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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
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[118] 今年も徐福のロマンを追って by : 山口泰郎 at : 2009/01/16(Fri) 10:48

あけましておめでとうございます。新宮市徐福協会の山口です。高木さん、新年早々のすばらしい論文の数々、じっくり拝読させていただきました。木村さんに言いたいことは、日本各地で徐福の研究や顕彰をされている方々は,徐福の日本渡来を信じて活動してますし、いかに地域振興と結びつけるか、切磋琢磨していると思います。逵さんは逵さんの意見があり、地域伝承の中で生きる徐福にスポットを当て、それを研究されているのだと思います。また、この掲示板の管理者としての立場があると思います。逵さんが執筆された書籍についてもそれはそのときの逵さんの感じたことであって今さらそれを取り上げる必要があるでしょうか?木村さん、余りむきにならずにお互い研究を楽しみましょう。私どもでも、少人数ですが、勉強会を月に一回のペースで開催しております。あくまで新宮に残る徐福の遺跡等の勉強が中心ですが、毎回楽しくなんやかやとやっています。仲間がいるのはいいものですよ。あなたもすでに組織されているかもしれませんが?いろいろな論文の積み重ねが徐福の日本渡来が現実味をおびるてくると思っています。

[117] 「徐福ロード」へ by : 木村正治 at : 2009/01/15(Thu) 21:02

さすがは逵さん、あっさりとかわされました。私の振り上げた鈍ら刀は、どう降ろせば良いでしょう。書いてもらっても私に理解できない理由は、いつかお会いした時にお話し下さい。その時点から理解できるよう努力できるのが私の取り得です。ところで読みたくないと言う人はそれだけ何か理由があるのでしょう。その所為で投稿したくないなどという人は情熱、勇気が足りないだけでしょう。私など、浅学非才を顧みず、恥をさらけて、串本潮岬の徐福を売り出そうと一生懸命なだけです。毎日、仕事の暇をみては勇気を鼓舞しています。
 ハ、逵さんは、徐福の日本各地への上陸を否定された上で、徐福に対する信仰心、徐福が上陸したと信ずる心、中には徐福を神仏と仰ぐ人たちもいますが、そうした信仰心は別に置き、徐福研究の本流からわずかに流れ出した支流に徐福伝説を位置づけ、徐福伝説を創造し生かし支えているのは、人々の内的要請であり、内的生命力であると説明されています。私にはここがどうも理解できないのです。日本上陸を否定されることによって必然的に、中国の史記が日本に伝わった時点、精々1000年ほど前に日本の徐福伝説の起点を置かれ、その根っこを「司馬遷によって書き記されたその時を徐福伝説の創出というより他はない」と結論しています。それでは我が地域に徐福は来たと信じる人たちの立つ瀬がありません。また吉野ヶ里などを徐福に結びつける意味が説明できません。私には徐福が日本に来た、わが地に来たと信ずる心、信仰心が内的要請と内的生命力の源泉であるという気がしてならないのです。その信仰心は又、徐福研究の源泉であり、徐福が確かに日本にきた証拠探しに向かうのではないでしょうか。
?徐福ロード、先発地の徐福はある意味完成されています。しかしそれぞれの地域は今の所、点でしかありません。今後は徐福の後発地も含めて線で結んでゆく「徐福ロード」なるものが必要ではないでしょうか。大きな心で後発にも理解し協力して、全体としての徐福を創造してゆくことが、世界遺産、教科書掲載運動を後押しするのではないでしょうか? 

[116] 邪馬台国問題からのヒント by : 高木豊博 at : 2009/01/14(Wed) 20:42

徐福の問題を解く場合に、徐福そのものに直接あたることが当然求められますが、間接的な資料からヒントを得ることも出来るかもしれません。その意味で徐福の400年から450年後での邪馬台国の問題を取り上げたいと思います。

(1)旅程問題
 『魏志倭人伝』に邪馬台国が載っています。これについてはいろいろな学者が勝手なことをいっています。これはおかしな話ですが、当時の中国文化・歴史の基本を知らないためではないかと思っています。これを解くヒントが4つあります。
? 水行10日、陸行1月の邪馬台国への起点が帯方郡にあること。
? 水行1日=千里(1里○○mではない)、陸行1日=百里=約15km
? 不明21カ国はつながっている。(南から北への記述)

? 末蘆国〜伊都国〜奴国〜不弥国の後、水行20日で投馬国、そこから水行10日陸行1月という順次式を採用すると、邪馬台国がかなり遠くに位置することになる。この『倭人伝』に記載されたものは魏の使者の報告ですから、投馬国も邪馬台国もその起点は帯方郡であるべきです。
? これを解く鍵が、道教経典の叢書である『正統道蔵(しょうとうどうぞう)』の「太清金液神丹経(たいせいきんえきしんたんきょう)」と題する練鍛術の書の下巻に、西域の一部を含む海南諸国の地誌的叙述がなされるその典遜国(=頓遜国)の条にあります。この記述は3世紀頃のものと思われ、倭人伝の旅程を理解する最適の資料でしょう。
 「お答えしましょう。私も昔、たびたびこの疑いを質問したことがあった。(それによれば)船舶が高く四帆を張れば(可能であり)そして出帆した日、試みに(浮遊)物を水(面)に投じると、それは一呼吸のわずかな時間に、百歩も過ぎてします(のである)。これから推論すると、(海上の航行は)鹿を追うように速く、馬の走るような(速い)ものである(ことがわかる)。馬に(昔から一日)千里(という成語)があることを知れば、(海上の航速が一日)千里前後となることがいえる(というものであった)。」
? 21カ国の記述は「次○○国」となっていますが、この「次」というのは当時の軍事用語で「1泊して次に向う」という意味です。従ってこれらの国が勝手な場所に別々にあるのではなく、1日行程の範囲でつながっていることを表しています。またその出発点は「次に奴国あり、此れ女王国の境界の尽くる所」とあるように奴国です。

これを基に不明21カ国を比定してみました。
奴(な)国    = 福岡市中南部、春日
烏奴(おな)国  = 大野城(旧大野郷)
支惟(きい)国  = 基山町一帯(「延喜式」での基肄郡)
巴利(はぎり)国 = 杷木(「延喜式」の杷伎駅、原、針摺(はりすり)などの地名が派生)
躬臣(くし)国  = 玖珠(日田)
邪馬台(やま)国 = 八女
鬼奴(きな)国  = 玉名(日本書紀の「玉杵名(たまきな)」)
為吾(いが)国  = 山鹿
鬼(き)国    = 菊池郡(旧城野郷で、木乃の地名もあり)
華奴蘇名(かなそな)国 = 阿蘇市(弥生時代からの無尽蔵の露出した阿蘇黄土(酸化第二鉄)産地、「かな」はその意味)
呼邑(かお)国  = 河陽
蘇奴(そな)国  = 二瀬本、馬見原
対蘇(つそ)国  = 草部(蘇陽峡を挟んだ蘇奴の対岸)
姐奴(しゃな)国 = 高千穂(椎屋谷が鬼八の根拠地=地域の中心地)
不呼(うか)国  = 岡富(延岡)
好古都(おかた)国= 阿賀多(延岡、旧英多郷)
弥奴(みな)国  = 美々津(「延喜式」美弥(みね)駅)
都支(たし)国  = 佐土原町田島(「延喜式」当磨(たいま)駅)
伊邪(いや)国  = 宮崎(イザナギ、イザナミの根拠地、伊勢の地名から発生)
巳百木(いわき)国 = 岩瀬(この地域は「岩」地名が散見している)
斯馬(しま)国  = 嶋津(都城。島津の地名の発祥地)
つまり帯方郡から、水行10日(帯方郡〜呼子)+陸行(5日+1日+20日=27日≒28日(1月))となり、何も矛盾が生じません。この斯馬国の近く宮崎に邪馬台国があります。弥生時代の地名は70%が現存していると言われていますが、このように比定してくるとそのことが良く分かります。邪馬台国の名前は「山田」として残っています。

(2)卑弥呼の墓
 卑弥呼の墓は、宮崎市瓜生野にある笠置山墳丘墓です。後円部73m、前方部72mの全長145m(魏の100余歩)北西・南東方向を軸とする前方後円墳型です。周りで出土する庄内式土器の年代や、大淀川対岸の生目1号墳(3世紀後半)より古いことから、卑弥呼の亡くなった3世紀中頃に作られていることが分かります。
 墳丘墓のすぐ横に10行×10列程度(100余基)の殉葬跡と思われる土壙墓や祭祀場所と思われる柱列も見つかっています。『倭人伝』の記述通りです。しかし既に土壙墓の3分の1は道路工事のため破壊され、祭祀跡は道路の下になっています。この付近の地名は「伊勢」ですし、墳丘墓の横には「五十鈴川」が流れています。
 この場所が面白いのは、柏田八坂神社に伝わる八俣(やまた)の遠呂智(おろち)伝説があることです。まず?この墳丘墓の横の五十鈴川のまわりには八つの丘があること、?丘と丘の間に谷があるが、それぞれが独立していること、?尾根と尾根の間に「子捨平」(こじぇひら:ヤマタノオロチに女の子を奉げた所)や「モロケ迫」(酒のもろみを作った所)、「居屋ヶ谷」(オロチが住んでいた谷)があり、また?丘の下にはため池がそれぞれあります。この五十鈴川を囲む丘は海岸段丘ですが、ここの丘群全体にたたら製鉄の跡や製鉄の際にできる鉄さいがあらゆる所にみられます。製鉄のための金床石などもあります。
また砂状になった赤い褐鉄鉱がこれもどこでも大変な量で見つかります。これは実際に歩いてみると分かります。粒になる前の鉄は、植物の葦の形をしています。これは植物の葦が鉄分を吸い取り、かなりの年月を得ると葦そのものが鉄自体に変化するためです。ここには出雲に伝わったヤマタノオロチ伝説の原形が残っています。「葦原中津之国」の葦は鉄のことかも知れません。
 この近くに神武天皇がいたという皇宮原(こぐや)がありますが、ここの地名柏田(かしわだ)には即位された橿原(かしわら)宮に通じるものがありそうです。

(3)一つのヒント
 邪馬台国へのコースが、豊前・豊後を避け、また南限が熊本市付近であることです。これは葦原中津之国である豊の地域が独立したものであることを示しています。その一つの例として甕棺の分布があります。弥生時代における甕棺の分布範囲は東限が嘉穂,北限が粕屋,西限が唐津,そして南限が熊本県宇土半島です。

[115] 今年もよろしくお願いします by : horuhoru(逵志保) at : 2009/01/14(Wed) 00:55

Y.Maedaさんの初投稿、高木さんの力をこめた投稿、私も日々拝読しています。
木村さんが静観を決意し、その後の投稿、そんな風に気負わなくてはならない掲示板にしてしまっていたかと驚き反省した次第です。
(私が以前木村さんに書いた内容はたぶんご理解いただけないと思います。)

私からお話ししておきたいのは、資料を集めることと、その資料をうのみにすることとは違うということです。そして違うことがわかることは大切なことです。感情的になる理由はありません。
誰がこう言ったをつないでいくのではなく、そこからご自身の言葉を生み出していくこと、意見を記していくことが大切ですね。
研究を楽しみましょう。

[114] このサイトは素晴らしい||つづく by : 木村正治 at : 2009/01/13(Tue) 19:12

ロ、徐福研究は「総合化されていない」「議論されていない」とされています。これは反語でしょう。「総合化される必要がある」「議論されるべきだ」の含意があります。私もそう思います。しかし現実の逵さんは、早々とこれを捨てられたばかりか、徐福の日本上陸は曖昧模糊としており、本当に上陸したのなら、もっとはっきりした証拠がある筈だとされ、文献上という前提なしに、完全に徐福の日本上陸は無いと断定されています。これも一家言でしょう。しかし、1986年「徐福の研究は、中国で始まったばかり」を引かれたように、日本はなおさら始まったばかりで、総合化されず、議論もされず、この様な結論を出すのは、あまりにも短兵急ではありませんか? これを言うなら日本の古代歴史は、考古学上の証拠が出たもの以外、全部無いに等しいことになります。逵さんは、梅原猛の言う「徐福の全体をとらえるためには、たくさんの学問を総合しなければならない〜」は否定されるのですね?

[113] このサイトは素晴らしい||| by : 木村正治 at : 2009/01/13(Tue) 15:16

?一ヶ月の静観を自分に課しましたが、このサイトは毎日と言ってよいほど見ています。皆さんの素晴らしい研究成果の発表に触れながら、改めてこのネットワークの有り難さを感じ、さらなる発展を願うものであります。
 徐福一行の齎した言葉には感動します。徐福が来たのであれば漢字が伝わっていなければならないという説に反論できないもどかしさを覚えていましたので嬉しいことです。ところで大野晋の紀元前1000年頃、インドタミールから日本の大和言葉の原型やリズム、焼畑稲作が伝わった言う説には感銘しています。
 梅原猛の死生観に基づく思想の伝播には、わが意を得たりと思います。吉野ヶ里の甕棺や前方後円墳に秘められた死生観や北極星と太陽祭祀は当然絡んでくるからです。ますます希望が湧いてきます。
?ここからは逵さんに、老婆心ながら釈迦に説法ということになるかも知れませんが申し上げておきます。どうか私が何を申し上げても動じることなく、このネットワークを続けられ、広い視野から徐福全体をリードしていってもらいたいと願います。
 私が、逵さんにではなく、ネットワークに質問した内容に対し、逵さんが余りにも感情的な発言をされ、他のサイトへ行け、私の本気を疑う、読みたくない投稿したくない人がいるとまで言われました。私は一瞬、信じていた人に裏切られたような感情をおぼえました。失礼ながら、何という心の狭い徐福博士なのかと。また宮崎康平の言葉をも思い出しました。「文献学者は考古に疎く、考古学者は文献に疎い」と。そして一か月間の静観をし「徐福論 今をいきる伝説」を読みながら、この背景に考えてみました。
?私のような徐福の駆け出しにとっては、520編もの文献を手元に集められ、纏められた内容はこれから一生の手引き書になってゆくことでしょう。しかしながら何点か疑問が湧きました。
  ィ、私の質問は、逵さんが集めた資料の中にある文献です。
 彭双松、程天良(池上正治)、羅其湘の引いている文献です。逵 さんは、この人たちに同じ感情的言葉を投げつけますか。この人たちの引いている文献の所在を確かめることこそ、逵さんの役目ではありませんか。ネットワークのそう遠くない未来、こうした人たちが参加してきたとき貴女は排斥されるのですか?(つづく)
  

[112] 古代日本語と徐福 by : 高木豊博 at : 2009/01/12(Mon) 19:33

 徐福が日本に持ち込んだものは、五穀や百工の技術だけでしょうか。確かにこれらのものが持ち込まれたために、日本で作物栽培が豊かになり、製鉄や紡織・養蚕などが興り、徐福の渡来を境に弥生時代の発展が急になります。しかしこれを行うには、まず言葉を前3世紀初頭のまだ文明に遠い倭人に伝えていかなくてはなりません。そこで漢語の単語を両者が共有することから始まり、倭人がそれを自分達に聞きやすいように変化させ、これが古代日本語の語彙として定着していったようです。

(1) カールグレンの説
 『万葉集』の歌や『日本書紀』、『古事記』などの文章に使われる語彙は、漢語の音をそのまま使うものと訓読みとして漢字に古代日本語の単語「やまとことば」をあてるものとの2種類があります。そこで私たち日本人はこの「やまとことば」が日本で弥生の前から使われていた言葉であると信じ込んでいます。本当にそうでしょうか。
 スウェーデンの言語学者カールグレンは、その著書『言語学と古代中国』(1920年)で、古い時代に中国から借用した日本語として馬(うま)、梅(うめ)、絹(きぬ)など20あまりをあげています。そこで戦後亀井孝氏はこれに反論する(1984年)形で、その可能性を3ランクに分けています。
1.間違いなく誤りと認められる例……湿(しほ)、蛺(かいこ)
2.多分に疑わしい例……琢(とぐ)、剥(はぐ)、築(つく)、析(さく)など
3.あるいは認めてもよいかと思われる例……郡(くに)、絹(きぬ)、馬(うま)、梅(うめ)
 ここで重要なのは、日本語(やまとことば)に中国語からの借用語があったということです。亀井氏の反論もやや無理があり、私は1.2.の多分疑わしい例も半ば認められるものと思っています。

(2)小林昭美氏の調査結果
 弥生時代に中国から入って来た借用語については、いろいろな方が調べられているようですが、ここではNHK放送文化研究所長の小林照美氏の研究結果『日本語と古代中国語』(2006年、吉田金彦編集『日本語の語源を学ぶ人のために』より)から抜粋させて頂きます。  凡例……(弥生日本語:中国原音)
                    
1. 中国語の原音が〔m‐〕で始まる場合
  馬(うま、むま:メア))、梅(うめ:メヲ)、味(うま)く、美(うま)し
  牧(うまき)、鰻(むなぎ)
  ……中国の派生語の前に、「う」が付いている。

2.中国の原音が〔-n〕〔-m〕で終わる場合
  絹(きぬ:キン)、秈(しね:セン)、鎌(かま:ケン)、君(きみ:クン)、殿(との:デン)、檀(たな:ダン)、浜(はま:ヒン)、弾(たま:ダン)、文(ふみ:ブン)、簡=紙(かみ:カン)、金(かね:キン)、闇(やみ:アン)、蟠=蛇(へび:バン)、困(こまる:コン)、染(そめる:セン)
  ……古代日本語は「ン」で終わる音節はなく、母音を添加してナ行またはマ行を表した。

3. 中国語の原音が入声音〔-k〕で終わる場合
竹(たけ:チク)、剥(はぐ:ハク)、奥(おく:ウク)、塞=関(せき:ソク)、酢=酒(さけ:サク)、束(つか:ソク)、墓(はか:ボ、バク)、直(じき:チョク)、作(つくる:サク)、索(さがす:サク)、牧(まき:ボク)、着(つく:チャク)、濁(にごる:ダク)、漬(つける:シ、セキ)
……〔-k〕を言葉の中に留めている。

4. 中国語の原音が入声音〔-p〕で終わる場合
  蛺(かひ・こ:キェョプ)、湿(しめる:シィヲプ)、吸(すふ)、合(あふ)、汲(くむ)、渋(しぶい)、甲兜=かぶと(かぶと:ケオップト)
  ……韻尾の〔-p〕は旧かなづかいで、蝶(てふ)のようにハ行で表記されている。

5.中国語の原音が入声音〔-t〕で終わる場合
舌(した:ゼツ)、筆(ふで:ヒツ)、葛(かづら:カツ)、鉢(はち:ハツ)

6. 朝鮮漢字音の影響(省略)

7.中国語の原音が〔-ng〕で終わる場合
  楊=柳(やなぎ、よう:イャング)、羊=山羊(やぎ:イャング)、影(かげ:クァング)、光(かぐ)や姫=景(かぐ:クァング)、茎(くき:ケイ)、丈(たけ:ジョウ)、横(よこ:オウ)、往(ゆく:オウ)、性(さが:セイ)、塚(つか:チョウ)、撞(つく:トウ)、桶、甬(おけ:トウ、ヨウ)、涌(わく:ヨウ)、湧(わく、ユウ)、泳(およぐ:エイ)、揚(あげる:ヨウ)、王(わけ:オウ)、翁(おきな:オウ)

(3)徐福集団の影響
 上記の言葉は弥生時代の農耕文化の流入を通して持ち込まれたもので、徐福渡来の前にすでに北九州経由で入って来たものもあるでしょうが、4千人というその当時としては画期的な集団であることを考えれば、これらの言葉の半分程度は徐福が最初に持ち込んだとしても間違いはないと思われます。徐福は文字文化を持ち込まなかっため漢字をみることがないと言われていますが、言葉の基本を持ち込んだ点でそれ以上のものがあったと思われます。この関係は、明治以降における朝鮮への日本語の流入と似ているものがあります。そして言葉と音律この二つが出雲に集中したことにより、後に和歌の誕生となります。

[111] 氏名としての秦 by : 高木豊博 at : 2009/01/11(Sun) 19:42

徐福の問題を扱う際に、その子孫として「秦」とそれに関する人名や地名が取りざたされますが、このことが本当に徐福と関係するか検討したいと思います。

(1) 秦の国の発展
 秦は甘粛省東部の天水・甘谷が発祥地と言われています。『史記』の秦本紀によれば、秦人は伝説の王舜(しゅん)のために鳥を飼っていたり卵生神話を持つことから、舜より嬴(えい)という名前をもらったとなっています。この嬴は「竹で作った籠」という意味です。祖先の伯益(はくえき:大費)は夏王朝の始祖である禹(う)の治水事業に貢献したといわれています。しかし秦と同じ嬴姓や同族の偃(えん)姓の国々が、春秋時代山東半島から長江に至るまでの間にあったことから、鳥トーテムの習俗を持つ東夷族が西進したとも言われています。
 秦はその後周王朝に帰順し臣民となり西の西犬丘に封じられますが、後期に東部の秦亭に砦と宮殿を建てたことから徐々に東部に進出し始め、ケン、平陽、擁城、檪陽(やくよう)を経て最終的に咸陽(かんよう)に落ち着きます。馬の管理に長じていて、それが国力の増大につながっていき秦の始皇帝が全国統一を成し遂げることができました。そして前219年と前210年の徐福渡海となる訳です。

(2) 日本の秦系氏族と始皇帝
 日本にはこの「秦(はた)」を苗字に持つ人々がかなりいます。古代の歴史では秦河勝を始め綺羅星のような要人も多く、はては薩摩の島津氏や対馬の宗氏などの秦氏の系統を含めれば膨大な氏族となります。これらの秦系氏族が考えている系統の流れは、下記のようなものです。
 秦始皇帝─故亥皇帝─考武皇帝─功満君(始皇帝14世孫)─弓月君─浦東君―秦酒君
 これを見ると秦の始皇帝と功満君の間には大きな断絶があります。これでは日本の秦氏と始皇帝が本当につながっているか分かるものではありません。弓月君(ゆづきのきみ)は応神天皇(西暦400年前後)百済から120県の人々率いて帰化した氏族ですが、新羅の前身の辰韓に秦の移民が住みついたとの伝承があることから、辰韓から帰化したという説の方が有力です。
 
(3) 本来の秦氏系統(宝賀寿男『鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち』参照)
 『魏略』には燕の昭王(前311年〜279年在位)が秦開という将軍を派遣し箕氏の後の朝鮮を討伐し二千里の土地を奪ったと記録されています。また『史記』匈奴伝では、東胡を破り5郡を設置し、その最も奥地の遼東郡襄平(遼陽)に駐屯したことをきっかけに朝鮮に移住したことが考えられます。
 秦の始皇帝の系統は、長子扶蘇は偽命に従って自決し、末子の胡亥は趙高に殺され、その前に6人の公子がその胡亥に殺され、やはり子供の子嬰は項羽に殺されるなどして、根絶やしになっており、本当の秦王室系統は存在しないものと考えられます。従って現在「秦一族」としてみられている系統は、前述の秦開以外には考えられないことになります。弓月君はこの秦開の流れを組むものと思われます。
 しかし『正倉院文書』には、「秦嬴姓田主」というように秦本来の「嬴」を使った名前も見られることから、始皇帝の生き残った何らかの子孫(子庶系統、例えば扶蘇の子の胡苑)がいて秦を名乗っている可能性もあります。秦の始皇帝の孫、胡苑が漢の恵帝元年(前194年)韓地に逃れてきたのを、馬韓王が東界百里の地を与えて保護した伝承があります。
(『魏志東夷伝』韓伝)
  韓国では済州島に秦姓が多く、ついで全羅南道や慶尚南道などであるため秦の原郷は慶尚南道(加羅)といわれ、辰韓が滅びた際人々が百済に移住したことからそうなった可能性がありそうです。日本での秦系氏族の系統は、弓月君系統(最大)、己知部系統、高陵氏高穆後裔系統に分かれます。

(4)徐福と秦姓
 徐福の先祖は、佐賀徐福国際シンポジウムでの徐鴻進さんの『徐氏の起源と発展の現状』によると、戦国末に若木第46世祖簡公が山東半島に移り、第59世孫孟二人こともがいて、一人は諮もう一人が議ですがこの議が徐福(徐市)のことだと述べられています。
 従って徐福は秦開とは何の関係もなく、たとえ春秋時代の秦、徐、江、黄、莒氏は全て嬴(えい)姓であるとしても、徐福の子孫が秦姓を名乗ることはないと思います。
また秦の変名と思われる「波多」「羽田」「八太」「幡多(これは可能性あり)」「畑」などの苗字は、海の古代朝鮮語「パタ」からきている可能性が大きく、秦とは関係がないものもあるかと思われます。韓国蔚珍郡海曲県の古名が「波旦」です。
 余談ですが、徐福は百工の技術を伝えた以外に日本語の単語の基礎を築いた可能性があります。単語では馬(うま)、梅(うめ)、絹(きぬ)、郡(くに)、稲(いね)、鎌(かま)、金(かね)などですし、これにより派生した美し(うまし)、剥(は)ぐなども中国語が弥生の日本語に変化していきました。

[110] 土笛と徐福 by : 高木豊博 at : 2009/01/07(Wed) 20:37

 下関市の綾羅木遺跡のある丘は、海岸を望み珪砂が豊富にあります。そこで昭和44年採砂業者がブルドーザを入れ採砂しようとして遺跡を壊し始めます。これに対抗し、関係者が遺跡の保存について努力し、県や市、業者との間で大変なやりとりがあった場所として有名です。土井ヶ浜遺跡の約20km南側にあります。弥生時代の前期後半から古墳時代にかけての総合的な遺跡で、5基の古墳と2つの石棺墓に、一つの墳丘墓さらに竪穴式住居があり今は史跡歴史公園<古墳の森>となっています。ここから昭和41年高さ7cmほどで、前面4孔後面2孔の陶塤(とうけん)と呼ばれる土笛が発見されました。
 土笛は音を出すための指孔がある土で作られた中空の笛です。こぶし大から卵の大きさなど様々ですが、上部にある穴をビール瓶の穴を吹く要領で音を出します。この素朴な楽器と徐福の関係を探りたいと思います。

(1)土笛の歴史
 中国長江の河姆渡(かぼと)遺跡から約6千年前塤(けん)と呼ばれる土笛が発見され、これが最も古い土笛と言われています。その後各種の楽器が作られ、殷から周の時代に五音音階が確立しました。この時代の五音は、宮(ド)、商(レ)、角(ミ)、徴(ソ)、羽(ラ)です。漢代にそれまでの音楽理論を集大成した『楽記』には「宮を君となし、商を臣となし、角を民となし、徴を事となし、羽を物となす」とあり、君主の政治が乱れた場合には、これらの音が全て乱れることとなり亡国につながっていくと書かれています。そのため「唯だ君子のみ楽を知る」とされ、楽は君主の必須になっていました。そうは言っても、同じ『楽記』に「それ楽(がく)とは楽(らく)なり」とあり、音楽の楽しさも述べられています。
 この『楽記』は、『礼記(らいき)』49篇の中の1篇として伝わっているもので、武帝(BC140〜87年)頃成立したといわれています。この書に楽器の分類法が載せられています。材料の種類によって、金、石、絲、竹、匏(ふくべ)、土、革、水の8種類で「八音」と呼ばれます。金は青銅、絲は絹の糸、匏はヒョウタン、土は土を焼いて作ったもので土笛もこれに当たります。孔子廟の祭祀楽は、八音全てを含む楽器構成となっていますし、土笛も使われています。
 土笛は、殷周の時代は前面3孔後面2孔ですが、戦国時代の孔子の時代に前面4孔後面2孔の形式が完成しています。綾羅木遺跡のものはこの後者の形式を踏まえています。孔子の『詩経』には「伯氏は塤を吹き、仲氏は箎(こ:竹製の横笛)を吹く」とあり、貴族は音楽をたしなんでいることが伺えます。私も音楽の素養ではちょっと反省するところですが、この中国スタイルの楽器が日本の弥生時代前期に出現するわけです。

(2)日本における土笛の分布
 土笛は、日本では弥生時代前期後半から中期前葉にかけて作られました。福岡県の北東部(宗像の光岡長尾遺跡)から京都府の丹後半島(函石浜や竹野遺跡)、南は広島県にかけて約100点が出土しています。その他の地域としては、静岡県の弥生時代を代表する集落群の伊場遺跡から出土しているのみで、きわめて限定した地域だけにみられるものです。そのうち約半分が出雲のある島根県で発見されています。松江市西川津町の西川津遺跡とタテチョウ遺跡からは、合わせて38点が出土しています。前面4孔後面2孔の綾羅木遺跡と同じスタイルです。また出雲市矢野遺跡からも出土し、出雲全域でみられるとともに、彩色されているものや、大中小の3サイズがそろった所もあります。
 この範囲はまさに出雲の王朝の支配範囲である葦原中津之国と重なりまし、その中心が出雲です。

(3)土笛の役割
 陶塤(とうけん)である土笛は、中国の朝廷の儀式で使われたものですし、貴族がたしなむ楽器の一部でした。従ってこの楽器を演奏していた人々は、当初は中国から渡って来た人々であることは確かでしょう。出現の時期も徐福の船出の時期と重なります。このことは徐福の渡来が土井ヶ浜になされた後、徐福やその子孫が各地に散らばっていった際に南方面には集団長となる人が携行し、出雲方面には多数の人々が携行し築いた出雲の王朝で演奏されていた可能性が大きいと思われます。土笛には、本国を離れた寂しさを紛らわせる役割もあったでしょう。
 音楽は韻律を踏む必要があります。中国の詩はこの音楽としての韻律に合わせて詩を歌います。この韻律を踏むためには楽器が必要で、土笛や琴、青銅の鐘などを使って演奏するうちに日本語の詩のリズムが出来上がっていったと思われます。日本の和歌の始まりは、出雲のスサノウの尊の下記の歌です。出雲が発祥地です。

 八雲たつ 出雲八重垣(やえがき) 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を

 いずれにしても中国の陶塤(土笛)は出雲(葦原中津之国)の範囲でしか出土しないことは、中国人の徐福やその子孫が活躍した場所もその範囲でしかなかったでしょう。日本の中国地方の「中国」の名は、延喜式での「近国、中国、遠国」の中国に属したことから来ているといわれていますが、ひょっとしてこの葦原中津之国から来ているかも知れません。

[109] 出雲、紀伊(熊野)そして徐福 by : 高木豊博 at : 2009/01/06(Tue) 21:46

徐福の第1回目の航海は黒潮や嵐のため失敗し、各船はそれぞれ別々な場所に流されます。その代表的な場所が新宮であり、熊野の波多須です。第2回目の航海は北回りで行われ、幸い土井ヶ浜に上陸しそこから各地への進出となり、本体の多くが出雲に向かったものと思われます。その後この別れた別々の集団がどうなったかについて出雲と紀伊(熊野)を例に調べてみました。

(1)出雲と紀伊の地名の共通点
 安本美典先生の邪馬台国の会第200回目の記事『出雲神話と伊邪那美の命伝承』に、出雲と紀伊には「共通の地名が多くあり、古い時代から、密接な関係にあったと考えられる」と述べられています。(下記に熊野神社加筆)
●出雲地方       
 熊野  美保  粟島(伯耆)  速玉神社(意宇郡)  伊達(いだて)神社
 加多神社(大原郡)  日の御崎  比田(能義郡)  出雲郷(大原郡)
須佐神社(簸川郡) 韓国伊太氐(いたて)神社(六座あり) 須賀神社(大原郡)
 熊野座神社  熊野大社
●紀伊地方
熊野  三穂  粟島(神社名) 早玉神社(牟婁郡)  伊達(いたち)神社
 加太神社(名草郡)  日の御崎  日高(日高郡)  出雲村と出雲崎(潮岬半島)須佐神社(有田市)  伊太礽曾(いたきそ)神社(和歌山市)  須賀神社(大原郡)
 熊野(いや)神社(御坊市) 熊野座神社  熊野大社

(2)熊野大社と出雲大社の関係
 出雲の熊野大社の創建は、斉明天皇5年(659年)とされています。『日本書紀』では、この年出雲国造に命じて「神の宮」を修造させたとあり、それが熊野大社と思われます。スサノウの尊を祀っています。出雲大社の祭神は素戔鳴尊(スサノウの尊)の子供の大国主尊で、築造そのものは熊野大社より古いように思われます。古代より杵築大社と呼ばれていますが、亀太夫神事にみられるように、出雲大社の宮司であっても熊野大社で小間使いの亀太夫より苦情を言われることから、熊野大社より格式が低いといわれていて、出雲の一之宮はこの熊野大社です。
 紀伊の熊野大社の祭神は、出雲と同じ「クマノノオオカミクシミケノミコト」が祭神でスサノウの尊のことです。この両社は同じ祭神であることから古くからの密接な関係が伺えます。紀伊の熊野大社は皇室を含む朝野の尊敬が深く、非常に繁栄し格付けが上だったといわれています。

(3)伊邪那美命(伊弉冉尊)での共通点
 古事記によると伊邪那美の命は、「この子(火の神、迦具土:かぐつち)を産みたまひしによりて、みほと(女陰)を焼かれて病み臥やせり」とあり産褥熱で亡くなったと言われています。その墓については古事記によると「その神避(かむさ)りましし伊邪那美の神は、出雲の国と伯伎(ははき)の国との境の比婆(ひば)の山に葬りき」とされています。比婆山の場所については諸説がありますが、島根県能義郡伯太町横屋の比婆山が最有力視されています。
 ところが三重県熊野市有馬町の花窟(はなのゆはや)神社には、『日本書紀』の一書に曰くとして「伊弉冉尊、火神を生む時に灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌い舞ひて祭る」とあるが、この神社のことだという言い伝えがあります。
 ここの洞窟が伊弉冉尊の墓所で、季節の花を添えて尊を祀ったために花窟神社と名付けられたようです。一説には伊弉冉尊を葬り祭った処は産田神社であり、この場所を火の神の御陵といい、迦具土(軻遇突智)尊の神霊が祀ってあるとことと言われ、別名「王子の窟」とも呼ばれています。
 このことは実際の墓所は出雲でも、紀伊でも祭られるようになった密なつながりが感じられます。

(4)両地域を結ぶもの
 熊野に有馬という地名があり、「大昔、渡来人で出雲で炭焼きをしていた有馬氏が、スサノウ信仰を持ち紀伊に移住した」という言い伝えがあるそうです。(瀬川照央氏)ここにも伊邪那美を祭る花窟神社があります。紀伊には途中にある御坊市に熊野(いやと呼びます)神社があり、ここの由緒には「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、当社に熊野神が一時留まりませる」とあります。この神社名を「いや」と呼ばせているのは、出雲で伊邪那美が祀られている揖屋神社と同じ系列で、阿波の祖谷(いや)の延喜式での伊射奈美(いさなみ)神社(現在の高越神社)の同じ途中での逗留があった場所を示していると思われます。
 揖屋神社の「いや」は、古事記にいう死者の国との境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)である「今、出雲国の伊賦夜坂と謂う」の言葉からきています。有馬は往古「阿利萬」と呼ばれ熊野の別当家の出と言われ、産田神社の神官榎本氏が熊野市の有馬一帯に勢力をはったことから有馬氏と名付けられたようです。この近くに弥生時代の津の森遺跡(弥生後期の甕や土師器が出土)や産田神社があり、かなり古い時期に出雲から移住してきたことが分かります。
地元に伝わる口伝には「崇神天皇の夢見により、産田神社にお祭りされていた神様を熊野に遷したのが、熊野本宮大社の始まりだ」とあるそうです。江戸時代までは、産田神社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が伝承されていたといいます。また出雲の名家「田部」(たなべ)氏が紀州の田辺を開いた、いや逆だとかいう話もあるようです。考古学的にも、隅丸方形墓(和歌山市宇田森遺跡)や方形周溝墓(日高郡片山遺跡、那賀郡吉田遺跡)がみられ、出雲と紀伊の結びつきには深いものがありそうです。

(5)徐福の子孫のつながり
 三重県熊野市には波多須神社(徐福社)があり、江戸時代まで秦住(はたす)あるいは秦栖と呼ばれていて、秦の時代の半両銭や徐福の宮でのご神宝である中国製のすり鉢などがあり、徐福集団の一部が上陸した可能性が大きい場所です。和歌山県の新宮市も熊野市の近くにあり豊富な伝承が残っていて、この南紀東部一帯が徐福集団との関連性が高い場所であると思われます。
 しかし当初は、佐賀大学の和佐野先生が佐賀のシンポジウムで発表された『徐福と弥生の稲作』にあるように、「限られた地域に閉じこもってしまった」あるいは「遺伝子構成を大きく発展」させえないような影響度です。これは一艘程度の船が漂流の末たまたま辿りついたため、小集団であったと考えられないでしょうか。
その後出雲の発展に伴い、両者のコンタクトが取れ同じ民族を助ける意味もあり、中国地方(特に出雲)にいた徐福の子孫の紀伊への移住が行われたのではないでしょうか。

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