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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[405] 本掲示板〔403〕項のフォロー by : 鳥居貞義 at : 2011/01/29(Sat) 18:11

〔403〕項で書きました「とんどまつり」「七夕万葉歌碑除幕式」については友人がHPにアップしてくれました。下記Related URL参照ください。
さて、「半両銭」のその後ですが、河上熊野市長さんが第八国際徐福節に下記のようなメッセージを送られ、逵志保博士が中日両国語で紹介されたことは会議に出席された人はよく知っています。
お祝いメッセージ
徐福東渡2220周年を迎えた記念の年に、徐福生誕の地において、第八回国際徐福節が盛大に開催されますことを、心からお慶び申し上げます。開催にあたり、多大なる熱意をもって取り組まれました中国徐福会、カンユ県人民政府の皆様方に深く敬意を表する次第でございます。わが熊野市には、徐福が焼き物をはじめとする様々な文化を伝えたといわれる波田須という場所があります。古くは「秦の人が住む土地」という意味の「秦住」と記されておりました。この地では中国秦時代の古貨幣である「半両銭」が出土しており、地元の宝として保管されております。徐福は古くから地域住民が大切な存在として語り継いでおります。私たちは、徐福を通じて中国徐福会、ひいては貴国の皆様方と一層の交流をお願い申し上げます。日本を訪れた際には、是非、当市へお越しいただき、深く青い海、緑鮮やかな山々、遥か昔に徐福が感じた情景を味わっていただければ幸いに存じます。
結びに、第八回国際徐福節が実り多きものとなり、中国徐福会の益々のご発展、ご参会の皆様のご健勝、ご活躍をお祈りいたしまして、お祝いの言葉とさせて頂きます。平成22年10月22日 三重県熊野市長 河上敢二
そこで、私は河上熊野市長様に下記のような書簡を送りました。
私は第8回徐福国際会議(中国・贛楡県)に参加し、徐福研究仲間の逵志保博士が代理発表された市長様のメッセージを大変興味深く拝聴しました。特に「半両銭」は徐福東渡を立証する最も有力な手がかりです。「半両銭」は全国で百余枚発見されているようですが、徐福が辿り着いた地点として徐福墓が祭られている波田須で「半両銭」が発見されていることは誠に重要なことであります。徐福伝説については日中韓の研究者が多くの論文を出していますがほとんどが文献史学的なもので、考古学的物証を追求することは出来ていません。中国では徐福生誕地を羅教授が確定して以来、多くの学者が徐福伝説の研究をしていますが、日本では隠れ学者は多いのですが徐福について学会で真正面から語られたことはありません。中国最大の上海博物館には多数の「半両銭」及び鋳型も展示されています。熊野の場合7枚発掘されたのですが公的に博物館で展示されているのは1枚だけで、残りの6枚は個人所有になっていると聞いております。熊野波田須で発見された「半両銭」が中国側との共同研究で徐福東渡の確かな物証として確定すれば、羅教授の徐福誕生地発見以来の大発見になることは間違いありません。その為には個人所有となっている「半両銭」を一刻も早く回収する必要があります。発見者であり所有者の世代交代により「半両銭」が失われる危機に晒されています。博物館に展示する目的で所有者から提供を受けて記名入りで保存する。一部は科学的分析の資料として活用するなどで物証となれば熊野市が世界的に有名になるだけで無く日中韓で進められている徐福研究に大いに貢献することは間違いありません。
私は物証として半両銭の他に連弩、竹簡を考えていますが波田須の半両銭に勝るものはありません。先ずは波田須半両銭の回収、保存を早急に実施願いたいと思います。市長様のご指示で観光事業も含め市の発展に寄与する問題として行政全体の問題にレベルアップされますよう切念致しております。波田須半両銭の現状は宝の持ち腐れであり、将来行方不明になる危険性が充分に考えられます。徐福伝説研究者の協力を得て、私が編集した徐福伝説研究のバイブル『徐福さん』を贈らせて頂きます。
志保博士が代読した熊野市長メッセージの中国語訳を添えて送ります。波田須、【半両銭】の文字が読み取れます。
河上熊野市長様は特に年末年始は特に多忙な様子で残念ながら未だ返書は頂いていませんが返書を頂きましたらこの掲示板で紹介しますのでご期待ください。

[404] またいつか投稿します by : 高木豊博 at : 2011/01/10(Mon) 13:35

木村様

お久し振りです。今回投稿させて頂いたのは、今日本にいて正月休みに故郷に帰ることができ、少し調べることが出来たためです。東京は出稼ぎで出てきていますので、手元に資料もなく思うように文章が書けないのがちょっと残念です。在原業平ではないですが、「心余りてことば足らず」というところです。

近々とある国に出張しますので、帰国が7月か8月になります。それまでは木村さんに満足して頂けるような文章が書けないでしょうが、ご勘弁下さい。

鳥居先生

まだまだ投稿をお願いします。いつも楽しみに見ています。

[403] 掲示板について+半両銭の報告 by : 鳥居貞義 at : 2011/01/10(Mon) 11:15

木村さん、そんなに心配されることはないと思います。会社のOB会で「気楽なサロン」というのを立ち上げているのですがそこでは誰でも自由に発言できるようにしています。その為に元の役職名を使わない配慮もしています。だから会社現役時代に静かだった先輩、同僚、後輩も遠慮ない発言で賑わっています。まして、この掲示板のような学問の領域の問題では反対意見や間違いを指摘することがあっても当然と思います。但し、単純な誹謗中傷は避けるべきです。
私がしばらくご無沙汰していたのは時間が取れなかったからです。七夕万葉歌碑除幕式、新年賀詞交換会、講演会資料準備、確定申告の準備等々、今は「天の川とんどまつり」の準備(寄付金お願い、役所の許可、寒中看板取付などの肉体労働?もあります)で超多忙です。
昨年は「人持ち」なりメールアドレスが限度の千件に達しましたために年賀状も大変でした。しかし、「人持ち」になったお蔭で素晴らしい「物持ち」にもなりました。秦朝前期の「半両銭」と七夕伝説が彫刻された明代の「程君房の墨」の寄贈を受けたことです。
どちらも真贋は不明ですが信頼の於ける収集家から頂きました。「程君房の墨」は中国の七夕博物館に寄贈することになりました。「半両銭」は土がついているので波田須のものと比較検討したら面白い結果が出るのではないかと期待しています。

[402] 懐かしきかな by : 木村正治 at : 2011/01/09(Sun) 17:39

 皆さま 意を決して 離れられたように 思えていました。
私が登場しない方が 良いのではとかも 思われました。
 今 懐かしい方々が 登場され それぞれ 素晴らしい内容を
披歴されています。
 いや 嬉しい限りです。

[401] 『淮南子』と日本、徐福について by : 高木豊博 at : 2011/01/08(Sat) 17:14

明けましておめでとうございます。

近頃は投稿される方も少なくなり、掲示板が寂しいなと思っていましたら、鳥居先生の話が聞けて嬉しく思います。そこで私も少し書いてみようと思いたち、徐福を別の角度から見る意味でも『淮南子(えなんじ)』の日本の記事について述べさせて頂きます。

『淮南子』は、前漢の時代、淮南王の劉安(紀元前179年〜前122年)が賓客方術の士数千人を招致し編纂した思想書です。蘇飛、李尚、左呉、田由、雷被、毛被、伍被、晋昌等八人が中心となり、道家・儒家・法家の思想を中心に21編(現存分)に森羅万象を説明したものです。この劉安は武帝に謀判の疑いで非業の死を遂げますが、実際は貶められたと云われています。この『淮南子』は徐福の東渡より約90年後の編纂ですので、徐福の時代の考え方を色濃く残していると思われます。

この巻5時則訓に、「五方位。東方の極は、喝石(けっせき)山より朝鮮を過ぎ、大人の国を通って(貫いて)、東方の日の出の場所、榑木(ふぼく)の地、青丘の樹木の野に至る。そこは大?(たいかう)・句芒(こうぼう)の司る土地で、一万二千里ある。そこでは、次のような政令が発布される。「禁止事項をゆるめ、閉鎖を開き、行き止まりを通じ、障塞(しやうそく)を開通させよ。交際をなだらかにし、怨みや憎しみを棄て、労役や処罰を免じ、憂患を除き、罰刑をとりやめよ。関所や渡しを開通し、在庫(庫財)を出し、外敵と講和し、四方を鎮撫し、柔恵を施し、剛強なふるまいをとどめよ。」」(新釈漢文大系、明治書院、楠山春樹著:後述の記事も同書による)

この喝石山は、現在の河北省昌黎縣付近にあり、『史記/夏本紀、太康地理志』によれば万里の長城の始まる地点と云われる場所です。同『史記/秦始皇本紀32年條』に始皇帝がこの喝石山に行き、石の門に碑を刻ませたという記事もあり、魏の曹操も登ったと云われています。遼東と遼西を分ける地点でもあります。ここから朝鮮半島を経由して、大人国を通っていくと、日の出る場所である榑木の地に至るということです。

「朝鮮」は中国人が古くから半島を読んでいた名称で、李氏朝鮮の官選地理書の『東国洌輿地勝覧』では「朝光鮮麗」の地と呼んだことに由るとされ、『史記』では湿水、洌水、汕水が流れている国と書かれています。箕子朝鮮、衛氏朝鮮などの古朝鮮などの国名もあり、朝鮮半島であることは間違いないでしょう。

「大人国」は、「貫いて」という言葉が島々を刺し抜いていく状態を示しているように、対馬や壱岐の島々のことを示しています。紀元前2世紀から後1世紀頃にかけて長崎県の西部、佐賀県北部、奴国(博多)、壱岐、対馬、韓国の南部に糸島式祭祀土器が分布しており、これらの地域が一つにまとまった国であったと思われます。『魏志倭人伝』では、壱岐の島を「一大国」と表していて海北の島々には「一大率」が置かれたとされています。このため「一大」は「一支(いき)」の間違いであろうと考えられる研究者が殆どですが、私はこの大人国から来たものと考えます。

出雲の国譲りで有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)は亡くなられ出雲大社として祀られた時に、その御殿が西に向けられて建てられています。土井ヶ浜遺跡の頭骨の向きが西北西であり、山東半島を故郷とする人々だったのではないかと考えられていますが、同様にこの方の本来の出身地が西側の「大人国」であったのではないかと思われます。大国主命の父親の名前は「天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」という不思議なものですが、本来は「天の府(中心となる)ゆきぬしのかみ」という意味が含まれていると思いますがどうでしょうか。言葉で伝わったものを漢字で表わした際に、意味が違ってきたものと思われます。ちなみに「ゆき」は『万葉集』にも「壱岐(ゆき)の海人(あま)」とあるように、昔の島の読み方です。つまりこの壱岐国のあるいは大人国の支配者であし、その子の名前に出身地の「大」が付けられているように考えられます。

記事はその後、榑木の地に至ります。この「榑木」の地は「扶桑の木」の地ということで、昔から日本のことを指します。青丘の樹木の野とは、まさに日本の印象をはっきりと示しています。朝鮮半島からフェリーで日本に入ってきた時に、半島の岩肌とは違う緑にあふれた山々を見るにつけ、この記述の確かさを感じます。間違いなく古代に中国から日本を訪れた人々がいたのでしょう。『淮南子』の巻3天文訓に「太陽は、暘谷(やうこく)からあらわれ、咸地で水浴びし、扶桑の野を過ぎる。この時を晨明という。扶桑の野を登って、いよいよ運行を始めようとするとき、これを朏明(ちつめい)という。」、また地形訓では「扶木は、陽州にある。太陽の照り輝くところである。」などがあります。聖徳太子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」と国書に記したのも、ここから来ていると思われます。

大?(たいかう)・句芒(こうぼう)とは観念上の東方を治める神のことで、特に意味があるものではありません。しかし次の「一万二千里」は巻5時則訓にあり東西南北の極(はて)がそれぞれこの距離にあるということですが、中国の知られている土地の広さを模式的に表しています。この距離は文脈からして喝石山より榑木の地に至る距離を表していているようです。後日の『魏志倭人伝』も帯方郡より女王国に至る距離が万二千余里と記述され邪馬台国問題の中心議題となっていますが、これは喝石山より帯方郡の距離が約陸行1月であり、壱岐を経由して九州に上陸した後南に陸行1月行くことから、編纂者の陳寿が同じ距離を採用したものと思われます。

この日本の地では、政令が発布されるとされていますが、この意味は同書巻21要略に、「また政令を発布して、その時々に民に教えるようにし、かくて人君に治政のよすがを知らせるためのものである。」とあるように、中国側からみた提案であり、現実に発布された訳ではありません。しかし、文章を逆に見てくると徐福が日本に至った時代の日本の様相が見えてきます。つまり「禁止事項が厳しく、閉じられており、行き止まりや障塞(しやうそく)がひどい状態である。交際がなされておらず、怨みや憎しみを抱き、労役や処罰が厳しく、憂患を抱いている。関所や渡しが人の行き来を邪魔しており、庫財を貯めこみ、外敵と戦いに明け暮れ、柔恵がなく、剛強なふるまいが多い。」ということになります。環濠集落などに代表されるように、弥生時代の初期は戦いの日々が続いていたのでしょう。それを見ていた中国人がいて報告が中国本土になされたということです。

徐福の本名は徐市(じょふつ)といいます。以前紹介させて頂いた『常陸風土記』では「古老がいうことには、天地のつくりはじめ、草木がものをよく言うことができたとき、天より降って来た神、お名前を普都(ふつ)大神と申す神が、葦原中津之国を巡り歩いて、山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた。」とあり、普都大神として徐福が現れます。徐福は中国から来てこのような混乱した状態の日本に対して弩という武器を用いて中国地方で下が支配・統一していき、平原広沢を得て、王となり中国には帰りませんでした。

少し見方を変えますが、同書巻4地形訓に「(中国の)東南より東北にかけては、大人国、君子国の二国と、黒歯の民、玄股の民、毛民、労民の住む四国と、あわせて六国である。」とあります。また同訓に「東方には君子の国があり」とあります。また『後漢書東夷伝』に「仁にして生を好む。天性従順にして、おさむるに道を以てす。君子不死の国なり」とあったり、『続日本紀』巻3に、唐に渡った粟田真人の姿をみた唐人が、「しばしば聞く海東に大倭国あり之を君子国といい、人民豊楽にして礼儀敦厚なりと、今、使人を見るに、儀容大淨、あに、誤りならざらむや」と言ったという記事なども見られます。古い時代の『山海経』などにも東方に君子の国があることが記載されており、君子の国とは日本のことを指すことは間違いなく、古代中国で語り継がれていたのでしょう。

徐福は、この東に君子の国があるということを十二分に知っていて、それを目指して船出したものと思います。しかし普都大神の話のように、それが幻想であったことを自覚し、そのため戦いに明け暮れて混乱している日本を一つの形にまとめあげようとしたのではないでしょうか。

[399] 「人持ち」から「物持ち」へ by : 鳥居貞義 at : 2011/01/04(Tue) 11:40

明けましておめでとうございます。
年賀状を頂いた皆さん有り難うございます。
私からの年賀状は既に届いていることと思います。

今年の干支は「辛卯(かのと・う/しんぼう)」。
「辛」の字は鋭い刃物を描いた象形文字。
上に向かって求め冒す、という意味を持つ。
解釈には色々あるようですが、私は単純に「辛いことがあっても辛抱すれば時が解決する」と考えています。ゴムが伸びるように辛抱できない時には切れることがあるかも知れませんが今の若者は辛抱せずに切れると、酷評してきましたが、高齢者にもその傾向があるようで、気をつけたいものです。
又、「辛卯:かのと う」には様々な矛盾、抑圧を排除して今まで眠っていた活動エネルギーが発現する、つまり物事が新しくなることを表している。との解釈もあるようです。今年はそのような年になることを願っています。

さて、昨年は私の徐福研究にとって素晴らしい出来事がありました。徐福研究に欠かせない「西安近郊で発見された秦朝前記のものと思われる《半両銭》」を入手できたことです。この半両銭には土が付着しているので、波田須で発見されたものと比較研究が出来れば面白い結果が出るのではないかと考えています。昨年、中国贛楡県で開催された第八回徐福国際会議では逵志保博士が代読した河上熊野市長からのメッセージでも波田須で発見された「半両銭」のことが徐福到着の証として強調されていました。関係者が研究されるのであればこの「半両銭」を提供してもよいと考えています。
昨年は七夕伝説研究でもビッグな出来事がありました。毎日新聞で私のことが「なにわ人間模様」と紹介された記事を見たギャラリー経営者から長年保管していた程君房の墨を‘あなたに寄贈したい’と態々持参してくれました。真贋は不明ですがこの貴重な墨を5年がかりで探し当てた中国天河(天の川)流域にある七夕伝説伝承地湖北省鄖西県の七夕博物館に、第1回七夕国際会議を主催する時の記念として寄贈することにしました。
程君房の墨は本物であれば大変価値の高いものですが、遠戚の鳥居龍蔵博士がそうしていたように貴重品は生まれた場所で保管するのが一番と考えた次第です。
昨年は「人持ち」宣言をして、メールアドレスが既に1000件を超えましたがそのお蔭でこのような「物持ち」になれたのは全く想定外のことでした。
今年は干支に因んで更に辛抱を重ねて、第1回七夕国際会議への新しい展開だ出来ればと願っています。

[398] 那智紙は徐福の紙か―つづき by : 木村正治 at : 2010/09/16(Thu) 10:05

 この初期の製紙技法は、中国雲南省から、ビルマ、ベトナム、ラオス、タイなどの少数民族.ヤオ族の中に?生きた化石″として現存している。
 徐福が伝えたとする方法はこのようなものであったはずである。
熊野で漉かれていた「音無紙」は、中国古代の乾燥方法と酷似している。
 すなわち、漉き上げたウェットの状態の紙を、プレスをかけずに水を切るだけで紙干し板に張ってそのまま干し上げる。
 結論として、徐福から伝えられた可能性はあるが決め手なしとしている。

[397] 那智紙は徐福の紙か by : 木村正治 at : 2010/09/15(Wed) 12:44

南紀州新聞改め熊野新聞平成22年9月15日版に、「那智紙は徐福の紙か」という表題で、植地勢作(紙の博物館)の研究発表が載ったので、内容を纏めて記します。
 2001年1月、中国を訪れ、高名な考古学者 潘吉星氏に「徐福が日本に紙の製法を伝えた可能性はあるか」と尋ねたところ、
 可能性は十分あるとの回答をいただいた。
中国に現存する紙で最古のものは「放馬灘紙」と呼ばれている紙である。
 この紙は前漢の景帝から武帝以前の前漢初期(BC200〜150年ごろ)の紙であることが実証されている。
 「中国古代科技文物展」の図録に「放馬灘紙」について「此の紙は世界で一番古い紙である。紙面が平滑で、構造が緊密で、表面には細い繊維の渣(くず)があり、製紙の技術が比較的原始的である。
 その原料は麻で、前漢初期の麻紙である。紙の上に墨で描いた山、川、崖、道がある。世界最古の地図である」と認めている。
 中国古代の製紙技法は、布紋(織紋)型と呼ばれ、
潘吉星著『中国古代造紙技術史』によれば、馬尾の硬毛、絹糸、麻等の材料で編んだ織布を張った漉き枠に、パルプ液を注ぎこむ(澆紙法)か、あるいは漉き枠でパルプ液を掬い取り、濾水したのち枠ごと乾燥させて紙にする」という方法である。つづく

[396] 混一疆理図 by : maeda at : 2010/09/14(Tue) 10:43

高木 様

「混一疆理図」は、清浚(1328 - 1392)が作ったもので、「混一疆理歴代国都之図」とは異なるものなので、先の当方のコメントは、特に間違っていないと思いますが、いかがでしょうか。

[395] 珍しいロシアのソロバン by : 木村正治 at : 2010/09/14(Tue) 10:28

鳥居さん、 掲示板がお留守の間は、いつも海外で活躍されていて、羨ましい限りです。
今回は極東ロシアなど、珍しい所を訪問されました。
与謝野晶子の石碑や、見たこともないソロバンなどの写真に驚いています。
内容で、あんなにお元気だった先生が体力の衰えを理由に、
海外訪問は今年限りであるとされているのは、真に残念至極です。
かく言う私も同じですが、加えて仕事の手が離せません。
それで10月の中国徐福国際会議は欠席せざるをえません。
どうかご容赦くださいませ。

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