでは、龍の種類として飛龍(ひりゅう)、応龍、蛟龍(こうりゅう)、先龍があり、これから鳥類、獣類、魚類、甲殻類の動物が生まれたとあります。また「龍に九似(きゅうじ)あり」として、角は鹿、頭は駱駝(らくだ)、目は鬼(幽霊のこと)、項(うなじ)は蛇、腹は蜃(みずち)、鱗(うろこ)は魚、爪は鷹、掌(たなごころ)は虎、耳は牛に似ていると書いてあります。まったくこれらの合成ですが、そうすると強くなると思っていたのでしょう。後代武田信玄が龍の旗を押し立てて戦ったような感覚でしょうか。また口辺に長い髯、喉下には一尺四寸の逆鱗があり、あご下に宝珠を持っていると言われています。秋には池の淵に沈み、春に天に昇ります。この飛龍は、第二次世界大戦でのミッドウェイの戦いにおいて、最後まで戦い抜いて沈んだ空母の名前でもあります。
龍には「龍」と「竜」の2字がありますが、「竜」の字が古い甲骨文字に現れるためこちらが古く、後に荘厳にするために「龍」に変わったものです。意味は同じです。この龍がのちに皇帝のシンボルとなるようになったため、皆さんが威厳の象徴として位置付けするようになります。5つの爪が皇帝の印で、庶民は3つの爪などというきまりも後世にできます。
(3)日本に伝わった龍
龍の姿を描くことは、2〜3世紀朝鮮半島に伝わり、その後日本の弥生時代の絵画土器に描かれるようになります。これは中国の龍の基本形が、後漢の時代に固まったからと思われますし、その時中国の鏡を通して日本に入ってきた可能性や海人族のうわさで広がったことも考えられます。これは弥生時代に描かれる龍が、北九州で見つかっている中国製の方格規矩(ほうかくきく)鏡の龍に似ているためです。
下記に日本で出土した龍を描いた絵画土器等を一覧にしてみました。全て弥生後期のものです。
? 長崎県 壱岐市 原の辻遺跡 土器
? 福岡県 稲築町 口春遺跡 甕
? 熊本県 城南町 宮地遺跡 台付舟形土器
? 鹿児島県 金峰町 諏訪前遺跡 土器
? 鹿児島県 鹿児島市 鹿児島大学遺跡 土器
? 宮崎県 宮崎市 下郷遺跡 土器
? 岡山県 岡山市 天瀬遺跡 器台
? 兵庫県 神戸市 玉津田中遺跡 甕
? 大阪府 茨木市 東奈良遺跡 壺
? 大阪府 八尾市 恩智遺跡 壺
? 大阪府 八尾市 八尾南遺跡 土器
? 大阪府 東大阪市 亀田遺跡 土器
? 大阪府 柏原市 舟橋遺跡 壺
? 大阪府 和泉市 池上曽根遺跡 壺
? 大阪府 岸和田市 下池田遺跡 壺
? 奈良県 田原本町 唐古・鍵遺跡 壺
? 滋賀県 津市 六大A遺跡 壺
? 愛知県 豊橋市 高井遺跡 紡錘車
? 愛知県 清州市 朝日遺跡 記号文土器
以上ですが、残念ながら木村さんの云われていた静岡県については分かりません。
これらの描かれた龍の姿をみると、足が三角形のひれのように描かれているものが多く、稚拙で本当に弥生人が中国で確立された龍の形を知っていたか疑問のところがあります。多分中国に行った海人族が聞いた話を又聞きして想像をふくらました本土の弥生人が頭をひねりながら考え出した絵だと思われます。また全ての出土品が弥生後期であるため、徐福と直接つながるものではありません。勿論徐福は龍そのものを知ってはいたでしょうが、皇帝のシンボルを自分の使う土器や壺に描くことは、心情的なものでしなかったでしょう。
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[148]
徐福さんは日本に何をしに来たのですか?
by :
岡本 伸次
at : 2009/02/21(Sat) 11:36
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まず全国の視察でしょう、次にすることは開拓ではないでしょうか。葦に覆われた湿原地帯を農地に変えるためには何年かかるでしょうか?奥の院、上宮、中宮、下宮から辺りを見回して見れば新しい発見があるかもしれませんね。
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[147]
竜の土器その2
by :
木村正治
at : 2009/02/18(Wed) 11:42
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土器に描かれた竜の元は、唐古遺跡から出土した銅鏡の四神の青竜だとありました。
竜は仏教にも八大竜王、八歳の竜女が登場し大変重要な役目、いわゆる畜身、女人の即身成仏を現しています。
中国においても恐竜や九つの動物の部分をモデルにする空想上の動物でありながら、十二支の中に取り入れられたり、皇帝の尊称として別格に扱われたり、今に至るまで風水等にも登場する息の長い存在です。
一方で蛇も各国で水や農業に関係する生き物として尊崇されたり、竜蛇として同格に扱われたり習合したりしています。
ともあれ中国古代思想は、秦始皇帝までに既に完成されています。その中で竜は大切な役目を果たしており、
徐福一行にも深く浸透していたと想われます。
日本神話の中では、スサノオが竜ではないかと考えています。
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[146]
龍の土器
by :
木村正治
at : 2009/02/09(Mon) 17:07
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鳥居さん、「日本人が最初にに見た漢字」は見逃しました。西暦14年とあります。詳しい情報を求められたとのこと、大変に楽しみにしております。
2月6日の毎日新聞に「土器の龍」が写真入りで掲載されていましたね。
龍は池上正治さんの専門ですが、ぜひにコメントを発表して欲しいものです。
1900年前、弥生時代中期の和、倭製の龍紋で、鹿児島、岡山、静岡に分布しているようです。特に岡山に多いとしています。
一説と断って、龍紋の素は佐賀で発見された四神の鏡を写し取ったものとしています。
龍は四神の青龍であり、古代中国思想の要ですから、間接的であっても徐福に繋がる可能性があります。
この土器の展示会が確か大阪近くであると書いていたと思います。
古代龍に詳しい方のコメントをお願いします。
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[145]
「日本人が最初に見た漢字」と「半両銭」
by :
鳥居貞義
at : 2009/02/08(Sun) 04:46
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平成21年1月27日発行の毎日新聞朝刊の記事に
「日本人が最初に見た漢字」として弥生時代中期
の土層から発掘された中国の古銭で西暦14年に
鋳造されたものとしている。」というのがあったので
以下のコメントを書き送ったが、返事は通常2週間
後とのこと。楽しみに待っている。
これは徐福研究者としては見逃せない記事です。
紀元前に徐福が持ち込んだと考ええられる「半両銭」
が各地で発見されているからです。
「半両銭」が秦の始皇帝の時代に鋳造され、流通して
いたことは中・日考古学者が認めているところだ。中で
も熊野の波田須で発見された「半両銭」は徐福東渡の
科学的証拠になると期待されている。
大阪徐福友好塾 鳥居貞義
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[144]
日めくり万葉集
by :
鳥居貞義
at : 2009/02/08(Sun) 04:28
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木村さん
毎々ご苦労さんです。
「読む楽しみを奪わないでください。」というのは至言ですね。
ところで、NHKの「日めくり万葉集」は月〜金の5分間番組なので出来るだけ聞くようにしています。
NHKの「日めくり万葉集」第2集・2月号に以下の興味深い記事があります。
1、著名な考古学者の森浩一さんが和歌山の岩代(磐代)で有馬皇子が詠んだ歌を解説しています。他に万葉研究の第1人者中西進さん、柳生博さん、ドナルド・キーンさん、浜美枝さん、俵万智さんなども解釈に挑戦しています。
2.私が代表をしている「天の川七夕星まつりの会」が建立した万葉歌碑のことが1頁、80頁に写真入りで紹介されました。
「万葉歌碑」に半生を捧げた在野の学究の記事も興味深く読ませてくれますよ。