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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
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[108] 徐福の正体と平原広沢 by : 高木豊博 at : 2009/01/04(Sun) 18:42

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。正月のほろ酔い気分が残る中で徐福について考えてみましたので、久しぶりに述べさせて頂きます。

(1)徐福の進出先
徐福が第2回目の航海で上陸した場所は、以前紹介させて頂いた1360年頃作成された中国の古い2枚の初めて日本を載せた地図(『声教広被図』の徐福相、『水東日記広輪彊理図』の徐福祠)で示されているように、山口県(長門)の西の土井ヶ浜です。この後南に下り瀬戸内海に出て海を渡り福岡県東部(豊前、豊後)に進出するもの、周防から東に瀬戸内海方面に向かうもの、それに日本海に添い出雲に進出するものがでてきます。
 この進出後徐福の子孫が安住した場所が、いわゆる記紀による葦原中津(之)国(あしはらのなかつ(の)くに)と歴史上呼ばれている場所です。『常陸風土記』にある「ここ碓井から西に高来(たかく)の里がある。古老がいうことには、「天地(あめつち)の権輿(つくりはじめ)、草木がものをよく言うことができたとき、天より降って来た神、お名前を普都(ふつ)大神と申す神が、葦原中津之国(あしはらのなかつのくに)を巡り歩いて、山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた。大神がすっかり帰順させおわり、心のなかに天に帰ろうと思われた。その時、身におつけになっていた器杖(武具)「これを俗にイツノという」の甲(よろい)・戈(ほこ)・楯およびお持ちになっていた美しい玉類をすべてことごとく脱ぎ棄ててこの地に留め置いて、ただちに白雲に乗って蒼天(あおぞら)に昇ってお帰りになった。」
 この古老が常陸の地に埋もれていた武具類を普都大神に間違って結びつけて答えたものと思われるが、徐福の本名が徐市(じょふつ)が本名であること、また葦原中津之国を巡っていることからこの普都大神が徐福であることは間違いないと思われる。「天より降ってきた」とは中国より渡来したということだと思われます。葦原中津之国とは、出雲の範囲だけを考えるものと、中国地方の西半分+福岡県東部(豊前、豊後)とするものがありますが、私は後者を取りたいと思います。
 日本語のアクセントは、弥生時代にほぼ固定されたと言われていますので、これを調べるとその時代の勢力の分布図がほぼ掴めます。平山輝夫先生の『日本の方言』によると、兵庫県を除く中国地方と福岡県東部+大分県北部(豊前、豊後)+四国の一部の地域が東京アクセント地域であり、このことからもこの葦原中津之国の範囲が分かります。

(2)記紀での徐福
 記紀では徐福のことは記載されていないと歴史学者や研究者が述べていますが、本当にそうでしょうか。日本書紀では巻第一の神代上に古代の神々のことが載っています。数種類の伝承が書かれていて、古事記とも総合すると最初に国常立尊(くにのとこたちのみこと)が最初にいて、この後別天つ神として天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすみのかみ)と神産巣日神(かみむすひのかみ)が独神(ひとりがみ)として現れそして突然消えて行きます。
 この国常立尊は国の根元神ですので、縄文人のことではないかと考えられます。先ほどの『常陸風土記』の普都大神の記事での「天地(あめつち)の権輿(つくりはじめ)、草木がものをよく言うことができたとき」はまだ国土が開発されていない時代(縄文時代)を意味し、「天より降ってきた神」は天を、「葦原中津之国(あしはらのなかつのくに)を巡り歩いて」は御中を、「やわらげ平らげた」は主を表していて、これを総合すると「徐福(徐市)=普都大神=天御中主神」ということを表しています。ただ後の2神はどうも朝鮮から渡って来た神のようです。

(3)徐福の武力
 伝説の中では、徐福は平和な集団としてまだ未開だった人々に五穀の作物を教え、百工の人がそれぞれの技術を伝えたと言われています。しかしこれは本当にそうだったのか検証する必要があると思います。先ほどの普都大神は「山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた」とあり、従わないものは武力で制圧することも行われたのではないでしょうか。
 古事記では「天地(あめつち)の初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすひのかみ)、この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき」とあり、昔の神々の出現にはこの「(成)れる」という字が使われています。漢和辞典では「成」は「戈(か)と音符丁」でなっていて、「たいらぎ、平和、また争いごとのまとめ」『漢字源』(学研)となっていてある程度の武力が伴っていることを暗示しているようにも思えます。これが『常陸風土記』の記述として表れているのでしょう。

(4)平原広沢
 一般に、この意味は「広い平野と湿地帯がある地帯」というイメージで捉えられ、佐賀平野が一番このイメージにあっていると考えられています。本当にそうでしょうか。
 「平原」については、ほぼイメージ通りの「平らで広々とした土地、平野」です。しかし「沢」については確かに「湿地帯」という意味もありますが、中国人に聞くと「沼」や「池」のようなイメージを持つようです。
 この「沢」は『漢字源』(学研)では、「会意兼形声。睪は「目+幸(手かせ、罪人)」の会意文字で、手かせをはめた罪人を、じゅずつなぎにして歩かせ、目でのぞいて面通しをするさまを示す。○─○─○の形につぎつぎに並べて、その中から選び出すことで、擇(タク=択)の原字。澤は「水+音符睪」で、○─○─○の形に草地と水たまりがつながる湿地」であり、その意味は「点々とつながる沼。また草木のはえている所と水たまりとが、たがいちがいに続く湿地」であるとなっています。また「沼(ショウ)」は「まるく弧をえがいたぬま」となっています。
 これらを総合すると、「広沢」とは「広く大きな丸い沼が、○─○─○の形でつながっている所」とするのが良く、これに合う地形としてはクリークのような細い水路状の佐賀平野では不向きで、私は出雲の地形がそれに当てはまると考えています。

(5)出雲の地形
 出雲平野は、海岸に平行に伸びた島根半島と、中国山地との間に形成された斐伊川と神戸川からの堆積物で出来た沖積平野で、その西側に宍道湖と中湖があります。6〜7千年前この一帯は内湾がほぼ島根半島の範囲(出雲大社から松江市役所付近迄)に広がっていて、かろうじて最西側の出雲大社と江南にかけての台地部分と、宍道湖と中湖の間の大橋川のあたりでかろうじて狭い川程度のもので海と結ばれていたと分かっています。その後斐伊川下流付近での土砂の堆積で内海が二つに分かれ、西側に神門の水海が誕生し、出雲平野の拡大、宍道湖と中湖の完全な分離、弓ヶ浜のある砂州での半島ができます。
 弥生時代の当初はほぼこんなもので、出雲平野+神門の水海(○)+宍道湖(○)+中湖(○)との組み合わせとなり、「平原広沢」にぴったりの地形です。現在はその時よりも出雲平野が拡大し、西側の神門の水海が無くなり宍道湖が縮小しています。そのため弥生当初の湖沿いの遺跡は、深い土の中に埋まっていると言われています。そのため徐福の時代の埋蔵文化財が得にくいことになっていると思われます。

(6)出雲の名前
 出雲には、荒神谷遺跡の358本の青銅の銅剣の他、銅鐸、銅矛など多数が出土し、「弥生の武器庫」とも呼ばれています。武器のことを「イツノ」と言いますが、これに国の別名「雲(クモ)」が結びつき、「イツノクモ」(武器の国)が後世「イズモ」(出雲)となった可能性があるかも知れません。この流れは、徐福が武器を使い葦原之中津国を平らげ、その後出雲に根拠地を作ったことを示しているのではないでしょうか。島根半島の北側の古浦砂浜遺跡からは、国内最初の青銅のバンドか何かで青緑色に染まった男性の骨が5体見つかっています。この骨の形質や抜歯の風習から山口県の土井ヶ浜の人骨と同じ山東半島の人骨の特徴を持つと言われています。青銅製品を額に巻くことは、敵の刃から身を守ることも意味しているかも知れません。前漢頃から突くだけでなく、切る剣が現れます。

[107] 来年が良い年でありますように by : 高木豊博 at : 2008/12/31(Wed) 20:46

やっと日本に帰ってきて、パソコンを買いそろえ、また掲示板に投稿できるようになりました。自由に意見が述べられる掲示板というもののすごさ、有難さを感じます。今年こういう徐福に関する掲示板を作っていただいた逵志保さんに感謝します。

皆さん良いお年を迎えて下さい。来年またお目にかかりましょう。

[106] 衝撃的な論文への私見 by : 前田秀一 at : 2008/12/31(Wed) 18:34

 吉田靖雄論文に反論の余地があることを教えていただきありがとうございます。
 私がこの論文を発見して、衝撃を受けました時は「えっ?」というのではなくて「やはりそうか!」という印象でした。
 なぜかと申しますと、当初、徐福伝説入門書として逵さんの著作『徐福伝説稿』を読みました。しかし、読了後の印象は、何か満たされないものでした。それは、同書(169〜170頁)に「私は徐福伝説の前半部分を史実と思われるとしたが、後半の日本渡来に関しては否定的である。これは徐福の渡海から千年以上もたってできた単なる伝説だと思う。もし事実であるなら、日本各地に残される徐福の遺跡のような曖昧模糊としたものではなく、明瞭な徐福渡来を裏付けるものがあるはずである。しかし現実にはなかったとしても、徐福伝説によって、私たちは日中の古代からの往来の事実と、この伝説は両国の往来によって出来上がったのだということを知ることが出来る。それは大変重要なことだと思う。」と記述されているのを目にしたからです。
 そのような私に力を与えてくれたのは、後に、逵さんにお目にかかってご紹介を受けた安志敏ほか著『徐福伝説を探る』(1990年、小学館)に収録された梅原 猛講演録「徐福伝説の意味するもの」でした。
 つまり、「徐福というものはなかなか一つの学問ではとらえられない人物である。歴史学でも、考古学でも、民俗学でも十分にとらえ切れない人物です。徐福の全体をとらえるためには、たくさんの学問を総合しなければならないのですが、哲学というのはまさにいろいろな学問を総合して世界の全体像を構成する学問であって、そこに大胆な想像力を働かせる余地があるわけです。」(10頁)。
 そして、「稲作文化の渡来は考古学的には、紀元前3世紀以前に日本に入ってきていることが考証されており、この点については、哲学的には、稲作文化渡来の波の一つとして徐福の渡来があったと考える」と述べられ、また、そのような技術論はともかく、むしろ「道教を背景に“個人の不死”という考え方を広め、北九州や畿内の甕棺文化を創造し、後の古墳(巨大な墳丘墓)文化の時代へ展開していったことが大事である」と説明され感銘を受けました。
 私見ですが、逵さんが提唱されている「?伝承モデルの見直し」の一つとして、死生観に基づく思想文化の伝搬の中に徐福伝説を位置付けてみる視点があるのではと考えております。また、梅原先生がご指摘のように一つの学問で解決が難しい人物であるという視点に立てば、この掲示板開設第2の目的である「?東アジア共通の研究素材として位置づける」ことが重要であり、その議論の体制を具体的にどのように構築するかということになると思います。

[105] 衝撃的論文に対するコメント by : Y.Maeda at : 2008/12/31(Wed) 15:37

 初めて投稿します。Y.Maeda と申します。
 年末になって、徐福掲示板を見ていますと、前田秀一様の素晴らしい投稿の中に、吉田靖男名誉教授の論文が紹介されておりましたので、拝読させてもらいました。吉田先生の論は、一つの見識を示しておられますが、徐福研究を行うものにとって、よって立つところが崩れるかどうかの、影響力のある重要な論文と考えますので、一言コメントさせて頂きます。 
 結論は、要するに当概論文は、「史記」の記事を唯一の拠点とされており、結論の導きかたに、少し難があるように見受けたということであります。たとえば、
1)60頁の始皇帝自身が石弓を持って航海に出たとき、徐福が同行したことは記されていないのに、当然同行したであろうと推測で結論されている。
2)同頁には、この航海後、始皇帝はすぐに没するが、徐福はこの事件後なおも航海に出たのかどうか、記述がなく不明であるとしながら、徐福は国内に残って逃亡したと推測で結論されている。
3)64頁、徐福は海外に出て、平原広沢を得て王になったという伍被の言葉に信頼が置けないから、国内に逃亡して生存を図ったと言われるが、その根拠の資料を示しておられない。
4)66頁、良香は、富士山周辺に徐福伝承があれば、聞き逃すことはないと断定されるが、その根拠がない。 など。

 小生は、日本にある伝承の広がりと、その整合性からみて、徐福は日本に到着したのは、歴史的事実であろうと思い、その根拠を探索するため、研究を続けています。
 昨年の「徐福フォーラムin神奈川」や本年の「佐賀・徐福国際シンポジウム」で発表した、「徐福伝承を伝える人々」という論文は、その一つの根拠に係る考察だと思っています。

[104] 堺市民に衝撃的な「論文」掲載 by : 前田秀一 at : 2008/12/21(Sun) 23:21

 単行本と違って「論文」そのものをネット検索するのは大変なことだと思います。
 ご紹介しました論文を著者・吉田靖男大阪教育大学名誉教授にお許しを頂いて「堺市・連雲港市友好25周年記念紀行記」のページに参考文献として「pdf」にリンク貼りしました。以下アドレスよりご照覧ください。
 吉田先生は、逵さんの著作は2冊(『徐福伝説考』、「徐福論‐いまをいきる伝説』)ともよく論考されていると評価されておりますので、『徐福論‐いまを生きる伝説』(トップページ左側“目次”欄の「国際交流」の項ご参照)のページにも「参考文献」としてリンクを貼りました。
 今さらかもしれませんが、「近年中国における徐福研究の盛況と『史記』記事の吟味」が論述された現実を踏まえますと、日本における「徐福伝説」を確固たるものにするためには、歴史的な考証の側面において論拠を実証的に構築しない限りその先はいわゆる「空想」か「変容」に過ぎないと言われてもやむを得ないように思います。
 以下2点の整備を目的としてこの掲示板が公開されているわけですから、今一度、これらの再認識を共有することが必要なことかと思っています。
  ?伝承モデルの見直し
  ?東アジア共通の研究素材としての位置づけ

[103] 本を探すとき by : horuhoru at : 2008/12/21(Sun) 01:01

前田さん、論文情報ありがとうございます。
現在このページの「徐福文献」の欄を作成中です。先に拙著『徐福論』の文献一覧を記し、その上でこうした新たな資料を記していき、みなさんの研究の助けになればと考えています。

ところでたとえば前田さんが提示してくださった文献に実際にあたりたいとき、その後どうしたらいいのかわからないという方もみえるかと思います。下記にwebcatplusという所蔵先のわかる検索ページを貼り付けておきましたのでご利用ください。

[102] 堺市民に衝撃的な「論文」訂正 by : 前田秀一 at : 2008/12/17(Wed) 20:39

 吉田靖雄著作論文の受付年を入力ミスしました。
 正しくは、平成16年3月25日です。
 以下に訂正しました。

 吉田靖男著
  近年中国における徐福研究の盛況と『史記』記事の吟味」
  大阪教育大学紀要 第?部門、社会科学・生活科学、
  第35巻、第1号、51頁(平成16年9月:受付平成16年3月25日)

[101] 堺市民に衝撃的な「論文」 by : 前田秀一 at : 2008/12/17(Wed) 16:42

 11月21日、映画「徐福さん」(岡本明久監督)のご紹介(76,80)をきっかけとして、計らずも我がまち「堺」における「徐福伝説」への取り組みの経緯(85,87)と今後の展開(90)についてご紹介することとなりました。
 「徐福伝説」に関する市民レベルでの取り組み(研究、探索等)は、少なくとも歴史的に考証されていない日本においては伝承や伝説と関わりのない地域が取り組むことに無理があったことをご説明するに留まりました。つまり、無理に、何らかに関わりを持たせて取り組む姿は、自分自身は真剣であっても、客観的には「変容」という次元に泳いでいることを思い知らされました。
 そのように私達の眼を衝撃的に見開かせてくれたのが以下の論文でした。
 吉田靖男著
  「近年中国における徐福研究の盛況と『史記』記事の吟味」
   大阪教育大学紀要 第?部門、社会科学・生活科学、
   第35巻、第1号、51頁(平成16年9月:受付平成1年3月25日)

 平成14年6月28日、堺市・国際文化部主催「21世紀の国際時代 浪漫都市「堺」は文化で立つ」と題したパネル講演会が開催され、パネラーとして出席された日本ペンクラブの早乙女貢会長(当時)以下そうそうたる方々の大変興味あるお話をお聞きする機会がありました。その時、思いもかけず鳥居貞義氏(「徐福友好塾」代表)にお目にかかり、「徐福伝説」について紹介を受け、早乙女「日本ペンクラブ」会長が「日本徐福会」会長を兼ねておられることをお聞きしました。
 当時、連雲港市との市民交流のテーマに思案していた堺市民にとっては、願ってもないロマン溢れるテーマと心に響きました。早速、平成15年に開催される友好提携20周年記念事業として「徐福伝説」に関するシンポジウムを開催し市民交流の実現を堺市に提案しました。
 平成15年1月25日を皮切りとして「堺の弥生文化の成立と徐福伝説」と題して勉強会を5回開催し、10月24日シンポジウム「中国文化セミナー“徐福”」を開催しました(「87」および以下アドレスより20周年記念事業「中国文化セミナー”徐福”」参照)。
 この間、堺市在住の吉田靖男氏は、私達の「徐福」のテーマへの取り組みを傍観されて思いを起こされ「近年中国における徐福研究の盛況と“史記”記事の吟味」を発表され、「徐福は・・・『史記』記事の吟味を試み日本上陸説が成立しないと論じる。」と結論付けられました。

[100] 徐福研究した人々、研究する人々 by : horuhoru(逵) at : 2008/12/16(Tue) 10:08

山口さんおっしゃるように掲示板が伝言板になってしまう点、せっかくの掲示板ですからその効果を実感できるようなものにしていきたいですね。もちろんその伝言が他の方にも意味あると判断する場合もありますから、すべてを否定しているわけではありません。共通の話題になるという判断は個人的なものですが、そこがみなさんとのがんばりどころ、時にぐらついたりしながら一緒にこのページを作っていきましょう。
その意味で一徐福ファンさんの書き込み、励みになります。がんばります。
ling muさん方のいま取り組んでいるテーマは徐福をとりまく非常に小さな記述相違なのですが、その小ささは実は大きな意味があるかもしれないものなのです。未発表の内容ですのでここで明かしませんが、ぜひ公開できる時になりましたらこのページでもご紹介いただきたいと思います。
私も徐福に魅力を感じて徐福研究にとりくんでいった人々、そして現在研究している人々に興味を持っています。
なにがこれほど夢中にさせるのか、夢中になった人々が次に広げていきたいネットワークの場となるよう努力したいと思います。

[99] 徐福研究とは by : ling mu at : 2008/12/15(Mon) 22:14

ここに投稿されている先生方は、徐福研究を探求されておられる方ばかりだと思います。
 私は、最近徐福について先輩方から教えてもらっていますが、なかなか徐福にたどりつかないのです。
 なぜなら、徐福研究された先人たちのことが面白いのです。
「なぜ、このようなことが言えるのか?」。「これを書いたのはどこに資料があったのか?」など、その人物の資料を集めていると夢が膨らんでくるのです。どこまで行きつけるか?。
 これが面白い!!。
 先人が徐福を研究し遺したものから徐福を勉強する。
一つ一つ紐解くように徐福にせまりたいと思う。
逵先生にお伺いしたい。いかがですか?

 

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