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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[415] 申し訳ありません by : 高木豊博 at : 2011/03/19(Sat) 07:33

昨日書いたものの文頭で「東北地方」とすべきところが「北地方」となっていました。申し訳ありません。文を送る際に小さな文字がよく見えませんので、見過ごしてしまいました。

改めて、被災された方々や被災され避難所で困難な生活をされておられる方々の環境が早急に改善されることを祈ります。そして素晴らしい日本を取り戻しましょう。

頑張れ、日本

[414] 徐福が取り入れたものー2 by : 高木豊博 at : 2011/03/18(Fri) 20:40

建築技術としては、三内丸山遺跡の大型柱穴の遺跡では、全ての柱が内側に2度傾けてお互いに倒れないようにする「内転び」技法が採用されています。また型枠を組み少しずつ土砂を混ぜて固める「版築(はんちく)」の技法が使われていて、これは中国よりも早い時代のものです。版築というと中国というイメージがありますが、これは間違いです。逆に日本から中国にもたらされた可能性があります。

 アスファルトが保管された約3500年前の縄文時代の土器が見つかっています。やじりや槍の先を木に固定したり、壊れた土器や土偶を修理する接着剤としてアスファルトが使われていました。採取される場所は、石油の産地である新潟県や秋田県などで、ここから各地に流通するルートが既に出来ていたことが分かります。天然アスファルトが付着した釣り針も出土しています(縄文後期:岩手県大洞(おおほら)遺跡)。世界で初めてアスファルトを接着剤として使ったのは縄文人のようです。北海道南茅部町の摩光B遺跡からは、天然アスファルトの工房が見つかっています。

 石狩市の石狩49号遺跡からは、川の中に40〜50cm間隔に複数個所、直径5cm、長さ約150cmの木杭を打ったものが見つかっています。これらは遡上するサケを取るためのものだったと思われます。ここでは長さ1m以上のハリギリ製の舟形の器や、口径80cm、全長180cmのサケを取る大型のタモも出ています。松明も出土しており、夜間の漁が行われていたのでしょう。これらはエリ漁と呼ばれているものです。

釣り針は鹿や猪の角や骨で出来ていますが、縄文前期に単純な「し」の形だったものが、中期後半には現在のように針の先が「カギ」状になったものに変化します。これで魚を引っ掛けた後、針がはずれることはなくなりました。また縄文時代は銛を使った漁業を既に行っていて、大型の魚やイルカ、鯨などを取っていました。銛漁の中で驚くべきものが「回転式離頭銛」が発明されていたことです。この銛は、大型の魚や鯨などに用いられ、銛頭と棒状の柄をひもなどで結びつけたものです。銛を獲物に突き刺し、獲物が暴れて逃げようとし銛頭が引っ張られた力で体内で銛が回転し、銛頭が獲物に確実に固定します。また柄が海上に浮いており、それが鯨などの目標になり、次の銛が打ち込まれるようになるものです。これ一つ見ても、徐福が捕鯨技術を伝えたというのが眉唾ものであることが分かります。

三内丸山遺跡出土の翡翠(ひすい)の大珠には、現代の技術に比べられる超高度の穿孔(せんこう)技術が見られます。大珠の大きさは5.5cmから6.5cmで、そこに数mmの綺麗な穴が開いています。翡翠のモース硬度は6.5程度で、かなり堅いものです。これに穴を開けるのは大変です。かなり堅いもので穴を開けないとすると、そういう物質を得ることはまず不可能です。ところが縄文人はこのことを、研磨剤を使うことにより解決しています。研磨剤を穴を開ける処に付けさえすれば、使えば竹や骨のような筒状の柔らかいものでも穿孔が可能になります。この原理は現在の超音波加工法と同じものです。

縄文時代後期には編布、晩期に織布が作られていました。これは居坐機とか地機で作られたもので、織手の腰にあてた帯で経糸に張力を与えることが可能になっています。また編んだポシェットのようなものも作られており、既に刷毛も出土しています。女性が化粧に使っていたものでしょう。骨の縫い針も出土しており、衣服がしっかり加工されていたようです。刺繍もされていました。縄文前期には、最も単純な織物組織である、経糸と緯糸を交互に浮き沈みさせて織る、平織り(ひらおり)が見られます。

いろいろ述べましたが、日本の縄文土器が世界で最も古いものであるように、縄文時代は現代の我々が想像するよりもはるかに進んだ技術があり、日本全体が大きな一つの文化圏であったようです。現在の日本語は、縄文時代にはほぼ原形が出来ていたと言われ、またこの時代に出来た地名もかなりの割合で存在しています。縄文時代中期には、自然界の植物を使った草木染めもありました。

徐福がいろいろなものをもたらし弥生時代を作ったというイメージがありますが、むしろ徐福が日本に着き逆にその文化水準が高いことに驚いたと思われます。ちょうど戦国時代に日本に来たヨーロッパの宣教師が日本の文化水準が高いことに驚いていますが、これに似た状態だったのでしょう。万葉集を見ると、天皇と庶民が歌を通して同列に扱われています。庶民でも歌を詠める、こんな文化水準は日本だけです。

弥生時代を作ったのは日本人自身です。徐福は、青銅の技術以外は日本に伝えられたものは余りなかったでしょう。むしろ日本の技術に接し、その中で子孫たちは次第に日本というものに溶け込んでいったと思われます。日本の文化の基層は、やはり縄文時代にあります。もうあり得ないイメージで徐福を語ることは止めましょう。

巨大地震に負けず、我々はこの日本を再興しましょう。日本人はそれをやり遂げる力があります。今までの日本がそうでした。そのために私も微力を尽くしたいと考えています。

[413] 徐福が取り入れたものー1 by : 高木豊博 at : 2011/03/18(Fri) 20:39

北地方を襲った地震とそれによる津波の犠牲者に哀悼の意を捧げます。

今は涙なくしてニュースを見られない状態になっています。しかし東日本では、今も常に余震による揺れが起こっています。我々の日本はどうなったのか、大変な危機状態になっています。もう日本は終わりだという声さえ聞こえます。しかし我々にはこれから日本を再度復興させる義務があります。そのためにはまず日本人としての誇りを取り戻す必要があります。そこで私の出来ることとして、日本人のアイデンティティーの基礎を築いた縄文時代を見つめ、日本人の素晴らしさについて考えてみたいと思います。

今の徐福研究家と称しておられる方々の話を聞いていると、徐福は「製鉄、米作り、各種作物、捕鯨、木工技術、医術、造船」など、多くのの技術を日本に伝えて弥生文化を起こしたことになっています。何でもありの世界で、にわかには信じられない感じがします。

そこで、以前は捕鯨について、前回は製鉄について述べさせて頂きました。日本のたたら製鉄は徐福の20代ほど後の子孫の頃にやっと技術が確立したもので、徐福集団そのものが直接もたらしたとは言えないものです。他には「米作り」もそうでしょう。詳しくは書きませんが、徐福の時代には既に日本中で米作りが行われていました。かんがい設備は中国のものより進んでいました。むしろ徐福が取り入れた技術だったでしょう。

他にも徐福が倭の国に渡ってきた際に、既にあり彼らが取り入れた技術がないか調べてみたいと思います。縄文時代の晩期〜弥生時代前期でのものです。まず食べ物関係では、「もち」・「干物加工」・「あく抜き」・もみのままで焼いた「焼き米」・玄米をこしきで蒸した「強飯(こわめし)」・飯を漬け床として使った「なれずし」・炊いて干した「ほしいい」などが挙げられます。

「もち」は特別な日の食べ物だったのでしょう。もち米にアワやキビなどの雑穀を混ぜたもちもあったようです。(よもぎもち、きびもち)雑穀類が既に栽培されていて、そこでは一定の場所できちんと収穫できるようなバイオの技術も見られます。石臼は8000年前にはありました。直径が30cmほどの扁平な石と磨石と呼ばれるこぶし大の丸石です。摩石ですり粉を作り、灰汁(あく)を抜き、粉食としたもので、パン状にしたものも見られます。縄文晩期の福岡県のクリナラ遺跡では、小溝形の畝(うね)が確認されていて、根菜類が栽培されていました。干物加工の技術は、魚を取り始めた時からあったもので、取り立てて言うこともないでしょう。

漆の技術は、世界最高レベルのものでした。青森県の三内丸山遺跡を始め富山県小矢部市の桜町遺跡などからは、漆台付き大皿、漆塗鉢、漆器などの赤や黒く漆で塗られた容器が出土しています。その出来は素晴らしく、復元したものを拝見すると吸い込まれるような気がするほどです。木の素地の厚さは7mmというものもあり、その加工も含め漆の栽培技術は目を見張るものがあります。6000年前には、漆に顔料を加え発色させる技術や漆の焼き付け技法が見られることです。中国のものより優れた技術でした。

縄文晩期の亀ヶ岡文化では、素晴らしい笊(ざる)や籠に漆を塗った漆器、飾り弓、櫛、笄(こうがい)などの工芸品も見られます。新潟県長岡市大武(だいぶ)遺跡からは、カラムシ、または類似した植物繊維の2本の束を撚り合せ、その上に生漆を塗り、またその上にベンガラ塗ったものもあります。組紐は、縄文土器に二条の撚縄や三条以上の撚紐の回転押捺(おうなつ)文様が施されていますので、いろいろな組紐があったことが分かります。

青森県の三内丸山遺跡では、竪穴住居と共に、6本柱の大型の掘建柱の高床式建物が発見されていますが、長さは10m〜32mもあります。ここでは直径と深さ共に2mの穴に直径1mの栗の木の柱が建てられています。これらの間隔はきちんと35cmの倍数で、縄文尺とも言っていいかなり高度な技術があったことを思わせます。同様のものは群馬県吾妻郡長野原一本松遺跡の掘立柱建物でも見られます。4000年前の富山県小矢部市の桜町遺跡からは、屋根材や桁、垂木(たるき)など、現在の草葺き屋根と同じ形式のものであったりしています。建築技術としては、「通しほぞ穴」・「包込(つつみ)ほぞ」・「相欠(あいかき)」・「貫(ぬき)穴」の技法、厚板の側面をデコボコに組み合わせたヒブクラハギという接合方法も見られます。また釘を使わないで直交した木を組み合わせる「渡腮(わたりあご)」という技法も見られ、ほぼ現在の釘を使わない際の木工技術の最高水準にあるものです。

[412] 東日本大震災お見舞い by : 逵 志保 at : 2011/03/16(Wed) 01:04

鳥居さん、早々にありがとうございます。
私のところにも徐福つながりの中国、韓国の関係者の方々から、このメール見たら返信をするようにというメッセージとともにお見舞いの言葉が多く届いています。
地震、津波、原発事故と、なんと言っていいのか分からないほどの惨事が続いていますが、自分に今出来ることを考えていきたいと思います。
みなさんどうぞご無事でありますように。

[411] 巨大地震お見舞い by : 鳥居貞義☆天の川☆ at : 2011/03/13(Sun) 03:31

徐福伝説と七夕伝説で交流している中国の友人から巨大地震のお見舞いメールが入りました。
中国語の為、一部文字化けしていますが、意図は充分に通じます。有難い事です。
七夕祭で交流している東北地方の友人に通じないのが残念ですが中国の友人の心配を伝えて
勇気を得て頂きたいと考えています。

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鳥居貞義先生:

昨天的地震影?不大?!

祝愿全家安康!

張良群(徐福)
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諒昨
緒寫D, 鳥居先生。緒・ 国 生 烈地震,十分担心緒尨a緒實ニ人的安全,但愿緒・一切安好!我 緒・、
日本的全体震区民処ル祈祷,祝緒・逢凶化吉,安好无 ! 建 3月13日凌晨

鐘建華 (七夕)
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鳥居貞義 ☆Ed.☆

[410] 益田宗児様、古代の製鉄続き by : 高木豊博 at : 2011/03/05(Sat) 21:54

さっそく返事を頂き感激しています。製鉄は徐福が持ち込んでいませんが、益田さんが書かれておられるように、「縄文時代、既に製鉄は行われていたが、徐福集団の製鉄技術者によって一段と普及していったと理解する方が正解かも知れませんね」という考え方も出来るかもしれませんね。

一般的には、弥生時代は鉄を製錬するまでの技術はなかったと言われています。鉄の素材の殆どが朝鮮半島製であろうと思われるためです。福岡県飯塚市立岩堀田遺跡の鉄刀、刀子等は舶載鋳造鉄器として考えられていて、その流通状況が立岩産石包丁との密接な関係があると言われています。弥生時代熊本御船町二子塚遺跡の鉄器など各地から出土するものは、それらの材料(鉄塊)から出来た鍛造製品であろうと思われます。舶載の鉄器はそれ自体機能性に優れていましたが、弥生時代人はそれを加工したり破片のリサイクルを行っていたようです。

しかし川越哲志氏、松井和幸氏や東潮氏などは、製鉄の時期を弥生中期の九州とし、それから全国に広がっていったと考えています。その例が広島県小丸遺跡の製鉄炉です。炉底が直径約30cmで、含マンガン磁鉄鉱を製錬した円筒形竪形炉(シャフト炉)であることが分かっています。ただ製鉄についてはまだ学会では完全な承認は得られていないようです。

一方たたら製鉄は弥生時代後期〜古墳時代にかけて始まりまると考えられます。古事記に応神天皇の御世に百済から、敏達天皇12年(583年)に新羅から優れた鍛冶工が来たことが記されています。作ったのは鉄鉱石を原料とする箱型炉と言われており、鞴の技術や銑鉄の脱丹などの新しい技術が含まれていたようです。これは国が行った本格的な製鉄方法でしょうが、民間としては、出雲での砂鉄による精錬が大きな規模で行われていました。

島根の安来は「泥鰌(どじょう)すくい」が有名ですが、この踊りは本来砂鉄を選別する鉄穴流し(かんながし)の動作から来ていて「土壌すくい」ではないかいう説があるそうです。私も宴会では一度はやってみたいと思っていますが、運動神経が良くないので出来そうにありません。

砂鉄は花崗岩が風化したものですが、この花崗岩には磁鉄鉱やチタン鉄鉱等の鉄鉱物が1.5%から2.5%含まれていて、古代からこれを砂鉄として産鉄に利用してきました。日本列島は別名花崗岩列島と呼ばれていて、砂鉄が取れる場所が多いですね。近畿以西をざっと上げると次の通りになります。何となく歴史の流れが見えてきそうです。

北九州の海岸地帯(芦屋の夏井ヶ浜の含む)、福岡市の多々良浜、大分の国東半島、鹿児島の薩摩半島、鳥取、島根の海岸(安来を含む)、瀬戸内海の北側の海岸(特に福山周辺)、淡路島、姫路市辺りの海岸など

砂鉄の特徴は、色の黒さですが、芦屋の鉄釜などはそれでできたものでしょうね。遠賀川は筑豊炭田の御影石(花崗岩)の風化した砂鉄が豊富で、幕末福岡藩が直方近くの楠橋村真名子に砂鉄の製鉄場を設け鉄山役所としたという記録があります。この近くには須賀神社があり、昔から製鉄と関係があったような感じがします。この地域は饒速日命(にぎはやひのみこと)の出身地で物部との関連が大きく、また島根も同様に物部と関係の深い地域です。山陰の砂鉄はチタン成分が多く、これがたたら製鉄を発展させた原因でしょう。

徐福の上陸地点は、中国が日本を描いた最古の地図である「水東日記、巻十七」の「広輪彊理図」と広輿図(こうよず)=声教広被図」での「東南海夷図・西南海夷図」に長門の西となっていて、土井ヶ浜であることは間違いないと思われます。この土井ヶ浜には徐福が出発した山東半島の住民の頭骨などと形状がまったく同じ骨の特徴を持つ人々が、西北西(故郷のある山東半島)に向けて葬られています。同様に同じ人々が島根県鹿島町の古浦遺跡に葬られています。ここでは、弥生時代前期から古墳時代に渡る人骨が50体余り発見されていて、多分巻いていたのでしょうが青銅製品のさびのため緑色に変色した人骨が4体発見されています。この人骨も、山東半島、土井ヶ浜のものと特徴が似ています。

このことから大胆に想像すれば、青銅の技術を持った徐福集団の一部が島根に上陸し、その子孫が銅鐸などの青銅製品をつくり始める過程で、その技術を使い出雲(島根)でのたたら製鉄の作り上げに貢献したということが言える可能性があります。徐福の子孫は葦原の中津国(中国地方と豊国)を支配しますが、前述の広島県小丸遺跡もその範囲ですね。

ところで弥生時代の鍛冶はどのようなものだったのでしょう。

「発掘成果に基づけば、弥生時代の鍛冶は「石器で鉄器を作る」過程といっても過言ではないほど、鍛冶のなかで石の占める比率が高い」(「倭人と鉄の考古学」村上恭通)

この愛媛大学の村上氏は、ジャワ・スマトラ島のサラワク族の鍛冶風景が、まさに弥生時代の鍛冶風景ではないかと考えています。そこで1997年愛媛市で鍛冶士の白鷹幸伯氏の協力を得て、熊本県二子塚遺跡出土の石器を参考にした鍛冶具を使い実験を行いました。

鍛冶炉は直径約30cmの円形で、皿状に堀りくぼめ、深さは約5cmです。皮袋製の鞴(ふいご)を2基準備し、送風管の先端は粘土を貼り付けただけという簡単な設備です。ここで鏃、刀子、袋状斧、板状斧、鉇を素晴らしい精度で作製されています。この場合の鍛造は、石床に鉄の材料を置き石鎚で叩き形を整えていくものです。鍛冶はこのような単純な装置で、実際に日本各地で見つかっている鍛冶工房はこのようなものです。例の宮崎市の場合も、この鉄分が沁みた金床石(石床)、つき石などが多数見つかっています。大規模な鍛冶が行われていたことが十分伺えます。

北九州市では、時々子供たちに海岸に行き砂鉄を取るリクレーションをしていて、鉄の町のイメージを受け継いでいって欲しいようですね。我々も先祖からの伝統・伝承などは大切にしなくてはならないですが、同時にイメージに左右されず、一つ一つ検証し、正しい知識を持ち徐福問題に取り組んでいきたいものです。奈良徐福会の一層の発展を祈ります。

[409] 高木豊博様 古代製鉄について by : 益田宗児 at : 2011/03/04(Fri) 19:37

我が国古代製鉄の資料拝見いたしました。
大変参考になります。有り難う御座いました。
徐福さんが製鉄をもたらした、との記述は修正した方がよいかも分かりません。
縄文時代、既に製鉄は行われていたが、徐福集団の製鉄技術者によって一段と普及していったと理解する方が正解かも知れませんね。
龍田山の谷間に製鉄の神様をお祭りした金山彦神社・金山媛神社の二つの社があります。全国の大手製鉄会社から毎年お参りに来ています。
イザナギ・イザナミのお子さんをお祭りしているとありますが、これは徐福集団製鉄技術者と理解したいものです。
この技術集団が暮らしていた山が近くにあり、現在も末裔の人達が住んでいます。本堂部落といいます。
ここ龍田山周辺は10代の崇人天皇が天孫降臨を願った聖地とされていたようです。興味深い界隈です。
万葉の頃は「水の吉野・桜の龍田山」といわれた桜の名所であったようです。大伴家持が桜の歌を詠んでおります。古代の桜の名所復活を掛け声に5年前から山に桜を植えております。来る4月2日には柏原市と合同で「龍田古道里山公園」で桜祭りを盛大に開催します。
会員さんも1360名突破いたしました。
桜の公園も14箇所出来ました。
ここまで来れたのも徐福の神様に守られて来たからだと皆で感謝している所です。
詳しくは「奈良徐福研究会・龍田・三室山桜の会」HPをご参考にして下さいませ。

[408] 益田宗児様、古代の製鉄について by : 高木豊博 at : 2011/02/27(Sun) 17:24

今はこのブログからは消えていますが、最近まで益田さんからのたよりが逵さんから紹介されていましたので、面白く拝見させて頂きました。ただ、そのなかで1点気になる記述があります。それは、「製鉄は徐福がもたらしたもの」というものです。徐福関係の方々はよくこれを述べられることが多いようですが、これは本当でしょうか。そこで失礼にあたると思いましたが、敢えて古代の製鉄事情について書いてみました。

 徐福はご存じのように、2200年前に東に向けて振男女数千人を乗せて船出をします。この時期は日本でいえば弥生時代の前期後半にあたります。ところが日本では、これより以前の縄文時代あるいは今では弥生前期にあたる遺跡から鉄あるいは鉄製品、あるいは剣を模倣した刀などが出土しています。また明らかに鉄あるいは金属が存在していたと推定される事物が見られます。

 例えばBC600年〜500年頃(縄文時代晩期〜弥生時代前期)、福岡市の板付遺跡や唐津市の菜畑遺跡では板や杭で水路、遺跡、取排水溝などを作り川の水を水田用水として利用しますが、この板や杭あるいは木工製品を作るには金属の使用が考えられます。実際に鉄が発見されている遺跡としては、BC200〜300年頃福岡県糸島郡二丈町石崎曲り田遺跡の住居跡からは鍛造品としての板状鉄斧があります。また板付遺跡と同じ頃の縄文晩期では長崎県小原下遺跡から炉のような遺構から鉄滓(てつさい:製鉄くず)あるいは板状鉄斧の頭部が発見されています。同縄文晩期の北九州市の長行(おさゆき)遺跡からは鉄斧が出土しています。

 また縄文時代の遺跡として最も有名な三内丸山遺跡では、北の谷と呼ばれるブロックから日本で最古級の漆塗りの木器が出土しています。暑さが数ミリしかなく精巧であまりにも滑らかであるため、専門家も金属器の使用を考えない訳にはいかないと考えています。同じ円筒式土器文化圏の北海道釧路市貝塚長の墓の遺跡から、縄文晩期の土器と一緒に鉄片が発見されています。この明神平では3600年前のカキ殻のついた鉄滓が出土しています。風の強い場所で野焼炉を作り、そこで製鉄を行ったようです。また縄文時代から後の時代まで連続している遺跡、例えば岩手県気仙郡住田町の子飼沢?遺跡からは、鉄滓が一箱分出土していますし、同様長期に渡る遺跡から鉄滓が見つかるケースも見受けられます。

この他東北地方の遺跡としては、縄文時代晩期前半(3200年前)の秋田県横手市虫内(むしない)の土坑墓からは全長71.1cmの石剣が出土しており、青銅製の剣を正確に真似したものであると、金属の専門家の佐々木稔氏は指摘しています。非常にスリムな形状をした石剣です。これは明らかに青銅で出来た剣をみたことがないと出来ないものです。実際に細長い石剣はそのままで十分武器として使える印象を受けます。

さてこのように縄文時代の鉄の存在を示す証拠が数多く出てきていますが、これはどうゆう鉄を使っていたのでしょう。東日本の常陸風土記には「ダイダラボウ」という巨人伝説があり、その巨人が自分の食べた貝殻を捨てた処が貝塚になったという話です。この「ダイダラボウ」は「ダイダラボッチ」という呼び方もありますが、実は古代日本の製鉄をやる「たたら(タタラ坊)」のことから来たのではないかと考えられています。縄文時代から製鉄があったということを示しています。つまり霞ヶ浦に生えている葦が吸い込む褐鉄鉱を。縄文人が製鉄して使っていたというのです。

同様の言葉として東日本には「高師小僧(たかしこぞう)」という言葉があります。これも同じ葦のような植物が吸い込んで出来た褐鉄鉱のことです。沼地の鉄ともいいます。縄文時代はこの褐鉄鉱が製鉄には使われていたようです。これは石炭あるいは木炭で燃やせば還元され、鉄になるということで、当時の技術でも十分可能なものです。宮崎市の瓜生野付近では、私も見て回りましたが、どこでも(数万坪)この褐鉄鉱での葦の形をしたものや粒状になった「鈴」と呼ばれるものが見られます。五十鈴川という川名もあります。他の日本各地でも同じように褐鉄鉱が見られる場所が多数あります。阿蘇の外輪山の環の中の平野部では、この鉱床が多量に分布していることで有名です。熊本の古墳で石室の内部が赤く塗られているのは、これを焼いて作ったベンガラを使っているものです。

百瀬高子さんは『御柱祭、火と鉄と神とー縄文時代を科学する』(彩流社、2006)で諏訪の古代製鉄にスポットをあてていて、縄文時代に諏訪では褐鉄鉱を原料とした製鉄が行われたと述べています。褐鉄鉱の融解温度は400度から始まりますが、縄文土器を使えば800度の温度を維持することは可能だということを実験で示されています。

これらの事例が示しているものは、徐福の前に既に日本でも褐鉄鉱による製鉄が行われていたということです。

中国での製鉄の起源は春秋時代の初め頃(BC1000年)に、シルクロードや海上交易を使い東南アジア経由で技術が伝わったと思われます。全土に渡りそれらの技術が普及したのは前6〜5世紀頃です。各種の精錬法が考えられ、赤鉄鉱、褐鉄鉱、砂鉄や磁鉄鉱からも鉄を精錬していました。前漢代の遺跡から、各種のタイプの精錬法の跡が発見されています。日本の古墳時代に出土する鉄ていは、その成分から河南〜江南の含銅磁鉄鉱石による炒鋼と言われ、どうも呉があった地域とのつながりが強そうです。日本の漢字音が呉音であることも、これとの関係がありそうです。朝鮮半島へは、紀元前1世紀頃から製鉄技術が伝わったと言われています。

製鉄方法には、直接製鉄法と間接製鉄法があります。直接製鉄法は、鉄鉱石、砂鉄などを低い温度で加熱し、溶かさずに半溶解状態のまま還元して、海綿状の鉄や鉄の塊を得るものです。この塊を鍛冶屋で見かけるように再度加熱、水をあて、鍛造して不純物を取り除き強い鋼を作るもので、たたら製鉄がこれに当たります。他方間接製鉄法は、鉄鉱石を高熱で加熱し、鉱石を溶解しながら銑鉄を作るもので、中国では古代から今までこの方法によっています。

徐福が中国からもし製鉄技術を持ち込んだのであれば、間接製鉄法になったはずですし、弥生時代に製鉄が盛んになっていたでしょうが、そういうものは日本ではまだ知られていません。たたら製鉄法も、弥生後期から古墳時代(約5世紀頃)に確立されたようです。弥生時代は意外にも縄文時代からの褐鉄鉱以外の製鉄を行った形跡がなく、全てが鍛造という金属をハンマーで叩いて任意の形を作ったものです。(ただ、原始的なたたら製鉄の技術があったと考える専門家もいます)原料は韓半島や中国南部から持ち込まれたものでしょう。

当時の中国の製鉄技術は日本の縄文鉄の技術より優れていたでしょうが、百工ということで、何でもかんでも徐福が中国から持ち込んだというのは言い過ぎのように考えられます。「何でも徐福症候群」からの卒業が必要でしょう。

[407] 益田宗児さま by : 木村正治 at : 2011/02/17(Thu) 11:59

 お手紙 拝見させていただきました。
 益田様の徐福本を御縁に、色々ご教示いただき有難うございます。
 今度は、龍田山の製鉄神社、2100前の存在、櫻並木通りの植樹と
 着々と成果を積み上げられるご努力に、感銘を新たに深くさせていただいております。
 最近の桜井市の邪馬台国・卑弥呼の発掘成果とともに、益々奈良が注目されることを、大変に嬉しく存じます。

[406] どこの市も・・・ by : 逵 志保 at : 2011/02/02(Wed) 09:02

鳥居さん、わざわざメッセージを打ち込んでくださって、きっと熊野市長も喜んでいらっしゃることでしょう。
最近は市長が積極的に徐福のことを知りたいとおっしゃいますね。先日出かけた八女市でもそうでした。
市が動いてくれないと自分の市で言っていてもらちがあかないと、お互い旅先の市で訴えあったという年配の郷土史家の方達の話が懐かしく思い出されます。

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