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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[78] 岡本監督に連絡しました。 by : 木村正治 at : 2008/11/24(Mon) 14:39

 差し出がましいのですが、小生多少とも岡本監督にお世話になっていますので、連絡を入れました。ご容赦下さい。

[77] 徐福―初上陸地は徳之島? by : 木村正治 at : 2008/11/22(Sat) 14:08

 奈良徐福会長・益田宗児氏の「徐福物語」はそう長くはないが読み応えがありました。今まで、徐福の出航は準備万端であったが、目指す所は蜃気楼の如き三神山、やがて蓬莱山なる日本の彼方此方に漂着したようなイメージを持っていましたが、
 そうではなくて、紀元前はるか昔から、徳之島周辺の宝貝が中国に持ち込まれていたことから、徐福は徳之島や九州、日本について十分な情報を得ていたとされる。徳之島が日本一長寿の島であること、持衰などの航海士、通訳も活躍したこと、五穀百工の他、動物では特に馬を持ち込み徳之島や種子島で繁殖させたことは40に余る牧神社の存在で解り、奥野利雄氏によれば、中国側で徐福の牧場が発見されたことも伝えられる。
 ここから九州南部、東部、西部、北部、本州、壱岐対馬、斉州島、朝鮮南部へ伝播されるとする様は新鮮である。なお日本神話の元があるとされる。
 この八月新たに発見された徐福の石像や、構造船と捕鯨の石刻図は、私に徳之島訪問を決意させてくれました。
    是非一読を請います。

[76] 映画「徐福さん」のご紹介 by : 前田秀一 at : 2008/11/22(Sat) 01:41

 (社)日本図書館協会映像事業部が、「徐福さん」にご注目され私のホームページに関心を寄せていただきました。
 早速、岡本監督をご紹介させていただきました。

 ホームページにご紹介して何年ぶりでしょうか? やっとのこと、何とかお役に立てそうな気配が出てきました。
 日本全国の図書館にご紹介され、多くの人々が鑑賞していただき“徐福さん“に関心を高めていただければと願っております。


From: 社)日本図書館協会
To: 前田秀一
Subject: 映画「徐福さん」について
Date: Fri, 14 Nov 2008 15:28:23 +0900

初めてお問い合わせさせていただきます。
私共は(社)日本図書館協会と申します。
著作権処理を済ませたビデオ・DVD等映像資料の、
公共図書館等への頒布事業を行っております。
このたび、御社で販売されております「徐福さん」を図書館より購入したいとの問い合わせがありました。
こちらのDVDは図書館へ販売していただけるものでしょうか?
図書館なので、利用者の方への館外貸出しも行いますが、
許可をいただけますでしょうか?
大丈夫であれば、条件等のお話をし、私共と契約を交わさせていただき、
手続きをしたいと存じますので、ご担当の方から
お電話をいただけますでしょうか?

ご連絡をお待ちしております。よろしくお願いいたします。

(社)日本図書館協会 映像事業部

[75] 最初の航海での童男女数 by : 高木豊博 at : 2008/11/20(Thu) 17:06

『史記』秦始皇本紀(219年)の記事に「斉人徐市等上書して言う、海中に三神山あり、名を蓬莱、方丈、瀛州と曰い、仙人これに居る。請う、斎戒し童男女と之を求むることを得ん」とあり、それから準備して数年後に日本への航海に旅立ったと思われます。しかし第1回のこの航海は失敗に終るのですが、この時何人の童男童女が乗っていたか不明です。そこでこれを考えてみたいと思います。

ヒントは「仙人これに居る」にあるようです。道教の仙術・方術の法典は葛供が317年頃表した『抱朴子』ですが、その中で鏡で仙人に会う術が説かれています。明照(明鏡)法といいます。

『西京雑記』巻三には、漢の高祖が咸陽宮に入った時に幅4尺、高さ5尺9寸の鏡を発見しますが、両面とも鏡面になっていて、人は何もせずに自分の逆転した映像や体の中の五臓とその状態をみることができ、もし鏡に映った女子に邪心があると彼女の胆嚢が膨らみ心臓が動揺したとの記事があります。秦の始皇帝は、その鏡につねに後宮の女人を映し、そのような現象が起きればただちにこの女人を殺したと言われています。

鏡はこれだけではなく不老長寿に達することも可能と説かれていますが、特記すべきことは9寸以上の明鏡を用いて自分自身を映し、自分の体内を想像すれば、7月7日の夕方に神仙の姿を見れるというものです。明鏡は1枚か2枚使います。静かで周りに邪魔されない心境で自分を鏡に映し、老君を胸に念じると、老君の真形が現れます。

(太上)老君とは、老子が昇仙した時の名前です。老子は「姓は李、名はタン、字は伯陽、身長9尺、顔は黄色く、口は鳥のくちばしのように尖り、鼻が高く、眉は秀で、長さが5寸あり、耳は長さが7寸ある。額には3本の筋が上から下まで走り、足には八卦の形をした筋がある。(中略)五色の雲を衣服とし、幾重にもなった冠や鋭い剣を身につけ、黄童120人を従え、左に12の青龍をはべらせ(下略)」と書かれています。

老子は完全に人間離れをしていますが、重要なのは「黄童(わらべ)120人」を従えているということです。徐福が秦の始皇帝を説いた時に、「老君に現れてもらい不老不死の薬をもらうには、120人の黄童を用意しないといけない」と説いたのではないかと思います。「仙人が居る」とは老君(老子)のことです。従って最初の航海では、120人の童男童女を伴っていたと思われます。しかし2回目の千人と比較して少ないため、『史記』では敢えて人数を記載しなかったのではないかと考えられます。

[74] 書き込みテストです。ご了承ください。 by : HP管理者 at : 2008/11/19(Wed) 22:53

徐福伝説を「縁」とした地域と人とのネットワーク
서북전설을「녹」이라 하는 지역과 사람들의 네트망
徐福传说为「_」的地域和人的网组

[73] ご理解ありがとうございます by : horuhoru at : 2008/11/19(Wed) 21:33

高木さん、ご理解いただきありがとうございます。力作を個人メールでお送りいただきました。併せてありがとうございます。読みたいという方、直接高木さんにメールをお送りください。対応くださるでしょう。

木村さん、私もこの掲示板が生かされていくことは嬉しいことと思っています。御不便もおかけしますが、ぜひご自身のHPで展開し、そちらに促していただけると良いかと思います。

最後にみなさまへ。インターネット上の発表についてはどうぞご自身でお気をつけください。せっかくの努力があっさりとコピーされてしまうこともないとは限りません。多くの方が目にしているということ、それは嬉しいことばかりでもないこと、お互いに注意しましょう。

[72] 徐福を富士山に譬える by : 木村正治 at : 2008/11/19(Wed) 14:17

ほるほるさんのおっしゃることも分からないわけではありませんが、この項が終わるまで失礼します。
 徐福の持ち込んだと言われる五穀百工に思想、宗教を加えれば恐らくは全部がその影響を受けていることになることでしょう。むしろ徐福に関係ないというものを探すことの方が大変だと思います。
 その意味で日本での徐福を富士山に譬えてみます。
伝説や物証、思想、神話やその他の新発見を積み重ねて、帰納的に富士山の裾野から、頂上へと迫っていく方法があります。
 もう一つは頂上から、俯瞰的にあるいは直感的に、また仮説や結果を想像しその原因を求めていく、いわゆる演繹的手法があります。
 この下から上からいろいろと探っていく中に、おそらく長い時間がかかるでしょうが、富士山の全体、徐福像が顕れてくるのではないでしょうか? ですから沢山の人がいろいろのことを出してくれなければなりません。
[64ー1]斎場の向きこそ、この遺跡の独自性であり、夏至太陽と北極星の融合を演出します。農工学の測量専門家と考古学者が合体し、私財と十数年の天体観察、考察の末に出した結論にそう簡単に否定の見解を出せるものではありません。三冊を本を先ず読むでみる。そして現場に立つ。少なくとも一年は観察してみる。そうした認識があって初めて評価できるものだと思います。
 円丘と方壇の関係、言い換えれば円丘の神座を通過する太陽光の直線と方壇が交わる各点で四季が計れます。言われる冬至の祭り場所は現代の灯台のあたりと推測されてはいます。
 但しこの遺跡の性格からしてあまり冬至に意味を持ちません。何故なら、それまでの太陽崇拝、祭りを取り込んで、地上における太陽神=鏡=天照大神と、地上の北極星=天皇大帝を生み出す装置でありますから、極めて短い期間、一瞬的に利用され、後は秘されてしまったものであるからです。冬至、春秋分が特に必要とされません。必要なのは夏至南中の太陽の日の出と北極星です。
[64ー2、3、4]ついては、すでに述べています。
自分の知らないことを人が教えてくれる、あるいは読めることは、実に有難いことですね。

[71] 古代中国の船の原稿 by : 高木豊博 at : 2008/11/19(Wed) 09:51

徐福の問題は、船の問題を抜きにしては語れません。中国には古代の中国造船史についていろいろな資料があり、研究者が簡単にそれに触れることができますが、日本ではまだそのような本を見たことがありません。そこで私自身の勉強のためもあり、また日本の研究家の一助にもなれればとも思い、古代中国の船の歴史について簡単にまとめてみました。
目次を示しますので、もし興味がおありの方は、ご連絡下さい。また短い時間でまとめたものであり、誤りもあると思います。それはご指摘頂ければ幸いです。また新しい情報がありましたら教えて下さい。

1.殷周以前の舟
(1)はじめに  (2)筏(いかだ)  (3)丸木舟  (4)その他  (5)方船   
2、舟の部品
(1)帆(ほ)  (2)舵(かじ)  (3)櫓(ろ)  (4)櫂(かい)  (5)さお  (6)碇(いかり)  (7)桐油
3.ドラゴンボート
4.春秋戦国時代の船
(1)春秋戦国時代  (2)春秋戦国時代の戦艦  (3)水上戦闘の様子 
(4)春秋戦国時代の商人  (5)船の名前  (6)最初の沿海活動
(7)四川省成都の大型船棺
5.秦時代の舟
(1)秦時代の造船  (2)秦の水軍  (3)5大港
6.中国の船の構造
7.徐福の航海
(1)徐福と航海  (2)船の構造  (3)航海ルート
8.漢代の船
(1)漢代の船  (2)漢の2階建ての船 (3)漢代の造船所 
(4)前漢の武帝(在位前141年〜前87年)の海上交通開拓  (5)客室の区画
9.三国時代の船
(1)三国時代の船  (2)三国時代の軍船  (3)赤壁の戦い(208年) 
(4)三国時代の造船所   (5)魏志倭人伝に出てくる船
10.古代の航海
(1)天文航行  (2)船の速度の測り方と指南  (3)1日千里
12.「洛神賦図」にみられる船

一ヵ所だけ例として示します。
4.春秋戦国時代の船(3)水上戦闘の様子
当時の銅壺(「宴会を楽しむ様子・狩猟の様子・水上戦と陸上戦の様子が描かれた壺」)には、水軍の戦闘の模様が詳しく描かれています。
 戦艦は2層に分かれていて、上層では水兵が腰に短剣を下げ、長い戈や弓で戦っておりそれを陣太鼓を叩いて鼓舞する武人がいます。下層には漕ぎ手が必死にオールを漕いでいます。潜水兵は水の中に潜り、船の航行を妨害したり、同じように潜水した相手の水兵を攻撃しています。潜水兵は相手の船底に穴を開けて船を沈めようとしています。船底は潜水兵の攻撃を防ぐために、2重の装甲が採用されています。
前漢までの越や呉に関する地方誌である『越絶書』では、越の海軍力について「決死の兵8千人、戈船3百隻」という記述があります。「戈船」とは戦艦のことで、これだと1隻に27人乗っていた計算になります。これが実際の定員数に近いでしょう。またこの時、この動員状態で、長江の入江から山東半島、東海、黄海を経て、全工程500海里(930km)をこなしたことは、中国としての最も古い遠洋航海記録となっています。

[70] 掲示板の使い方(案) by : horuhoru at : 2008/11/18(Tue) 20:09

掲示板に意見を書くことができて嬉しいという声が届いています。と同時にこの掲示板に自分の意見を書く気がしないという声も届いています。
誰もが満足いく掲示板ができるとは思いません。ですが可能な限り徐福を「縁」として出会える場としてこの掲示板を生かしたいと考えています。

[68]徐广影さんの投稿は徐福村のある中国連雲港からでした。中国語と日本語が併記できる投稿欄という私の希望がようやく形になった初投稿です。ありがとうございます。
昨夜わたしもまた中国語と日本語で投稿しましたが、その投稿は誤ってだと思いますが消されてしまいました。

私信でA4で14枚分を分割投稿してもいいかという質問をいただき、ここで投稿の仕方を提案しておいたほうがいいと判断しました。
幸いこの掲示板は投稿者に個人メールが出せるようになっています。ですから今後長文になる場合、箇条書きなど簡潔に示し、「詳しく知りたい方は」個人メールかご自分のページに飛べるようにアドレスを記していただけないでしょうか。

賛成反対あると思いますが、現在のように往復書簡のように続くと読み手は限られてしまいますし、[68]徐广影さんの投稿に気付かないままになってしまいます。
ぜひご理解をいただければと思います。

[69] つづく(5) by : 木村正治 at : 2008/11/18(Tue) 15:48

(5)について。文献としては?山本武夫の「崇神はさまざまな経緯はあるにしても、九州を出発して瀬戸内海を東航して、大和盆地に侵入したことになる」、?水野祐ー日本古代の国家形成に「この狗奴国がやはり航海上の知見を有していたから、日向から九州の東海岸を回って北九州の博多湾頭の奴国に至り、そこから対魏貿易もなしえていた。伝統的にこの九州東回り航路を確保していたことが、やがてまた狗奴国をして九州島を統一支配させるに至った原動力をなしているのであることに思いをいたすべきであろう。この九州統一者狗奴国は、つぎの時期においては、本州島の統一者大和国家と対決しなければならない運命に立っていた。それは、列島社会の統一運動の流れの過程において、やむをえぬ必然の宿命とでもいうべきであった。魏の勢力が衰え、その権勢が海東諸国に及んでこないようになると、急に狗奴国以下の諸国の勢力が強大化してきた。そしてついに魏が倒れて晋朝が建つとの情報が列島に伝わるや、狗奴国はふたたび強力な反撃攻勢にでて、和平調停の策されないままに、女王国を征服」など。
 このような考えの中に有明海峡を導入されたのも北岡賢二ですし、卑弥呼の邪馬台国は農業生産国であり、卑弥呼の言葉が神託でした。それに対し卑弥弓呼の狗国は通商航海を重視し、太陽宗儀でした。
 神武神話に見られるように九州と紀伊半島は似ています。また神話の原型が徳之島に見られるそうですが、これを三段階でみると、紀伊半島の太陽(神)祭祀はより進歩的です。
                         つづく
 

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