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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[26] 佐賀への航路 by : 高木豊博 at : 2008/09/29(Mon) 11:45

私は徐福の本体は土井ヶ浜に上陸していると考えていますが、その他の各地にも徐福伝説が残っています。これは遭難等で本体とはぐれた数艘の船が着いた可能性を示しているように思われます。その1例が、徐福国際シンポジウムが開かれる佐賀です。

佐賀では、杵島郡白石町の竜王崎に徐福一行が最初にたどり着いた所で、旧諸富町寺井津が「浮盃」の話とともに徐福一行が上陸した場所だと伝えられています。しかし唐突に有明海の北端に急に船団が出現するようで、にわかに信じがたいと思われている方が多いようです。そこでその謎に挑戦してみたいと思います。

その答えは大村湾と有明海(古筑紫海)、橘湾と有明海がつながっていて自由に行き来が出来たということです。このことは、九州大学教養学部地学研究報告第五号別刷(昭和33年2月)における山崎光夫教授の「沖積世(新石器時代)における大陸交通と諫早地峡並びに愛津地峡」に詳しく報告されています。

「諫早地峡付近・愛津地峡附近の遺跡の分布、陸地の昇降、造陸運動などを考察するに、筆者のいわゆる沖積世中期前半の最大海進期には、両地峡は水道状をなして有明海に通じていたと思われる(図版)。したがって従来大陸の原始文化吸収の交路として考えられていた北部九州から壱岐、対馬、大陸への道の外に古筑紫海(有明海)から上述の水道を経て大陸に通ずるコースが考えられる。」

隆起等の結果、これらの水道は6世紀頃消滅しますが、諫早市に船越、旧愛津町に唐津や唐比(からひ)、愛津などの地名が残っています。徐福が活躍する前3世紀には、これらの水道を船が通ることは十分可能でした。

そこで考えられるコースとしては、済州島からまず朝鮮海峡、対馬海峡を渡ります。ところがこの海峡では潮流は常に1方向に流れるのではなく、恒流(一定の方向に流れる対馬暖流の北流)と潮流(潮の干満による潮の流れ)の2つがあり、舵を持たない当時の徐福の船ではこれをコントロールすることができなかったと思われます。ここでは潮の流れが1日2回北流したり南流したりします。ちなみに日本海の方に北流することを「下(さ)げ潮(干潮)」、東シナ海の方に南流することを「上(あ)げ潮(満潮)」といいますが、これで佐世保方面に流される船が出てきたと思われます。

これらの船は彼杵半島を南下することが北流する潮流で難しいことから、穏やかな大村湾に入り、諫早地峡を通り、広々とした有明海に出たと思われます。そのため順序として最初に白石町に着いたのは納得がいきます。佐賀に着いた時には本当に安堵したでしょう。

[25] 佐賀での出会いを楽しみに by : 逵志保 at : 2008/09/26(Fri) 14:12

鳥居さん、
これでクリックして進めます。お手数おかけしました。
徐廣影さん、
初の中国からの投稿ありがとうございます。徐さんは贛楡県徐福村出身です。
高木さん、
力作ありがとうございます。佐賀ではこれだけの分量を話す時間をとることができないように思いますが、当日の話のきっかけとして使っていただけるかと思います。

[24] 徐福の子孫 by : 高木豊博 at : 2008/09/26(Fri) 12:07

徐福は山口県の土井が浜に上陸しますが、その後の子孫の進出先について述べさせて頂きます。

(1)土井が浜での徐福一行
約3年ほど前、土井が浜遺跡より700m山側に入った地点谷の開口部に張り付くようにして出来た1500平方mの片瀬遺跡という水田遺構が発見され、土井が浜遺跡と同時期の遺跡として注目されました。西日本新聞の記事では「水田のあぜ道の土台となる板材の集積遺構が長さ12m、幅4m出土、土の中からはイネのプラントオパールが確認された」となっています。また「今回の発見で半径500mの圏内に集落、水田、墓地がそろった形となり、弥生人の集落構造の解明につながりそうだ」とも書かれています。

このことから、徐福の一行が一旦この地を根拠地としてつくり、ここから各地に進出していったことが伺えます。徐福自体は、この地に留まった可能性があります。

(2)子孫の進出ルート
土井が浜の南の小串という場所に「中の浜遺跡」があります。ここでは100基あまりの墓と104体の弥生人骨が発見されました。これらの人骨は土井が浜遺跡の人骨と似ていて、面長で長身という特徴を持っています。私はまずここに徐福の子孫が進出したと考えています。

次にここから海岸沿いに南下し綾羅木遺跡の場所に一部が進出します。これは確かですが、その他のルートを考えてみたいと思います。小串の南東の菊川の地に上原遺跡があります。中の浜遺跡と同時期、紀元前200年頃のものです。この上原遺跡の土器の模様のパターンが中の浜遺跡のものと同じだということが分かっています。このことは小串の集団が2つに別れ、その一方の集団が山を越え菊川に進出してきたことを意味しています。

(3)汐汲み行事
このことを照明するものとして、「汐汲み」の行事があります。小串と菊川がこの「汐汲み」という行事で結ばれています。田植えの前に小串の海に出て行き竹筒に海水を汲んで、それを菊川の田の神にささげその後田植えを行うものです。この汐汲みのルートは厳密に守られていて、同じ道筋を通ります。このことは菊川と瀬戸内海側の山陽小野田市の梶との間でもかって行われていました。

つまり「小串〜菊川〜梶」ルートが、「米作りのルート」とも言われるような密接に結びついたルートであったと思われることです。これは水田等を段々と作りつつ新たな土地に進出して行ってからも、昔自分らの祖先が通った道筋を非常に大事にしているということです。この道が徐福の子孫が通った道筋と思っています。

この行事は大分県の山国川にも見られます。旧三光村の人々が中津祇園まで汐を汲みに行くことが行われています。山口県の場合は田植え前ですが、大分県の場合は田植え後です。ここで重要なのは、秦氏が多く秦王国と呼ばれた豊前と山口県が同じ行事で結ばれていることです。他の地域では、この行事は行われていません。

(4)結論
徐福の子孫の各地への進出は、急いで行われたものではなく、その土地土地でじっくり田を作り、その後その子孫が新たな地に進出していくというパターンで行われたと思われます。その進出地が山口県の長門、周防そして大分県の豊前(豊後)ということになり、秦氏の名前で一族をまとめたのでしょう。よく徐福一行が弥生時代を変えたと言われていますが、私としてはそれ程の影響はなかったと思っています。

[23] 徐福の上陸地点ー2 by : 高木豊博 at : 2008/09/26(Fri) 11:56

(2)中国の文献から探る
徐福は、秦の始皇帝の時代に童男、童女3000人と一緒に東にある三神山「蓬莱(ほうらい)、方丈、瀛州(えいしゅう)」に行き、そのまま帰らなかったと伝えられています。日本の島が3分割されるのは、この三神山のためではないかという説もあります。ここで「モンゴル帝国が生んだ世界図」(宮紀子、日本経済出版社)からの中国側の文献を紹介させて頂きます。

『クビライが日本に派遣した有名な国使趙良弼(ちょうりょうひつ)の知り合いであり、いわゆる蒙古襲来の顛末を大元ウルスの側から「況海小録(きょうかいしょうろく)」という一文の中で比較的詳細に書き綴った王※(おううん)でさえ、対馬、壱岐と志賀島、大宰府の間に三神山があってそこに徐福の子孫が住んでいると、まことしやかに述べています。』

記述道理だと海の中に三神山があることになりその点はおかしいですが、徐福の子孫が住んでいる場所が北部九州か、それに近い場所であったことを王※は伝えているのではないかと思います。
※何故か「うん」の漢字が出てきません。「小+軍」です。

「随書倭国伝」に、隋の使者裴世清を日本に派遣する記事があり、竹斯国(筑紫国)に行った後「また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以って夷洲となす。疑わしいが解明は不能である」という記事になります。「礼記(らいき)王利篇」に「東方のことを夷という。夷とは根本の意である」とあり、文書官は中国の東にある自分らの同胞と見なすしかないことを書いています。私は「秦」はまさに秦から来た人々がいた国で、後世「周防(すおう)」と呼ばれる地域だと思われます。

(3)総合的に見て
徐福の子孫が住んでいる場所は、中国側の資料から山口県の旧周防地域ではないかと思います。14世紀に明に渡った絶海中津が明の太祖に地図に載る徐福祠のことを聞かれ、熊野にあると答えていますが、これは彼氏のいた京の近くでの身近な知識からではなかったかと思いますが、地図そのものから考えてもここではないでしょう。

(4)土井が浜遺跡
この土井ヶ浜遺跡は、山口県豊北町の響灘に面した海岸にあります。海岸地帯に数百体の人骨が、顔を西に向け埋葬されています。1994年の調査では、これらの人骨が中国の山東省のものと非常に似ていると言われています。土器等からも判断してここからの渡来人であることが分かります。

これらの人々が埋葬され始めたのが、紀元前250〜200年頃からです。丁度徐福の旅立ちの時(BC219〜210年)と重なります。また徐福の出身地が1982年江蘇省徐阜村であることが確認されました。この地はまさに山東半島の付け根にあります。徐福祠が山口県の長門の西にあることが、中国側の地図に記されていますが、土井ヶ浜はまさにこの地に相応しいものです。私は徐福はこの地に上陸し、子孫がここから南下して山口県内の周防の地、そして豊前などに向かったと考えています。

[22] 徐福の上陸地点 by : 高木豊博 at : 2008/09/26(Fri) 11:54

初めて投稿させて頂きます。邪馬台国に関心があり歴史に興味を持ち、そこから徐福のこともいろいろ調べさせていただきました。その一部を投稿させて頂きます。この文章は、私が以前勝手に逵さんに送ったもので、内容について佐賀徐福国際シンポで質問させて頂きたいと思っています。

量がありますので、2回に分けて徐福を取りあげたいと思います。

日本の古代史における大きな話題としては、邪馬台国がナンバー1でしょうが、ナンバー2か3位に徐福があるのではないでしょうか。そこで徐福が移り住んだ地について、少し考えてみました。

(1)地図から探る
日本のことを表した地図としては、世宗の即位に合わせて1402年に朝鮮で作製された「混一疆(きょう)理歴代国都之図」(龍谷大学附属図書館蔵)が有名ですが、この地図では日本が南北に長い形で描かれています。この原因としては、基図となった日本に来ていた朝鮮の朴敦之が写した日本図の影響があると思われます。この日本図は残っていませんが、日本図自体が「拾芥抄(しゅうがいしょう)」の日本図、室町時代後期の「南膽(せん)部洲大日本国正統図」(唐招提寺所蔵)などのように倒立しているためと言われています。

この「混一彊理歴代国都之図」の作成者権近(ごんきん)が参考にした基本図が2つあります。その一つが至正20年(1360年)に清濬(せいしゅん)が作製した「水東日記、巻十七」の「広輪彊理図」ですし、もう一つが李沢民が作製した「広輿図(こうよず)=声教広被図」での「東南海夷図・西南海夷図」です。これらの地図には「徐福祠」が載せられていて、その位置が分かります。

前者の{広輪彊理図」は、大倉集古館蔵のものと米国国立図書館蔵のものと2種類が残っていて、それぞれに日本の中で載せられている地名が違っています。但し「声教広被図」とも地図の基本はまったく同じで、日本が縦長の3つの島からなっていてそれぞれが九州、中国・四国、近畿以東の本州となっています。下記にそれぞれにある地名を示します。(上西からの順序)

●「広輪彊理図」大倉集古蔵、(米国国会図書館蔵)
  (九州)    門関、太宰、牌前、泉阿
  (中国・四国) 徐福祠、長門、赤関
  (近畿以東)  江扶(遠江)、南京、堂国
●「声教広被図」(国立図書館蔵)
  (九州)    宗家景、豊前、門関、太宰、肥前、豊後、東阿、肥後、家坪、太陽
  (中国・四国) 迎江、徐福相、長門/○長、修後、修前/赤関、讃
  (近畿以東)  遠江、扶武、美、尾汝、南京、東湘、堂信

これを見ると、徐福の字は長門の西側に位置していて、およそ山口県にあることが分かります。

[21] 連雲港からのお祝い by : 徐廣影 at : 2008/09/24(Wed) 11:51

開設まですごく努力されたようです。お疲れ様です!
同時に、おめでとうございます!

今回の蘇州徐福国際シンポジウムに行けなかったので、とても残念でした。その晩には、連雲港市外事弁公室の鞠さん、税務局の関係者が日本人会の皆様と宴会がありました。予定によって、飲み会してから、蘇州へ行きたかったのです。お逢いできなくて、本当に残念です。
今度のお逢いを楽しみにしています!

[20] URL再表示 by : 鳥居貞義 ☆Ed.☆ at : 2008/09/23(Tue) 04:19

〔15〕、〔16〕に投稿した文章中のHPアドレスのURLがうまく反応しないようなのでHPアドレスのURLのみ列記させていただきます。

徐福友好塾のHP;
http://bbs1.nazca.co.jp/21/jyofuku3/

気楽なサロンのHP;旅行記、エッセイなど
http://www.eonet.ne.jp/~kirakuna/index.html

気楽なサロンの中の2002年徐福紀行文
http://www.eonet.ne.jp/~kirakuna/travel-Edward/ed21.htm

[19] 韓国巨済島徐福会 by : 逵志保 at : 2008/09/22(Mon) 22:43

赤崎さん、ご紹介ありがとうございます。翻訳も付けてくださって感謝します。
2007年(昨年)6月、韓国慶尚南道をフィールドワークしていた際、「今月徐福の石碑が建てられたところがある」といわれて出かけたのがこの巨済市でした。
1年経って徐福会もできたのですね。佐賀でお会いできるのを楽しみにしています。

[18] 新しい韓国の徐福仲間です。 by : 赤崎敏男 at : 2008/09/22(Mon) 21:08

今回初めて韓国巨済島徐福会から佐賀徐福国際シンポに参加されます。
토시오씨 안녕하세요

오랜만에 우리지역에는 밤사이에 많은 비가 내렸습니만, 가뭄이

계속 이어져 농작물에는 더많은 비를 기다리고 있습니다,

이번 사가 심포지움에 참석자는 이성보(안혜숙),김영완,이무홍 씨 4명입니다,

통역하시는 츠지 시오 선생님과의 만남도 기대가 되는군요,

일정표는 아래와 같으며 하카다항 도착후 사가현 까지의

교통편을 가려쳐 주시면 감사하겠습니다.




--아 래--




釜山 出發 : 10月10日 22時30分(카멜리아호)

하카다港 到着 : 翌日- 10月 11日(朝)

歸 國 (하카다港 發 ) ; 10月13日 12時30分(카멜리아호)




항상 건강하시고 모든분들게 행운을 기원드립니다

거제도에서 이 무홍拜

(수정된 메일을 알려드립니다 참가자:안 혜숙 1名追加 歸國10月13日 12時30分)



トシオ氏こんにちは




久しぶりに私たち地域に、夜に多い雨が降りました。日照りがずっと続いていたので農作物は雨を待っていました。

今度佐賀シンポに参席者は李性輔,金ヨンフア,イムホン、アンへソクさの4人です。

通訳なさる逵志保先生との出会いも期待されますね。

日程表は下のようで博多港到着の後、佐賀県までの交通を教示がくださればありがたいです.




--下記--

釜山 出発 : 10月10日 22時30分(カメリア号)

博多港到着: 翌日- 10月 11日(朝)

帰 国 ;10月13日 予定

[17] 謝謝!ありがとうございます by : 逵志保 at : 2008/09/21(Sun) 10:08

鳥居さん
実際にページを作っていく中での問題点、とても参考になります。ありがとうございます。
どのようにしてこのページを共有していくか、その試行錯誤がまた徐福伝説をとりまくさまざまな状況を見ることになるように思います。
よろしくお願いします。

怎么做共有这个页,想那个试行错误观察再包围徐福传说的各种各样的状况的。请多关照。

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