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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[68] 关于徐福资源共享(徐福資源について) by : 徐广影(徐廣影) at : 2008/11/17(Mon) 10:24

《中外徐福研究》第二辑即将出版,在第二辑中将有拙作《徐福资源的整合与共享》发表,碰巧的是,我论文的主旨之一就是建立徐福网,让中日韩三国能够共享徐福资源,不曾想到通过逵志保博士的努力,这一目标已经提前实现了,真是一件可喜可贺的事情!

『中外徐福研究』(第2集)はもうすぐ出版されます。拙著「徐福資源の整合とシェアリング」は投稿文章として発表される予定があります。折りよく、私の論文観点の一つは、徐福ネットを作ってほしいです。そしたら、中日韓三ヶ国の関係者は徐福資源を共同利用できると思います。逵志保博士がもう作ったのを思い付くことがありません。この目標は早めに叶いました。本当に嬉しいことです!

[67] 再び有難う高木さん by : 木村正治 at : 2008/11/15(Sat) 21:40

高木さん、私の立場を説明します。私の郷土に人々から忘れられた遺跡が二か所あります。それは考古学者も含めた研究者たちが、書き残して言うには、歴史上、大変に意味のある、神話から歴史への通り道を実証した、国家的価値のあるものだとされています。
 笠嶋遺跡の内容は、高木さんもある程度、認めてくれましたが、潮岬・高塚の森遺跡も、彼らの畢生の研究成果です。私はそれを本の中だけに留めたくないのです。資料館等の形で彼らの業績を顕彰し、町興しに役立てたいのです。それは私の能力にとって、高望であることは十分承知しております。これは私自身に対する挑戦であります。
 こうして疑問や批判を頂くことは、無関心の人の多い中で、真に有難いことです。ある意味、これは注目して頂いております。私も勉強になります。
 さて高塚の森遺跡・夏至太陽祭祀場は、いつ誰が何のために造ったのか? 研究書(南紀潮岬‐謎の巨石遺跡―太陽祭祀遺跡研究序論、踏み込んだ三世紀の熊野大和―建国史開扉、北岡賢二著)によると、卑弥呼死して、台予を立てた後、約250年〜300年に狗奴国王・卑弥弓呼が東征し大和に入る過程で南下し潮岬島南端で国家統一のため神格化の儀式を、夏至太陽祭祀場を造って執り行った。この時の夏至の太陽が鏡に宿ったのが天照大神であり、卑弥弓呼の神格化したのが崇神天皇であるとされます。これは神武天皇の古事記・日本書紀の東征譚の違い、ハツクニシラススメラミコトが二人もあることのへの疑問から生まれました。すなわち、卑弥弓呼と崇神は同人異称であり、神武は崇神の投影であると。縮めて崇神=神武とします。
 神武=徐福は、程天良に代表される中国側の考えです。台湾の彭双松もそうですし、少し時代を遡って、清の黄遵憲も十数点にわたって類似点を述べていますし、天皇家の人も認めていた経緯を示しています。
 私はと言えば、崇神=神武、神武=徐福の連立方程式が解けるように努力しています。約450年〜500年の間に徐福や崇神までの10代がどのように入ってくるのかこないのか? あるいは実在に見える徐福と崇神しかいないのか? 
 私は潮岬遺跡の笠嶋と高塚森の啓蒙を通じて、この答えを探ってみたいのです。
 (1)の磐座信仰については、橋杭岩など串本周辺にもたくさんあります。
民俗学的に認められた萩原法子(熊野の太陽信仰と三本足のカラス)に、熊野に多い矢倉神社(神社の原型とされますが)は、元来岩倉の約とされていたが、矢は木間に射す光の矢とされ、倉は座で、光矢が岩座に射す様を言う。それを祭ることを意味するとあります。因みに私はそこから彌の甲骨文字に、それが太陽から光の矢が放たれる様であるとみました。古い太陽を射て新しい太陽の甦りを願う行事が奉射であるとされます。
(2)の太陽祭祀については(1)と同じ部分もありますが、丸山山内遺跡など縄文時代からのものは知っています。すべては太陽神話説で説明できるといわれるほど、世界中、人類の出現と共に太陽信仰、崇拝はありましょう。人間を神格化するものも世界にはあります。しかし日本で人間を神格化するための遺跡は、北岡賢二によれば潮岬・高塚森にしかありません。ここに古代天皇、天皇大帝の歴史が被さってきます。中国では皇帝といい、日本では天皇という。
その発現は何処にあるのか。北極星の本名をどうして冠するように
なったのか。新宮徐福公園では北極星を徐福とし、7人の側近を北斗七星に擬えています。
 私は徐福がこの遺跡を利用したと言っていません。徐福及びその一行の子孫に由来する中国思想に基づいて作られていると考えています。おそらく私の子供が書いたマンガを見たのかも知れません。子供は自由な発想で書いています。私から見れば間違いが多くあります。
(3)の北極星の仰角について、北岡賢二は当時の北極星がコグマ座のB星(ベータ)であること、古代の深い森の夜間測角の困難さを考慮に入れつつ大略34度でさえ、高い精度と言えるとされたのであります。これは夜間現場に立って、なおかつ土を枕にしてみなければ解り得ない。北極星を地上につなぐイメージさえ持てれば十分であります。
(4)の天照大神と岩戸神話について
学習院の梅沢恵美子(天皇家はなぜ長く続いたのか)に、壮大な神話がこれをなさしめたとあるように、神武の皇祖神天照大神と三種の神器が天皇家が長く続いた骨格ですよね。骨格を生み出すための大きな構想、あるいは何か歴史上の出来事の比喩、大変な知恵者がいたと思われませんか。八百万神々の相談、思兼神の智慧、太陽、鏡、勾玉、刀そして岩戸開き・・・・
 北岡賢二の言う岩戸開きは、古代の高塚森は数万?、これをブラックボックスと捉えます。この闇を破る夏至太陽の暁光、此処に降臨する磐座がある。御座石で祭祀王が光を浴びる。鏡がある。それを見上げる多数の人がいる。これが岩戸開きの闇と光が織り成す光景です。ちょっと昔の森内は無数の光矢と光刀と光玉に満ち溢れていました。
                   つづく

[64] 木村さん、少し追加 by : 高木豊博 at : 2008/11/15(Sat) 14:24

昨日のものに少し追加させて頂きます。結論としては、木村さんの説は何でもかんでも入れ込んで、支離滅裂な説になっているということです。

1.斎場
 斎場の区画の方向は、太陽の丘と呼ばれている磐座とは無関係に設けてあります。列石のあり方や斎場の形状から、田舎によく見られる昔の家の区画ではなかったでしょうか。「畑のように均されている」というから畑用の区画であったかも知れません。百歩譲って社務所用の区画であったかも知れませんが、太陽の向きとは関係がなさそうです。

2.天孫族
 「「天孫」なるものは、徐福以外にあるだろうか。」と書かれていますが、また神武天皇=徐福としていたりもされておられます。イザナギの尊が活躍された場所、天照大神が生れた場所、神武天皇が生れた場所も宮崎です。例えば神武天皇が生れた高原町には、神武天皇が生れた地名に因みつけた名前狭野尊(さののみこと)の狭野神社があります。この創建は古く、第5代考昭天皇の時代と言われています。皇室の尊敬もあつく、各天皇、皇族の植樹の木が残っています。神武天皇と徐福が何の関係があるのですか。

 天孫族が徐福と関係あるとすれば、「フツシ」という別名を持つスサノウの尊が徐福の3代か4代後に出雲で生まれ、後に天照大神と結ばれ、宗像三女神を生んだりしていることです。またスサノウの尊の子孫は物部(もののべ)氏とも呼ばれ、天皇の外戚として力を振るいますが、出雲(徐福系)の国そのものはのちに天孫族に譲ることとなります。

3.崇神天皇
 狗奴国の王卑弥弓呼が崇神天皇だということですが、卑弥弓呼は邪馬台国の女王卑弥呼と同じ時代の人間です。第1代の神武天皇は、卑弥呼=天照大神とすると、卑弥呼の5代目の孫に当ります。崇神天皇は、第10代の天皇です。どう考えても時代が合わないのですが。

4.笠嶋遺跡と前方後円墳
 前方後円墳は、円形の墳墓と方形の祭場からなります。この成り立ちの起源については諸説ありますが、円丘と方丘の組み合わせであることは確かです。『晋書』武帝紀泰始2年(266)には「十一月己卯(五日)、倭人来たりて方物を献ず。円丘・方丘を南・北郊に并(あわ)せ、二至(冬至と夏至)の祀りを二郊に并す」とあります。
 いずれにしても前方後円墳は亡くなった人を葬る墳墓であり、円丘や方丘ではない笠嶋遺跡は磐座祭祀遺跡です。この両者のつながりはありません。

[62] 困ったものですね by : horuhoru at : 2008/11/15(Sat) 10:58

下記のように、掲示板荒らしの書き込みが続いています。
こちらでは対応ができず、管理者の方にお願いして削除していただいていますが、やはり登録していただく形にしないとこれは続きそうですね。
度々ご迷惑をおかけしますが、安定した運営に向けてご理解ください。

[54] 木村さん、再び by : 高木豊博 at : 2008/11/14(Fri) 15:47

木村さんが熱心に笠嶋遺跡について紹介されている熱意については、頭が下がる思いがします。しかしその内容については納得いくものではありません。いろいろな不備があって何から言って良いのか分りませんが、いくつかを思いつくままに述べさせて頂きます。

(1)磐座(いわくら:岩倉)信仰
 磐座信仰は、「天地(あめつち)の権興(つくりはじめ)、草木がものをよく言うことができたとき」から行われていて「神が降って来た」特長ある岩に対して行われているものです。この信仰は縄文時代から引き継いでいて、神道や山岳仏教の影響で広い形で広まってきたものです。笠嶋遺跡もその例に漏れず徐福の前からのもので、何でも徐福に結びつけるのは強引と思われます。

(2)太陽祭祀
 笠嶋遺跡は夏至の太陽の昇る位置が山の頂上と麓の平地の区画(斎庭)の端に当っていて、太陽祭祀遺跡だとのことですが、日本では三国志「魏志倭人伝」の記述での裴松之の注「魏略に曰く其の俗正歳四節を知らず但春耕秋収を計って年紀となす」にあるように、「春耕〜秋収」で1年、「秋収〜春耕」で更に1年と数えていたようです。従って太陽祭祀ということであれば、少なくとも冬至の位置を示すもの(新嘗祭)、春や秋を示す東西ラインを伴っているべきだと思います。その観点からすると、この遺跡が太陽祭祀遺跡とは考えられないと思います。たまたまアボウトなラインが一致したとするしかないでしょう。

 徐福がこの太陽祭祀場所を利用したとのことですが、人口が近畿全体で4,200人しかいないような時にそれをどのようにして知ったのでしょうか。磐座は全国各地にあります。特徴もあまりありません。ここがそれ程注目を集められる場所であったとは思われません。

(3)北極星の仰角
 北半球では、北極星の仰角=緯度となります。遺跡のある串本町は、北緯33度26分です。34度とは違います。また北極星の位置は、時代により変化します。こうなってくると遺跡の仰角というものが怪しくなります。

(4)天照大神の岩戸神話
 この神話は、記紀でスサノウの尊が暴挙をしたため、悲観した天照大神が岩屋戸にこもったため世の中が真っ暗闇になり、そこで困りはてた神様がその外で天宇津女に踊りを踊らせ騒ぎ、ちょっと顔を見せた天照大神を天手力男命が外に連れ出し、闇が消え目出度し目出度しという物語です。これは一般的には、天照大神が卑弥呼と同一人物で、この出来事は247年か248年に起きた日食を表していると言われています。ただ木村さんのブログでは、そうではなくこの出来事は高塚の森の太陽祭祀が天照大神の太陽祭祀になったものだとなっています。

 しかしこれは記紀をよく読むと、日食のように短い時間で行われたものではないこと、また太陽祭祀とは関係ないことが分ります。暗闇であった時間、周りに災いをもたらしている状況等を考えると、火山の噴火が一番あっています。私もインドネシアで経験しました。本当に半日以上も夜の闇に閉ざされます。ついでですが、岩屋戸は岩の洞窟ではなく、磐船(いわふね)の例に見られるように、硬い全体が木で出来た建物のことです。天照大神がそっと開けて外を覗けたのも、そのためです。

(5)狗奴国(熊襲)
 木村さんの主張では、「卑弥呼と対峙していた狗奴国王(卑弥弓呼)が、やがて卑弥呼を呑込んで東進し大和に入る。その過程で南下し潮岬に夏至太陽祭祀場を構築し」となっています。狗奴国の位置を九州の南西地域と有明海としている点は評価できるのですが、狗奴国が邪馬台国を飲み込んで東進するような事実は、歴史文献上、考古学上も見当たりません。確かに邪馬台国を一時圧倒するような勢いがあったことは確かです。ただそれまでです。台与(とよ)が出てくる時には、元の鞘に納まってしまったようです。

 この狗奴国には、まず天照大神の子供の天津彦火瓊瓊杵命(あまつひこほのににぎのみこと)が高千穂の峰(霧島山)に天下りし、薩摩の川内に進出します。またこの命は、臼杵の郡知鋪の郷高千穂にも天下りしています。この後は、これを神武天皇の孫の建磐龍命(たけいわたつひこ)が既にこの地に入っていた伯父の草部吉美神の娘阿蘇津姫と結ばれ、阿蘇一体の開拓にあたることになります。一族で国造になる人も出てくる一方で、神功皇后の時に、渡韓の功で甲佐、熊本、宇土の地を得たりして、狗奴国を北から圧迫します。

 これにより、狗奴国も分裂し、久米族として大和朝廷に仕える大伴一族と現地に残るものとに別れ、南からの圧迫もありその後消え去ります。これが『新阿蘇学』に紹介されている人吉市の青井阿蘇神社宮司尾方益男さんの話しになります。「球磨川を境に右岸は阿蘇神社系、左岸側は霧島系の神社が祀(まつ)られているようです。」

[52] お詫び by : horuhoru at : 2008/11/13(Thu) 21:19

木村さん、驚かせて申し訳ありませんでした。
こちらで故意に削除するというような事態は、個人への中傷であったり、公開すると危険が伴う個人情報など、そんなことでもない限りありませんのでどうかご安心ください。

説明が遅れてすいません。
HP管理者(私ではなく、HPの技術的管理者)から、「徐福HP掲示板への変な書き込みが多く、削除を頻繁におこなっていたのですが、システムのプログラム上から削除作業をおこなっているとき、誤ってすべてを削除してしまいました。」ということで、
その後、ほぼ原状まで戻していただくことに成功し、こちらでは私の投稿だけが生き返っていないと勘違いしていました。申し訳ありませんでした。
木村さんには大変失礼しました。また、他にそういう方がありましたら、本当にごめんなさい。
木村さんには再投稿いただきありがとうございます。

現在、迷惑な書き込み(海外から)が頻繁に入り始めました。
その都度、HP技術管理者に対応してもらっていますが、海外からの迷惑メールはIPアドレスを変えながら、どんどんと届き始めるので対応が難しいそうです。

パスワードを使う手もありますが、できればこの掲示板はできるだけオープンなものにしておきたいと考えています。
ある程度荒らされるのは、覚悟しないといけないかもしれません。

時折おこる不具合は今後も故意では決してありませんので、どうぞご理解ください。

[51] 太陽祭祀から迫る徐福 by : 木村正治 at : 2008/11/13(Thu) 18:26

投稿文章が消されたので一瞬唖然としました。何が起こったのか?これが鳥居さんの言われた悪戯なのですね。気を取り直して改めて投稿!
 二年前、鳥居さん、岡本さん(大阪徐福友好塾)に連れてもらって、北京徐福国際セミナーに出席出来ました。ホテルの鳥居さんの部屋で、程天良(徐福霧のかなたへ)と出会い、潮岬の夏至太陽祭祀場を説明したところ、大変に興味を示されました。ついには持っていった「笠嶋遺跡調査報告書」・「南紀潮岬―謎の巨石遺跡―研究序論」とパンフレットを差し上げてきました。
 それもそのはずです。「徐福霧のかなたへ」には、徐福と太陽祭祀が詳しく書かれています。
 (以下引用・要約)徐福の故国、古代「斉」自体、天主天斉から採られている。徐福はもともと東夷の少昊氏の一族の末裔だという。東夷人が祖先として祭っていた太陽神が「斉」の日主となった。
 日主は成山で祭る。成山は海に臨んだ山東半島の東の端にあり、日の出を迎える山である。少昊氏の一族は太陽を崇拝していた。雲台山地区の将軍崖には東夷の社祀遺跡があり、太陽を思わせる図案の磨崖石刻と太陽石がある。
 日本の九州で出土する古代壁画の中にもよく似た図案が見られる。
 この太陽を祭る儀式は、東渡した徐福によって彼が新しく引っ越したところに移植されたと表現すれば、さらに合理的であろう。それまでの先住民族にとって、宗教や神を崇拝する活動は彼らを強く感動させ、団結させる力をもっていた。その意義を方士としての徐福は誰よりもよく知っていたはずであり、十分に利用したはずであった。(以上)
 仏教といい、儒教といい、宗教や思想は、永く形を変えないで残る。徐福が伝えたと思われる古代中国思想は残っているに違いない。吉野ヶ里にも潮岬にも形跡が見られることは言うまでもないが、古い神社の歴史にもそれは残っている。無論、古事記・日本書紀にも影を映している。
 太陽祭祀と徐福の関係を、日本側で説いている人は、寡聞にして今のところ知らない。前方後円墳と太陽祭祀の関係を安井良三は説いている。
 この意味でも、徐福研究家の皆さんには、前方後円墳の原型とも思われる、潮岬・夏至太陽祭祀場を注目して欲しいと思います。

[50] 11月12日の掲示板トラブルについて by : HP管理者 at : 2008/11/13(Thu) 18:04

徐福掲示板への海外からの迷惑投稿が続いており、頻繁に削除をおこなったため、通常の投稿にも削除等のミスが出た場合があります。
大変ご迷惑をおかけしました。
恐れ入りますが、再投稿等をおこなっていただきますようお願いいたします。
今後も掲示板は試行錯誤を繰り返すかもしれませんが、安定するまでもうしばらく不具合等が出る可能性があります。
ご了承ください。

[49] ええ・・・・・? by : 木村正治 at : 2008/11/12(Wed) 20:39

間違いですか? それとも文章が悪かったのですか?

[48] 記紀での徐福 by : 高木豊博 at : 2008/11/11(Tue) 11:19

記紀では徐福が見当たらないという話を聞きますが、ちゃんといるように思います。これを知るには、やはり先日紹介し別形式の掲示板に移った『常陸風土記』の文章が一番それに役立つように思います。

  天より降って来た神………「天」
  葦原中津之国   ………「御中」
  山や河の荒ぶる邪魔ものをやわらげ平らげた………「主」
つまり「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」のことではないでしょうか。 記紀の一番初めの部分に出てきます。

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