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Event Report : 日本・和歌山県新宮市「徐福講演会」の報告

日本・和歌山県新宮市で毎年恒例の「徐福講演会」が行われました。
報告は新宮徐福協会の鈴木秀さんです。内容にも触れていただき、感謝しています。

  2月17日(火)午後1時30分から新宮商工会議所大会議室で、
  新宮徐福協会主催の「徐福講演会が」開催されました。
  講 師   山崎泰氏(新宮市立図書館司書)
  演 題   「徐福を巡る人々〜明治・大正・昭和〜」
  聴講者   約70名

  講演内容
  1.徐福の墓の碑について
   徐福の墓は、江戸時代には藩から保護されていたが
   明治時代に入り墓は荒らされ敷地もせまくなっていた。
   また、墓が田圃に投げ込まれるということもあり、
   これに憤慨した地元青年会が立ち上がり保護活動を行い、
   周囲を買収したりして次第に拡張していった。
     
  2.七塚の碑について
   「七塚の碑」は江戸時代の速玉大社の新宮末社図にも描かれていたが、
   所在ははっきりしていなかった。
   しかし、昭和29年の紀南新聞記事に七塚の所在が載っている。
   七つの塚が「北斗七星」の形で徐福の墓を守っているように囲んでいた。
   しかしつなぎ合わせてみるときっちりした「北斗七星」にはみえない。
   聴講者の中で点をつないでみてほしい。
             
  3.新宮保勝会について
   新宮保勝会は観光協会の前身であり、
   大正末期の国立公園指定の運動の一環で当時の熊野地方各地にできた。
   徐福の保存会もそのような状況の中でできたものであるが、
   明治の末期に30坪だったものが昭和10年に489坪にもなった。
   これは保存会の大きな力であった。
   昭和12年には、中国風の楼門ができたが、昭和21年の地震で倒壊した。
   この楼門の有無で写真の年代測定ができる。

  〈仁井田好古の碑文の建立〉
   碑文については、天保六年に制作され船で運ぶ途中に沈んでしまった。
   現在の碑文には天保五年となっており、なぜ天保五年になったか不明である。
   逵先生の著書『徐福伝説考』も出されて先生が疑問視されている部分を朗読しました。
   これについての資料はないため、資料についてわかればぜひ教えてほしい。
     
   最後に質疑があり、二人の方から質問がありました。

   あまり講演会のお知らせもしていなかったようですが、当日は約70名程の方が聴講され徐福に対する熱い思いを感じられました。





by:
horuhoru
at:
2009-2-20 9:03:30
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