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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[394] 10月22‐24日中国徐福国際会議 by : 鳥居貞義 at : 2010/09/13(Mon) 08:16

徐福研究でご縁を頂いている各位へ

夏越の祓もとっくに過ぎたと云うのに猛暑が続いていますが如何お過ごしでしょうか?お見舞い申し上げます。
私は機会があったので両親の法事を兼ねて高野山そして月末には中国東北3省と極東ロシアの港湾調査に同行しました。

今年の中国徐福国際会議については意見書を送ったものの参加するかどうか決めかねていたのですが
正式の招待状が参りましたので参加する決心をしました。航空券の手配などはまだですが皆さんは如何されるのでしょうか?
情報を知らせてください。

諸般の事情があり又、体力が急に衰えていますので私が参加出来るのは多分今回が最後になると考えています。

以上残暑お見舞い方々皆さんの近況と中国徐福国際会議に参加されるかどうか?知らせてください。

大阪・徐福友好塾 鳥居貞義

[393] 返答が遅れて申し訳ありません by : 高木豊博 at : 2010/09/11(Sat) 10:45

前田様

今やっと外部とメールが打てるようになりました。ただこちらには自宅にある歴史関係の資料は一切持ってきていませんのでコメントしようにも出来ませんが、一点だけですが「水東日記に収められている『広輪疆理図』が混一疆理図の修正版と見られている。」は逆ではないかと思います。

申し訳ありませんが、詳細は日本に帰国した際に返答させて下さい。それにしても前田さんの調査能力はすごいですね。驚きました。いずれにしても、徐福研究でこの2枚の地図が抜けていたことはおかしなものですので、これを知って頂け嬉しく思います。

木村様

相変わらず頑張っておられますね。年齢に関係なく、新しいものを吸収しようという意欲は凄いですね。ただ月刊ムーには私の知っておられる方もおられ何とも言えませんが、どちらかといえばセンセーショナルなものになる傾向がありますので、少し控えめに評価された方が良いと思います。

[392] 銭塘江で始まる丸石調査 by : 木村正治 at : 2010/09/09(Thu) 19:33

「月刊『ムー』9月号を取り寄せました。
行きつけの串本町内「神林書店」が閉店になり、オークワの系列店ウェイに行ってみましたが置いていませんでした。
 それで、学研のインターネットホームぺージに紹介された新宮の本屋から送ってもらいました。
 古代の巨石ミステリー、文 有賀 訓「新説 謎の丸石は徐福がもってきた!!」を読みました。
 内容は、このサイトのChin Kiiさんのものと、そう違いはありませんが、いくつか新しい点があります。
 ?すでに銭塘江の調査が行われようとしているようである。
 ?熊野神社の丸石、熊野の玉置神社の玉石、徐福伝説のある山梨の甲府一帯に道祖神的に祭られている丸石、五島列島は福江島、増田港に祭られている直径50cmもある丸石力石の各写真。
 ?童男童女すなわち、始皇帝が征服した韓、趙、魏、楚、燕、斉6カ国の王族子女の八丈島への島流し説は、日中徐福研究者の間では非常に有力視されている。王族の着る黄八丈は傍証。
 全体を通して長い間、研究された成果として非常に説得力がある。
 銭塘江の調査の結果は非常に楽しみである。結果次第ではあるが真に有力な物証となろう。
 

[391] 古地図の製作年代 by : maeda at : 2010/09/03(Fri) 14:57

高木様

>2枚の古地図は、京都大学の研究では「混一。。図」より古く、その地図の元になった地図として1360年頃の製作年代が提唱されています。
 以上のことは、了解しました。
 当方が調べたWikipediaの情報は、以下の通りですが、これに対して、訂正ないし付け加えることがあるでしょうか。

広輪疆理図:道士の清浚(1328 - 1392)が作った『混一疆理図』もまた失われている。だが、明代の書籍収集家葉盛(1420 - 1474)の撰である水東日記に収められている『広輪疆理図』が混一疆理図の修正版と見られている。葉盛は厳節の奥付がなされた地図(1452)の記録も残している。厳節によると、広輪疆理図は1360年に作られたとのことである。もっとも、現存しているものには厳節によるものと思われる改変が加えられており、明代の地名が散見される。オリジナルであれば、元代の地名が記されているはずである。

声教広被図:李沢民の『声教広被図』(世界地図)は今日失われている。元の状態が後の時代の地図から再現されている。羅洪先の『広与図』(1555)に収められた『東南海夷図』、『西南海夷図』が、沿岸と島嶼を除いた大部分が声教広被図の南半分のコピーであると考えられている。満洲語で描かれた明代の地図大明混一図もまた、李沢民の地図の複写と考えられている。作者李沢民についてはほとんど何も伝わっていない。地図上の地名からの類推で、声教広被図は1319年ごろに作られたものであり、1329〜1338年頃に修正が加えられたものと思われる。もっとも、後に述べる烏斯道の供述からは、声教広被図が清濬の地図(1360?)よりも新しかったことが示唆されている。

日本の地図 :上記中国の2つの地図には、日本は東西に亘る3つの島として描かれている。これは、徐福の伝説に基づくところが大きいためと思われる。前漢時代に編纂された史記によると、徐福は海中に三つの山でできた島があるとの話を残しており、中国人は長い間それが日本の事だと信じていた。

混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)、略称疆理図(きょうりず)とは1402年に李氏朝鮮で作られた地図。1402年という作成年は、下に書かれている奥付に基づく。現存するものは写本のみであり、それに書かれている地名から類推すると、遅ければ1592年の情報が混入している可能性もある。

[390] 古地図の製作年代 by : 高木豊博 at : 2010/09/02(Thu) 13:29

前田様

2枚の古地図は、京都大学の研究では「混一。。図」より古く、その地図の元になった地図として1360年頃の製作年代が提唱されています。

前田さんが言われるようには新しくないですよ。

[389] 丸石リサーチ by : 木村正治 at : 2010/09/01(Wed) 14:34

素晴らしいお知らせを頂きまして有難うございます。
 丸石徐福論には大変に興味を惹かれます。もし、ご指摘が本当なら、決定的物証の少ない徐福渡来に、決定打が齎されるのではないでしょうか。
 八丈島、三浦の丸石の成分が明らかですから、銭塘江の上流の岩石、下流海底の丸石、あるいは中国の徐福造船所の近辺にあるだろう丸石の成分調査が行われれば、ハッキリするのではないでしょうか。
 そして日本や韓国の徐福伝説のあるところの海底には、必ず丸石がある程度かたまっていなくてはなりません。
 その地が通過点ならいざ知らず、難破したたり、上陸して長期滞留したようなところであれば、Chinnさんの指摘した理由のごとく存在するはずです。
 串本の笠嶋遺跡からは、日本唯一、弥生時代の8m級構造船が出土しています。
 つまり最先端の造船技術が伝わっていたのです。
紀伊半島の南端から1km離れた潮岬島までの両浜、砂浜にです。
 古代船が上陸するにはもってこいの場所です。
新宮の徐福、今は串本町古座から移動したと書かれている徐福の子孫が本当なら、この近辺の丸石を調査する必要があります。
 先ずはダイバー、漁師に、漁業組合長に聞いてみましょう。
月刊「ムー」9月号は是非 読んでみます。

[388] 三浦半島西岸に集中する丸石 by : maeda at : 2010/08/31(Tue) 10:50

木村さん

 小著を読んだ上で、評価していただけたことに感謝します。
 今回は、相模の徐福伝承を補強する情報の紹介です。
 既に、八丈島で発見された丸石については、この掲示板でも論じられていますが、月刊「ムー」2010年9月号p124-127に、有賀訓氏が首記丸石について、「徐福がもってきた!!」という新説を公表されています。
 その論拠は、丸石は、推定2万年前頃に堆積しはじめた砂泥の地層中に存在し、数億年前に植物プランクトンの珪質成分が石化した「チャート」と呼ばれる硬い石で出来ている。これが球形になるには、チャートの岩山から剥がれおちた岩塊が、急流の底などで長い年月をかけてぶつかり合うか、人の手で研磨加工するしかない。
 逗子市の郷土史研究家の赤埴和晴氏の話では、「秋谷地区の丸石は、この場所で自然にできたものではなく、信仰のために集められたわけでもない。正体は大昔の航海に使われた道具で、木造船の最下層に詰められた“ウェイト”だったと考えられる」とのこと。
 地区の氏神として「熊野神社」があり、裏手の海抜30メートル近い山肌にも大型の丸石が顔をのぞかせている。また、三浦半島西岸は年間平均プラス10mmの隆起が進行してきたので、海抜20mの位置にある秋谷地区は2000年前には、完全に海底だったことになる。また、関東地震で相模トラフは毎回1m以上隆起したと推定されるので、現在の熊野神社斜面位置までは、2千数百年前には波打ち際だったとみられる。
 昔から八丈島に伝わってきた「玉石垣」も古代唐船のバラスト丸石を利用して築かれたと思われる。
 中国での丸石調達は、川の間際に山がそびえる、上海市南側の銭唐江であろう。
 徐福伝説に象徴される古代中国人の日本列島への集団渡来は、縄文時代晩期から南関東と東海地域へ活発に入植したようだ。
 その後、朝鮮半島からの渡来人が急増したこともあり、秦帝国ゆかりの人々=秦氏族は本州内陸部にも入植地域を広げていった。
 このように推定されているが、本文はもっと詳しく説明されています。この資料は、小著「徐福王国相模」が印刷された後に、公開されたものですが、ひとつの裏付けになるかも知れません。
 

[387] 徐福王国相模を読んで by : 木村正治 at : 2010/08/30(Mon) 18:11

やっと、「徐福王国相模」を読み終えました。
 ずいぶん、時間がかかったのは、この夏の異常な暑さの所為です。
 つまり、仕事が暑い中、異常に忙しく、老いた体と頭が、この本の理解に働いてくれなかったのです。
 この本は、私の細切れの知識を、鮮やかに紡いでくれました。
しかも、嬉しかったのは「太陽の道」に、わずかながらも触れて頂きました。
 また、イワクラが秦氏、徐福の根底にあると。
熊野信仰の根源にあるもの、それは「熊野の太陽信仰と3本足のカラス」萩原法子著に展開された原始的イワクラ信仰に他なりません。
 つまり本州最南端に何千とあった矢倉神社=イワクラ神社がそれであると。
 そして、その進化系である、日本最大の「夏至太陽祭祀場」の日本の歴史に果たしている役割も、見逃されてはならないと思います。
 「伊勢神宮とトコヨの古代史」を著された「佐藤忍」は、私の案内でここを見学し、「研究者は多くここを見なければいけない」と発言されています。
 「徐福王国相模」は幾度となく読み直さなければならない本です。
 

[386] 古地図 by : maeda at : 2010/08/28(Sat) 15:16

高木さん

 小生が一番お伝えしたかったことは、他の著書を批判する場合には、その書籍をよく読んでからにしてもらいたいということです。さまざまな角度から、多くの論証をしているのですから。

 ところで今般紹介された、古地図の情報は興味深いものですが、作成年代が1360年以降の新しいものと思われますので、それなりの評価となると思われます。
 参考までに、Wikipediaの情報を引用してみましょう。
広輪疆理図 :道士の清浚(1328 - 1392)が作った『混一疆理図』もまた失われている。だが、明代の書籍収集家葉盛(1420 - 1474)の撰である水東日記に収められている『広輪疆理図』が混一疆理図の修正版と見られている。

声教広被図:李沢民の『声教広被図』(世界地図)は今日失われている。元の状態が後の時代の地図から再現されている。羅洪先の『広与図』(1555)に収められた『東南海夷図』、『西南海夷図』が、沿岸と島嶼を除いた大部分が声教広被図の南半分のコピーであると考えられている。満洲語で描かれた明代の地図大明混一図もまた、李沢民の地図の複写と考えられている。

[385] 徐福関係地図ー3 by : 高木豊博 at : 2010/08/26(Thu) 11:57

木村さん

382がスラッシュが1本多くて開けず、申し訳ありません。訂正したものを送ります。

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