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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[363] 徐福王国相模 by : 前田 豊 at : 2010/08/08(Sun) 15:50

 神奈川の徐福伝承をベースとした、古代秘史の解明に関する拙著「徐福王国相模ー秦氏の刻む歴史ー」が、2010年8月15日付けにて、彩流社から刊行されます。
 ご興味があれば、読んでみてください。

目次は、第1章 神奈川における徐福伝承
第2章 徐福伝承を伝える人々
第3章 日本における徐福の存在の重要性
 そのほか、秦氏の歴史、日本人のルーツに関する考察や古史古伝と徐福に関する考察も行っています。

[362] 分科会提言テーマに関するお願い by : 鳥居貞義 at : 2010/08/07(Sat) 14:34

私は「七夕伝説」「徐福伝説」「鳥居龍蔵」の3つのテーマで中国との文化交流に寄与したいと考えています。
「七夕伝説」のことで湖北省鄖西県からセミナーに招聘したいというメールが入りました。鄖西県は初めて聞く地名でもあり、費用や通訳のこともあるので、たまたま行く予定にしていた上海万博に日を併せて上海であれば合うことが出来ると返信したところ、県長(党書記長)以下テレビ取材班も入れて6名が上海に来られて会うことになりました。討議の中で再度湖北省鄖西県訪問を要請されました。通訳とホテルは先方で準備するという条件で上海〜西安経由で行く決心をしたのですが先方が準備しているセミナーが上海万博‘なにわ(728)の日’と重なったので関空〜上海便は満席で安いチケットが入手できず、北京経由で行くことになりました。
セミナーの状況は現在の日本ではどちらかと言えば「七夕伝説」は観光やビジネスとの結びつきが強いのに対して中国では学者を中心とした学問的研究が先行しています。事実湖北省鄖西県より招聘された参加者は大半が大学教授の肩書きを持ち北京などの有名大学及びそれぞれの学会で活躍されている。そのような中で最初に私の氏名があるのは外国から出席した唯一のゲストスピーカーと云うことで敬意を表してくれたものと思われるが恥ずかしい限りでした。(※この日本文は誤解され易いので中国語に訳すときには素直に‘光栄’であると訳して下さい)
参加されたスピーカーの中に数年前にシホ先生から紹介された北京師範大学民族学の蕭放(XiaoFang)教授も参加されておられ、奇遇に驚かされました。実は北京経由となったので北京師範大学を訪ねるべく北京在住の徐福仲間に段取りをお願いしていたのですが偶然セミナー会場でお会いした次第です。
この掲示板にご無沙汰していた事情は湘南平塚で開催された七夕サミットに参加したことを含め上記の事情がありその説明に前置きが長くなりましたが本題は高木さん他徐福研究仲間へのお願いです。
10月のセミナーに小論を書くことになっていますが再度分科会による討議を提案したいと考えています。徐福研究はあまりにもテーマが大きく最早総論からは生まれるものは期待できません。個別分科会で討議することによって中身がより一層充実すると思います。各分科会には必ず日中双方のメンバーが入ることが重要であることも提案したいと考えます。又、都合で分科会に参加出来ない人もテーマ別に書類で意見を送れば討議することも可能になります。
分科会のテーマとしては徐福東渡の時に船積みした「五穀」、同行した「百工」、連れて来た「童男童女」、武器「連弩」、「竹簡」、「半両銭」等々です。又「稲作」、「捕鯨」、「度量衡」等々のソフトもその対象になるでしょう。
実はこれらのことは既に提言しているのですが、わが師松下幸之助翁の「継続は力なり」に従って引き続き提言する積りです。
例えば「五穀」については高木さん、赤碕さんがこの掲示板に纏めて発表しておられた内容を紹介したいと考えます。
その内容について私宛に直接メール又はこの掲示板にセミナーで引用することを前提に送って頂きたいと思います。
直接メールでお願いしようかとも思いましたが掲示板に公表することで引用したことが公になり、より多くの仲間が関心を示すようになれば話題が広がると考えて敢えて掲示板でお願いすることにしました。「五穀」以外のテーマも含めて高木さん以外の人も送って(又は掲示して)頂ければより大きな力として提言出来ると期待しています。
但し、内容によっては引用しないこと、出来ないこともあることを前もってご了解願います。
メールを送って頂いた人には採否を問わずお礼に代えて湖北省鄖西県で開催された七夕セミナー報告書(未公表)又は上海万博お徳情報(公表済み)を送らせて頂きます。







 

[360] 掲示板動き出しましたね! by : okamoto at : 2010/07/28(Wed) 21:40

色んなところに色んな伝承がある、それは史実でなければとんでもないフィクションです!そんな物語を作れる人はたいへんな才能の持ち主でしょう!出会った史実を大切にして行きたいものです。

[359] Chin Kii 先生 by : Masaharu Kimura at : 2010/07/26(Mon) 17:28

 はじめまして!
失礼ながらメッセージを送らせて頂きます。
 本当に新鮮な、そして新たな視点の、そして具体的な、そして深遠な、徐福渡来を証明していただきまして、深く感動いたしました。
 私は浅識ながら、これほど確かな徐福の論証を、今まで見たことはありません。
 これからも幾度となく、読み返し理解を深めたいと存じます。
 どうか、徐福友好一員の末席にお加え下さい。

[358] 徐福東渡2228年前 by : chin kii at : 2010/07/26(Mon) 08:26

徐福が童男五百童女五百を船で運び、捕虜の収容所を作った場所が東京都伊豆の八丈島です。帆船の石が発見されいま調査中です。韓国にある徐福到着の港や砂浜に丸石の残骸があれば連絡をください。調査の協力をお願いいたします。渤海の調査地域にも韓国の大学が遺跡調査していますが、古代船長さ120m幅20mが衛星写真にはっきり撮影されます。船底に丸石があるか調査要請をしたいです。

[357] スクナヒコナと熊野岬 by : 木村正治 at : 2010/07/24(Sat) 19:43

さて、 このスクナヒコナは国造を終えて、熊野岬からトコヨの国に帰ってしまう。
 「葬られた出雲王朝」では、この熊野岬を出雲の「熊野神社」のある岬と解している。
 萩原法子「熊野の太陽信仰と三本足のカラス」では、熊野神社のルーツは和歌山県の熊野神社にあり、ここから全国に勧請されたと証明している。
 であるならば、スクナヒコナのトコヨに帰った岬は、和歌山県の熊野岬であり、熊野の潮岬と解すべきであろう。
 神話の神武天皇の熊野における行動が、この辺を物語っている。
事実、潮岬の先端、本州最南端に位置する「潮御崎神社」の祭神に全てが凝縮されているように思える。
 すなわち、主祭神にスクナヒコナを、天照大神と大国主を脇神に配している。
 さらに重要なことは、夏至の太陽を祀る、全国屈指の一万坪に及ぶ、広大な祭祀場を神社域内に擁していることである。

[356] 反応しているということです。 by : 消したところに価値がある! at : 2010/07/22(Thu) 21:46

皆さん色々な意見があります、それはそれで重視しなければいけませんが悲しいかな必ず前例があってそこにこう書いてあった!とやります。消されたことは誠に結構なことで私が書いたことを基に広角的に色々考えていきましょう。あの偉い先生がこう言っていた!では何度も言いますが何も見えません!自分の生活―2200年=日本の始まり!私の書いたことを手探りに自分の研究を進めていってください。そうしたらひょっとしたら私に会えるかもしれません。それではさようなら、バイバイ!

[355] スクナヒコナと徐福 by : 木村正治 at : 2010/07/21(Wed) 11:40

神話は、時系列を無視して構成される。
 出雲のオオクニヌシ命に協力して、国造りを進めたのが知恵者スクナヒコナとされる。少彦名とも表記される。彦は往々にして日子と表されるから、名は体を表す道理、体は小さく、親の高木神の指間からこぼれたほど。出雲の沖合、波間に漂いながらオオクニヌシのもとに現れる。
 智恵、穀物、酒、薬、温泉の神とされ、驚くほど、徐福に似通っている。

[354] 天照、須佐、大国 by : 木村正治 at : 2010/07/18(Sun) 18:33

 記紀神話は概して、神武、崇神天のハツクニシラススメラミコトに代表される大和朝廷の正当性、権威付けをアピールしている。
 そこに太陽神たる天照大神を祖神として登場させる。この太陽神は最高最大威力を発する、夏至南中の太陽そのものであると、私は解している。
 ヤマト王権の祖神がアマテラスオオミカミであることに対して、出雲王朝の祖神はスサノオノミコトである。
 梅沢氏は、スサノオを朝鮮系であるとしている。
私はスサノオを龍神と解しているので、中国から朝鮮を経た神であると思っている。
 スサノオ直系の大国主命が出雲王朝の主である。
 
 

[353] [ by : 木村正治 at : 2010/07/17(Sat) 19:54

 梅原猛「葬られた出雲王朝」の何処にも、当たり前のことながら、徐福のジョも出ていない。
  しかし、徐福が透けて見える気にさせてくれる読後感がある。
 氏は、強い自己批判をし、出雲の歴史は、ヤマト王朝の投影にすぎないとした過去の見解を覆された。
 つまり、神話を正しく解釈し、新たに出土した出雲周辺の考古学資料に基づいて考察したところ、ヤマト王朝以前に、出雲王朝が存在したことを認めたのである。
 そして訪ね行く先々、出雲大社等の宮司に過去の誤りを謝罪されている。

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