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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[374] 御礼 by : maeda at : 2010/08/18(Wed) 18:20

鳥居 様、 木村 様

 さっそく、アマゾンで小著をご購入戴き有難うございました。 お恥ずかしいものですが、私なりに気力を込めて書いた著書ではあります。
 また、本HP掲示板で記載した小生のコメントに共感していただきましたこと感謝いたします。
 今後一層の多方面でのご活躍を祈念申し上げます。

 maeda

[373] 分科会資料について他 by : 高木豊博 at : 2010/08/18(Wed) 13:49

鳥居先生

ご無沙汰しています。

先生のこれまでのご苦労に感謝しています。徐福の問題も伝統・伝承の世界から抜き出つつあるのは先生に負うところが大きいのではないかと考えています。その過程で中国側の意見については、注意する必要があると思います。「捕鯨」「神武天皇」などなど無理と思えるものも平気で提案してきますので、それを見破る必要があるでしょう。

日本側の最近投稿のあった「子産石」なども、重石 が船に使われだしたのはせいぜい6、7世紀で、オールを漕いでいた時代に水浸面積を増加させれば摩擦抵抗で舟が進まないのは、以前の古代舟で証明されているのですが。徐福の研究をすすめるには、これらを見破る知識と経験を持つべきだと考えます。

私が書いたものは、これを投稿している会社のパソコンではなく私自身のパソコンです。殆どの小論文はこの中にありますので今は取り出せませんが、9月始めに数日間日本に戻りますのでその時に送ります。その後はまたフィリピンの別な島に行きますので、席が暖まる暇がなく、十分な対応が出来ずに申し訳ありません。還暦を過ぎてから逆に急に忙しくなってきて、体力に気をつけなければと考えている所です。

ところで私は伝統や伝承を無視することはしていませんし、そういうのは好きな方ですから実家には日本中のものがありますし、私の部屋にもそれなりにあります。ただこれらをどのように扱うかに神経を使っていて、その成立時代、背景等々を十分に踏まえて接したいと思っています。ただ物証を見つけるのは、殆ど困難ですね。伝承といえば以前ちょっと紹介させて頂いた「矢部風土記」も貴重な文献で、まだ 皆さんには知られていませんので、私が少しずつお知らせしているところです。

私が今いるフィリピンは、面白い国ですね。今の島ではイロンゴ(現地語)、タガログ、英語の3言語を誰もが話せて間違えることはないそうですし、人種としてはフィリピン現地系(各地で少し違いがあります)、スペイン系、中国系、一部アメリカ人系、黒人系などが混雑していて不思議な感がしています。徐福が日本に上陸して当分の間、日本語と中国語が同時に話されていた時代があったでしょうが、フィリピンの人々をみると、コミュニケーションは別に問題になるようなことでもなさそうです。

[372] 徐福東渡の証明手段 by : 鳥居貞義 at : 2010/08/18(Wed) 09:13

前田さん
私とは違った前田さんらしい観点から見ておられるのですが以下の前田さんのご意見に大賛成です。
錦著がより多くに人に読まれることを願っています。

 文献情報はその作成者の意図が反映され、即歴史的事実とはいえないでしょうが、考古学的発掘情報で裏付けされれば、真実に近づくと考えられます。
 伝承は、ある地域全体に整合性をもって存在する場合、かつその情報を誰かが意図的に広めたと考えられない場合には、過去に存在した事実の集団的記憶が裏付けになっている可能性が高く、ある程度歴史的真実の可能性が高いと思います。
 伝説や伝承を無視するというより、それを利用して新たな物証を見出すことこそ、本質に迫る研究ではないかと考えております。
 人それぞれ、いろんな意見はあると思いますが、批判より、前向きに議論することを期待しております。

[371] 再び分科会について by : 鳥居貞義 at : 2010/08/18(Wed) 09:06

高木さん
アフリカからフィリピンへ世界を股にかけてご苦労さんです。
さて、国際シンポジュームでは相互に意見を出して議論することに意義があります。

徐福伝説に関する有力な物証として過去に五穀、半両銭、連弩等々、又、技術ノウハウとして度量衡、捕鯨等々を報告し中国側の見解を求めましたが秦皇島徐福会の劉鎮奇?先生からの見解(『徐福さん』196頁)が唯一のものでした。
技術ノウハウについては出雲巨大神殿の研究で有名な東北芸術工科大学の宮本教授から見解を書いた書面を頂きました。
テーマ毎に関心のある究友(造語;研究する仲間)が議論出来る場を設け研究内容を昇華することに意味があると思います。

嘗て中国側の発表者から徐福は日本に捕鯨の技術を‘教えた’と云う発言があったので、教えた内容、即ち、2200年前の中国の捕鯨技術はどんなものか示して欲しいと云いたかったのですが総合の会議では発表だけが優先して議論の場がなく誠に残念でした。最近は幸い私の提案が認められて同時通訳がなされるようになったので議論は以前より容易な環境になっています。出来れば高木さん本人が参加されて直接意見を述べるのが望ましいのですが困難な場合には高木さんに代わったご意見を提起しようと云うのが私の趣旨ですので以前に発表されたものを改めて送って頂くことを願っています。

[369] 高野山から下界へ by : 鳥居貞義 at : 2010/08/15(Sun) 17:02

先祖の供養に高野山詣でをして南海、地下鉄、京阪を乗り継いで先ほど帰宅しました。
高野山は云うまでもなく弘法大師・空海が開祖ですが宗派に関係なく又信長も秀吉も三成も葬られて呉越だけで無く全て同舟という感じです。世界遺産になって以降、アジア外国人、欧米人が散見されます。又嘗ては女人規制であったがその時代にも女人堂が置かれていて包容力とコスモポリタンを感じさせてくれます。
パソコンと無縁であった千メートルのお山から下界に帰って早速パソコンに向かっている自分に症候群かと少し反省しつつもお山はお山、下界は下界と割り切って溜まっていたメールに目を通しています。
返信までは少し時間をください。

アマゾンで注文していた前田さんの錦著『徐福王国相模』が立派な大型の箱入りで到着していました。
「東三河」から「相模」への前田さんらしい「徐福行脚」の記録と分析を拝読できることを楽しみにしています。早速読みたいのですが25日から中国・東北と極東ロシア視察旅行に行きますので旅の友にしたいと考えています。

[368] アマゾン by : 木村正治 at : 2010/08/12(Thu) 18:23

 前田豊さん、早速アマゾンに手配しました。3日後には手にしていることでしょう。楽しみにしています。
 当方の潮御崎神社には、景行天皇28年に御幸があったと伝承されています。これは裏付けが取れません。
 また、当方の高塚の森遺跡は、応神天皇の第二侍従の墓として伝承されましたが、
 同志社大学考古学、大阪博物館主幹の安井良三、串本中学校長、文化財保護委員の北岡賢二等が、長年の緻密な実地測量調査、世界各地の類似遺跡との比較調査、天体観測の結果、日本最大の「夏至太陽祭祀場」であることを導出されました。
 この過程は、前田豊さんの意味される通りです。

[367] 徐福東渡の証明手段 by : 前田 豊 at : 2010/08/12(Thu) 17:42

木村正治様、高木豊博様

 小生の新著に関心を持っていただき有難うございます。
 当方を通じなくとも、インターネット書店「Amazon」で、既に扱われていますので、そちらから入手して戴く方が助かります。
 拙著では、今までに徐福研究家が、取り上げていなかった新しい文献や金石文、遺物などに関する情報を発掘し、歴史的事実といえるまで、情報の質を上げるための努力をしているところであります。
 文献情報はその作成者の意図が反映され、即歴史的事実とはいえないでしょうが、考古学的発掘情報で裏付けされれば、真実に近づくと考えられます。
 伝承は、ある地域全体に整合性をもって存在する場合、かつその情報を誰かが意図的に広めたと考えられない場合には、過去に存在した事実の集団的記憶が裏付けになっている可能性が高く、ある程度歴史的真実の可能性が高いと思います。
 伝説や伝承を無視するというより、それを利用して新たな物証を見出すことこそ、本質に迫る研究ではないかと考えております。
 人それぞれ、いろんな意見はあると思いますが、批判より、前向きに議論することを期待しております。

[366] 徐福研究の新視点 by : 高木豊博 at : 2010/08/11(Wed) 16:14

 ご無沙汰しています。アフリカから日本に戻りその足でフィリピン勤務となりましたので、今はフィリピンのとある島で暮らしています。

 鳥居先生が中国のセミナーで発表されることが掲示板に載りましたので、それに関して3つのお願いがあり投稿させて頂きました。この3つは分けることが出来ないものですが、文章の都合上あえて分けさせて頂きます。なお私が書いたものについては、どうぞお使い下さい。

一つ目は、鳥居先生が選ばれている項目は、私が以前投稿させて頂きましたように(半両銭、捕鯨等)日本では現在では殆ど調べ尽くされているものです。資料もそれほどありません。「五穀」以外その必要性を今ことさら主張してもどうしようもないと思います。その項目以外のものに早く目を付けて、研究を進めた方が良いと中国側へアドバイスをしてはいかがでしょうか。

二つ目は、私が以前皆さんに紹介した中国が始めて日本を描いた地図に徐福祠あるいは徐福相が載っていることは、非常に重要なことです。広與彊理図(水東日記第17巻:大倉集古館、アメリカ国会図書館所蔵)、声教広被図(国立公文書館所蔵)です。重文級の資料です。これらなくしては徐福の研究はないと思います。この点はぜひとも中国側に伝えて頂きたいと思います。これらの地図では、長門の西に徐福の文字が見られ、土井ヶ浜遺跡との関連が大きく、このことが分かったことで徐福というものの正体が見えてきています。

三つ目は、徐福の研究は今新段階に入っています。伝統と伝承のみで研究するという時代はとうの昔に過ぎ去っています。しかしまだこれにしがみ付いておられる方が多いには驚きますし、残念なことです。

 新視点という観点からいうと、例えば「何故徐福は集団で移住しようとしたか」に少し光が当たりつつあるようです。東京大学公開講座『ヒト・人・人間』75に植田信太郎が「DNAから見た日本人」を書いた中に、「驚いたことに、2500年前の山東省の人類集団は、現代ヨーロッパ集団と同じクラスターを形成した。(中略)以上のことから現代ヨーロッパ人集団や現代トルコ人集団に遺伝的に近い集団が、今から2500年前には、はるか東方の山東省に存在していたことが明らかとなった」とあります。つまり戦国春秋時代に山東省にいた人間集団は、今の漢族とはまったく違うヨーロッパ系の人種だったということです。

 中国では、近代遺骨やミイラのDNA分析の結果が進みいろいろな新事実が分かってきています。上記の結果は2000年に東京大学の植田信太郎氏、国立遺伝学研究所の斉藤成也史それに中国科学院遺伝研究所の王瀝氏らが、2500年前の春秋時代と2000年前の漢代の臨シ、それに現代の山東省臨シの住民から得たミトコンドリアでDNAの比較研究からです。この結果については斉藤成也氏の「遺伝子からみた東ユーラシア人」(Journal of Geography, 111(6))に詳しく紹介されていますが、要するに約2500年前の隣シの人々の遺伝子は、アイスランド・ポーランドの人種に近く、2000年前の人々の遺伝子はウィグル人やキリギス人などの中央アジアの人々によく似ており、現代のものは一部のキリギス人や日本人・韓国人などに近いものだということが分かりました。

 つまり古代の漢族と呼ばれている人々は、実は今の人々とは違った人種であったということです。春秋戦国時代を代表する人に孔子がいますが、この人は恐らく100%現在で言うヨーロッパ人であったでしょうし、当然徐福がいた時代の山東半島にいた人種は、トルコ系に近い中央ヨーロッパ人と現在のヨーロッパ人との間くらいの人種だったでしょう。

 秦の始皇帝の容貌は、史記には「鼻が高く、目は切れ長で、声は豺狼(やまいぬ)の如く、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主」と書かれています。秦の始皇帝陵から出土した兵士は現代のヨーロッパ人でした。始皇帝の父親の呂不韋はチベット人であったという説があるそうですが、中央アジアの民が間違って伝わった可能性があります。秦は元々西方から中原に移ってきた民族ですので、始皇帝自体にヨーロッパ人的な容貌が見られても不思議ではないでしょう。

 徐福の先祖は、夏や周王朝に仕えたといわれていますが、この両王朝も今ではヨーロッパ系であったことが分かり始めています。徐福の出身地は「史記」に「徐福は斉の人、琅邪の人なり」とあり、現在の江蘇(こうそ)省の韓楡(かんゆ)県と言われています。山東半島の付け根にあたります。徐福がこれらのヨーロッパ系の人種であった可能性も高いものがあります。

 これらを考慮すると、当時急激に北方や南方からのモンゴル民族の流入とともに混血が進み始めていて、始皇帝はこれに危惧してその血統を残す意味において、東方への移民を決意したのではないでしょうか。徐福が一度失敗してもあまりお咎めがなく、次の準備にかかれたのは民族を保護するという大きな目標があったためではないでしょうか。古代の漢族は、現在の漢族とは違った人種です。

 例えで書きましたが、このような提案を日本側はすべきと思います。

[365] 「徐福王国相模」 by : 木村正治 at : 2010/08/10(Tue) 18:21

 前田豊さん、「徐福王国相模」の上梓、おめでとうございます。
 早速購読したいのですが、インターネットの方がよろしいでしょうか。
 前田さんや、Chin Kiiさんのお陰で、相模の徐福に興味を惹かれます。
 地上の徐福から、海中、海底の徐福へは、想いもよらなかった視点です。
 徐福等の、古代船の石錨、そして石錨からの古代の大きさの推定、
 また古代船が子産石と称される中国産の丸石によってバランスされていた。
 その丸石が相模湾や八丈島に沈んでいた。
 とすれば、徐福伝説のあるところの海底には、丸石がかたまって存在しなければならない。
 各地のダイバーや漁師に、その存在を聞く必要が生じたのではないでしょうか。

[364] 吉報と訃報 by : 鳥居 貞義 at : 2010/08/09(Mon) 16:47

富士吉田徐福会の土橋寿先生から以下の連絡を頂きました。
吉報;
中学2年生のお孫さんが「徐福伝説」を今年の自由研究のテーマに選んだそうで国内各地の徐福伝説地の資料を集めています。
「徐福伝説」のパンフレットなどがありましたら送付して下さい。
送付先;〒403‐0011
    山梨県富士吉田市新倉1168-1
    土橋 寿様気付 諸角玲奈様

誠に喜ばしいことです。各位のご協力をお願いします。
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訃報
徐福研究の第1人者であり、真説『徐福伝説』の著者でもあり、『徐福さん』に投稿(p30富士北麓・徐福伝説の考証)頂いた羽田武栄先生が逝去され8月5日に告別式を済まされたそうです。
ご冥福をお祈りすると共に謹んでご案内させて頂きます。合掌
ご遺族のご住所
〒403‐0007 山梨県富士吉田市中曽根1‐3‐14 羽田明弘様

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