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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[47] 日本から中国から韓国から、掲示板を使ってください by : horuhoru at : 2008/11/11(Tue) 01:05

ツリー式にしますと説明し使っていただいていましたが、
中国語・韓国語の表記がうまくいかないことがわかりました。
この欄で活発にご意見お話しできる方は、きっとツリー式でなくてもいろんな方法を編み出してくださると思います。

HPは見たけれど掲示板に書き込みにくいという方が多くいらっしゃいます。ぜひ「見てます」でもいいので、一言書きおいてくださるとうれしいです。
どんな方がどんな興味で徐福と出会ったのかを知りたいです。
中国の方、韓国の方もそれぞれの言葉でいいので、どうぞよろしくお願いします。

[46] 前項訂正 by : 木村正治 at : 2008/11/08(Sat) 18:11

文中の福岡市宗像高宮を福岡県宗像市宗像大社高宮と訂正します。

[45] 徐福思想につながる物証(夏至太陽祭祀場) by : 木村正治 at : 2008/11/08(Sat) 12:29

吉野ヶ里で、夏至の太陽を意識した祭祀構図を見た。改めて潮岬高塚森の夏至太陽祭祀場を見てみたい。
 笠嶋遺跡・弥生構造船を発掘したメンバーに、新たに地元の中学校長、東京農工大学出身(測量)の北岡賢二が加わって、高塚森の巨石遺跡の研究に取り掛かった。潮御崎神社所有の禁足地であり、永く応神天皇の第一侍従の墓と伝えられて畏怖され手付かずで残ってきたのが幸いだった。予備調査の段階で、北岡賢二は直感した。「これは高松塚の比ではない」と。そして、ここに残りの人生と私財を注ぎ込んだ。綿密な測量調査、比較研究考察、天体観測の結果、夏至太陽の祭祀場であることをつきとめた。比較とあるのは福岡市宗像高宮遺跡、全国の太陽祭祀に関する遺跡施設等と比較し、約3〜4万?に及ぶ広大な単一域で、日本唯一最古最大の夏至太陽祭祀場とした。考古学の安井良三は(同志社・文学博士・大阪博物館主館)、その実証性を高く評価し、神話から歴史への通り道を開いたとされた。
 この内容は谷川健一監修の科学的知見から迫る大著「日本の神々」に掲載され、大変な発見と激賞されている。
 この夏至太陽祭祀場の特異性は大きく分けて3点である。
?円丘と方壇を組み合わせ季節を知ることが出来る。
?円丘は太陽と方壇は北極星と結縄している。
?馬体形磐座(夏至太陽が降臨する神座)の手前に祭司王の御座石
 があって神座の夏至太陽光を浴びて神格化する。
 この構図自体は古代中国思想である。誰が何のために何時、この様な大工事を成し得たか? このテーマを追求した北岡賢二は、あらゆる歴史的事実と魏志倭人伝、幻の邪馬台国、神話を突き合わせながら出した結論は、卑弥呼と対峙していた狗奴国王(卑弥弓呼)が、やがて卑弥呼を呑込んで東進し大和に入る。その過程で南下し潮岬に夏至太陽祭祀場を構築し、大和国家統一の祭祀をしたその人こそ、神格化したハツクニシラススメラミコト崇神天皇であると。
 潮岬島こそ天磐盾、笠嶋砂州こそ狭野であり重要極まりない地であるとした。そしてこの狗奴国王は海洋国家であり、有明海峡を通過して中国大陸と往来し、中国思想を得ていた。もしくは側近に人物を得ていたとした。
 ここに徐福一行の子孫が登場してくる可能性をみてみたい。
もちろん夏至太陽祭祀場の時代特定を科学的にやる必要があり、馬体形神座の後方、いわゆる祭壇部分を中心に付近の堆積土の花粉を調べれば可能であろう。

[43] 高木さん有難うございます by : 木村 正治 at : 2008/10/24(Fri) 19:28

高木さん
 有難いご指摘に感謝します。高木さんの知識の深さには驚きました。私など地元の夏至太陽祭祀場が日本の建国期のものであり、神武天皇、崇神天皇がはつくにしらす為に築造したという学者の研究成果と、それが実証されたとする考古学者、「日本の神々」に激賞されていることを、地元民として、ほっとくのはあまりに勿体ないというところから入って、徐福にたどり着いたばかりですから、素人ということで今後ともよろしくご指導をお願いします。私も徐福に断定しているわけではありません。こういったものを多く検証しながら積み重ねなければなりません。言わば結果としての断定された物証ではなくて因としての物証です。高木さん自身言われているように徐福に繋がる可能性は低い。すなわち繋がらないと断定できないのではないでしょうか。おおよそ日本の徐福さん自体、今のところ、伝説と伝承と伝統と信仰が入り混じった存在でもあります。ある意味、私の中では信仰にも似て大きな存在ではありますが、何処に上陸したとか、存在が小さいとも大きいとも断定できません。仮説と推測と物証の検証を待ちながら迫っていく以外にありません。
「太陽の道」「聖なるライン」にしても、わたしが勝手に言っているわけではありません。学者先生が発見され、認定されたものなのです。すくなくとも年代的には伊勢神宮成立以前(447年)とされます。そこには中国古代思想がはっきりと刻まれています。東西線にしても周髀や天日槍で可能だとされています。神武も神話の人であれば、徐福も神話の中に封じ込められているとするなら、この中国思想に何処まで迫ってくるか私には大いなる楽しみです。

[42] 物証に求められるもの by : 高木豊博 at : 2008/10/24(Fri) 13:24

木村さん

物証とは、きちんとした検証がなされ、皆さんが納得するものでなくてはならないものです。その点で木村さんの書かれたものはほとんどが伝承からの推測で、実際の徐福につながる可能性は低いと思われます。

(1)弥生の構造線
徐福が乗った船は楼船と呼ばれるものです。これは少なくとも全長20M以上で、楼が1個所はあるものです。中国の船の歴史や技術は、弥生から古墳時代にかけての日本のものとはリンクしません。構造自体に大きな違いがあり、徐福船団からの技術移転が行われたと断定することは出来ません。弥生の構造船は、日本の古くからの丸木舟の伝統と、長江から渡ってきたベーロン船的な船とから発達していったものと思われます。

(2)クジラ
韓国の蔚山の郊外の山間に、盤亀台(バングデ)という各種のクジラが岩の壁面に彫られた壁画が残っているところがあります。クジラ以外の陸上の動物も描かれていて、韓国の国宝になっています。この壁画は日本の縄文時代に掘られたもので、まだ海水がこの直近くまで上がってきていた時代です。日本や朝鮮の海岸では古代からクジラ漁業が行われたいたことは、遺物で確かめられていますので、徐福由来とは言えないと思います。

(3)牛久保密談記
「牛久保密談記」は、1687年の「牛窪記」を元に1701年(あるいは1711年)に作られたといわれています。山本勘助の話が載っていることは興味深いですが、後は城取りの話だけです。確かに徐福の子孫が古座から富士に移っていったという伝説が載せられていますが、これは浅間神社宮司家に代々伝わる「宮下文書」から取られたと推測され、「宮下文書」の成立が江戸時代初期であるとの傍証としてのみ役立つものです。

(4)太陽の道、聖なるライン
秦の始皇帝は、山々を切り開いて運河を盛んに作りましたので、測量技術が進んだことは確かです。この時代緯度も北極星を使い簡単に測ることもできるようになっていました。
しかし時計や磁石はまだ未発達で、その技術で山々を越え緯度に合わせて東西線や長い直線のを引いたりすることは不可能です。

中国ではこの後数学が発達し、「九章算術」というような算術の本ができ、西暦2世紀に張衡が方格図(100里間隔の縦横線で区切った地図)を作製し、西暦250年頃裴秀が地理学と地図作製の手引書を著すまでは、地上にラインを引いたりする考えもなく、技術もありませんでした。

裴秀は地図製作の要点として、下記の6点を挙げています。
分率……縮尺の比率を定める
準望……方位を正す
道里……距離を正す
高下……地形の起伏によらず水平の距離を求める
方邪……交差の角度、傾斜角度を正すこと
迂直……川や道路などの曲線区間で直線距離と方位を求める

[41] 徐福ページ by : nick at : 2008/10/24(Fri) 10:21

ほるほる先生のブログでお聞きしていたページですね。
早速リンク致します。

伝承地の地図はグーグルがいいでしょうか。
私のサイトでもちょっと掲載しています。

鹿児島はネタ不足で四苦八苦です。
隣国の調査に期待します。

[40] 物証―笠嶋遺跡の弥生構造船 by : 木村正治 at : 2008/10/22(Wed) 12:40

徐福渡来後約200年の構造船の物証
 昭和35年(1960)串本高校グランド拡張工事に伴って、発掘された全長8mの構造船は、同時に発掘された土器や船材料・楠・檜から2000年前の物と、同志社大学等によって判定されました。日本唯一の弥生時代の構造船の現物です。分厚い調査報告書には、こんな所に構造船があった驚きが述べられています。京都府伊根町の艫太船に酷似しているとも書いています。小さな造船所であったようです。艫太船は徐福由来が伝えられています。本州南端の未開の孤島・潮岬島の北隅に構造船の技術があったのか?この地域一帯は神武神話との関係も深く、調査報告書は神話に半分のスペースを割いています。同じ湾内の古座町は古き捕鯨の基地です。佐賀と肩を並べる新宮の徐福公園・徐福の墓まで車なら1時間です。この間の太地、三輪崎、熊野市は捕鯨が盛んであって徐福由来が伝えられています。新宮・熊野は徐福本体が来た所として有名であります。新宮の飛鳥神社、速玉神社の祭りは徐福まつりです。この祭りに欠かせないのが串本湾内、奇岩橋杭岩が大島に尽きるところ、権現島の萱とアタガシ(今は鯛)で、実に恭しく迎えているようです。伊勢神宮に保管されていると伝えられる「牛久保密談記」と言う古文書には「紀州古座から富士山麓に移住した徐福の子孫が繁栄し秦姓を名乗った」とあるようです。古座の前の島が大島・権現島、同じ並びに笠嶋遺跡・弥生構造船が埋まっていました。捕鯨や造船の技術が周辺の地域に伝えられた状況に対する今のところ唯一の物証です。

[39] 雑感 by : 逵志保 at : 2008/10/21(Tue) 11:39

掲示板がそれぞれの方のメッセージボードとなってきて、とてもうれしく思います。中国・韓国の方とも共有していくことができるよう、もうひと頑張りしようと思っているところです。

ご指摘もありましたが、徐福という一人の人物をきっかけに、様々な興味関心が生まれ、それぞれに託す思いを語り、研究することができるのは楽しいことですね。きっとその中で同じ関心を持つ方々は力を合わせ始めるのだと思います。そんな出会いの場としてこの欄が使っていただければ嬉しいです。
次代に託したいという思いは、いま私たちが振り向かれるような魅力的な場を作っているかという問いとして返ってくるものと思います。と同時にイベント欄に記しましたお二人の表彰はこれまでの地道な努力に対する遠く中国からの評価で、現場が確実にグローバル化していることを証明しています。
とはいえ、徐福伝説が勝手に動き始めるわけではありません。各地の方々、研究者の方々がこうした現在の状況を表で裏で支えていることも忘れてはいけませんね。

高木さんの人数の話、何が正しいかではなく、私は書承の問題として面白いと感じています。ひとつの作品がどの作品を参考に書かれたかがこんなところからも見えてきます。また地図の問題も以前から気になっています。その当時、地図のわずかなスペースになぜ徐福と書いたのか、徐福の受容の問題として押さえていきたいと考えています。貴重な資料をいただきありがとうございました。

[38] 木村さん by : 高木豊博 at : 2008/10/20(Mon) 17:55

鳥居先生が教科書に徐福を載せようと努力されておられることを知り、頭が下がる思いがします。

仰る通り、今後は確実に証拠を積み上げていき、徐福が本当に存在したことを証明する作業をする必要があるでしょう。その中で選別作業が重要になります。ニセ物を見分ける目も必要です。その点では木村さんの示されているものは、残念ながら信頼に足るものではないような気がします。

今私のお示しできる資料としては、この少し前の掲示板で示した徐福祠が書かれた日本地図が載った1360年頃書かれた中国の2種類の地図があります。

この地図のコピーは、佐賀のシンポジウムで中国側の一部の関係者や逵さん、鳥居さん、高島さんなどほんの僅かな人にしか渡しませんでしたが、貴重なものです。少し前の掲示板をご覧下さい。

[37] 徐福の物証 by : 木村正治 at : 2008/10/20(Mon) 15:45

逵さんには失礼しました。今、ネットワークも出来、教科書にも載せようと機運は盛り上がってきていますが、状況証拠は揃っていても物的証拠は無いと言われています。本当にそうでしょうか?ここらで徐福の資料を本格的に整理統合し分析してみる必要があります。逵さんなら出来ると思いました。物証はかなりあります。年代が明らかになった物証もあります。今ある他の物証も年代測定等、明らかにして取捨選択して組み合わせれば、一つ一つは絶対ではなくても、確実な証拠の形になってくるのではないでしょうか。稲や人骨、串本町笠嶋遺跡の弥生構造船などはかなりはっきりしています。熊野市の半両銭も残りに募集をかけてみて、藤沢市の徐福鉄鍬とを分析する。徳之島の構造船線刻画、新しく発見された徐福石像の石英親和層測定法を試す。思想的には潮岬夏至太陽祭祀場の年代測定等々進めれば相当見えてくるとみます。余生でやれるところまでやりますが、願わくは若い人に継いでもらいたいと思っています。

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