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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[486] 徐福フォーラムin神奈川2012のご案内 by : maeda at : 2012/08/31(Fri) 15:09

2012日中国交正常化40周年記念

徐福東渡2222年  徐福フォーラム in神奈川2012

司馬遷の史記によれば、秦の始皇帝の命により徐福が不老不死の霊薬を求めて東の海に出航しましたが、今年はそれから2222年目に当たるとされています。また、日本各地に徐福が来て文化を伝えたという伝説が残っており、徐福東渡は日中友好のさきがけとも言えるのではないでしょうか。2012年は日中国交正常化40周年記念の年でもあり、「神奈川の徐福伝承」を中心に、下記のとおり徐福フォーラムを企画いたしました。皆様のご参加をお願いいたします。

1 日時 2012年12月3日(月) 
     午前10時〜17時

2 場所 かながわ県民センター2階ホール
横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2       電話045-312-1121
横浜駅西口5分 ヨドバシカメラ裏

論文募集中です。
徐福に関する論文を募集しています。
A4版 2〜4ページで、できるだけ早めに提出をお願いします。
  詳細問い合わせは、実行委員長 前田豊まで。
Tel/Fax 0463-76-4086 e-mail: maeda_yutaka@nifty.ne.jp

[482] ご無沙汰しています by : 逵 志保 at : 2012/05/06(Sun) 23:12

管理人が日々せめて覗くことだけでもできない状況というのは決して良くないことはわかっているのですが、
どうにも時間が取れず、更新がだいぶ滞っていました。

GWでようやく遅れをとりもどし、これから再出発です。

[466] 弔辞  by : 鳥居 貞義 at : 2012/03/29(Thu) 15:16

標記の件、中国徐福会名誉会長故李連慶先生に関する訃報を受け取りました。明日30日が葬儀のようで、間に合いませんから掲示板を使わせて頂きます。

最も尊敬する中国人、敬愛してやまない徐福研究家李連慶大先輩の訃報に接し心からの哀悼の意を表します。
李連慶先生の多数の栄えあるご経歴の中で、最後に徐福研究を通じて李連慶先生に知己を得ることが出来ましたことは光栄でありました。正に『徐福さん』のお蔭です。

この度の訃報連絡で初めて知り得た李連慶先生の人生に於ける数多くの業績の中で徐福研究は後年の僅かな出来事であったかも知れませんが中国徐福会を立ち上げて日本をはじめとするアジアの友好に偉大な貢献を果たされました。

私が編集しました徐福入門書≪伝承地に見る徐福像と徐福伝説『徐福さん』≫に日本国・元首相羽田孜先生と共に中国徐福会会長として祝辞をご寄稿頂きましたことは誠に光栄なことで今も喜びに絶えません。
李連慶先生は祝辞の中で「さらに意義深いことは中国と日本の徐福研究家が誠に友好な雰囲気の中で、司馬遷の≪史記≫に記述されている歴史上の人物についてお互いの研究成果と地域の行事について語り合うことであります。この地道な努力が中日友好に大いに貢献していることは両国民にとって大変幸せなことであります。 二〇〇五年八月」と結んでおられます。
このお言葉を受け継いで行くことをお誓いします。

今後とも遥かに徐福研究と両国民の友好を見守ってください。
先生のご冥福をこころからお祈りします。

2012年3月
日本国・大阪 徐福友好塾主宰 鳥居貞義

[463] 人民中国に記事が掲載されました by : 鳥居貞義 at : 2011/12/14(Wed) 08:48

徐福伝説研究についての投稿記事が『人民中国』東方書店12月号に掲載されました。
夏頃に中国へメールで送った記事が掲載されたと云う連絡が徐福伝説研究仲間の逵志保博士からありました。
殆どあきらめていたのですがネットで確認したところ確かに58頁〜59頁に掲載されていました。

私にとっては七夕伝説の記事が環球時報(人民日報海外版)に掲載されたことに次いで海外メディアでは2度目の快挙で誠に光栄なことです。ご高覧願えれば幸いです。

12月10日発売ですが、デジタル版が12月5日発行でしたのでダウンロードして確認しました。(雑誌と同じ有料400円)
デジタル版は富士山マガジンサービスで扱っております。

雑誌の扱いは東方書店(下記)です。一般書店からは取り寄せになります。
〒175-0082 東京都板橋区高島平1-10-2
TEL 03‐3937‐0300
FAX 03‐3937‐0955
(株)東方書店 営業第二課 佐藤博之様

[462] 伝説 by : 鳥居 貞義 at : 2011/09/30(Fri) 14:16

徐福伝説と七夕伝説

日本語では徐福伝説と七夕伝説どちらも伝説と呼ばれているが徐福伝説は史実であり、七夕伝説は
羽衣伝説や浦島伝説同様に神話です。

伝説とは何かと云うとウイキペディアでは「伝説とは、様々な地方で語り伝えられた民話のひとつ」
と云うように解説されている最早地域を越えたモノに発展している。

例えば、野球界で「イチロー伝説」と云う言葉がある。

彼が記録している実績は全て事実であるが例えば100年後にその時の野球選手のレベルから判断
するとありえない記録に成っているかもしれない。

その時はじめて「イチロー伝説」として語られるであろう。そしてよく調べるとイチローは足が速
いだけでなく左打者であったから右打者よりは一歩早く一塁に到達し、その結果としてヒット数が
多いことが分かる。伝説と真実との間にはこのような関係が生まれるのではないだろうか?

以前にマスコミは事実だけを報道すればよいのでは無くて、真実を報道しなければならないと書い
たことを思い出した。

[456] 徐福さんでご縁を頂いている皆さんへ 続編 by : 鳥居 貞義 at : 2011/08/18(Thu) 12:44

徐福研究仲間が出版した3冊の本を紹介させて頂きます。

『神皇紀』、『徐福王国相模』、『継体天皇を疑う』

仙台からの帰路、東京に立ち寄り、神奈川徐福会の前田豊さんにお会いしました。
前田さんとはよくメール交換をしているのですが直接お会いするのは久しぶりでした。
前田さんが昨年出版された『徐福王国相模』と今年神奈川徐福会有志で出版された『神皇紀』について直接紹介していただきました。2冊の本について徐福友好塾のHPの推薦図書に掲示しました。

徐福研究でも独自の立場から貢献しておられる壱岐一郎先生が『継体天皇を疑う』を出版されました。先生は80歳になられるそうですが豊富な経験とユニークな視点で日本古代史の謎に迫っておられます。

いずれも私のHPの推薦図書に表紙写真を掲載しています。

[455] 徐福さんでご縁を頂いている皆さんへ by : 鳥居 貞義 at : 2011/08/18(Thu) 12:29

残暑お見舞い申し上げます。しばらくのご無沙汰でしたがお陰さまで元気にやっています。

実はこの季節は私のもう一つのテーマ七夕伝説で毎年忙しくしています。
特に今年3月に東日本大震災がありましたので仙台との「七夕の絆」でメッセージの寄書きや募金活動に例年より早くから多忙でした。

以下は「七夕の絆」運動でご縁を頂いた皆様へ送ったメールの一部です。
私たちは地域を超えた大勢の皆さんのご協力を得て、仙台七夕まつり実行委員会へメッセージと寄書きに、支援金(協賛金)を添えて、4月より毎月贈り続けて来ましたが、この度旧暦で行われている仙台七夕まつりに参加し、現地で支援すると共に被災地を視察する目的で、竹内枚方市長から奥山仙台市長宛の親書を携えて、有志6名、老若男女(20歳代から80歳代まで、男女各3名)が8月5日の夜行バスで大阪から仙台へ直行しました。
約12時間825キロの行程は想像よりも快適でした。到着後は早速「祈りの広場」でメッセージ展示のボランティア活動を開始テレビの取材も受けました。
翌日は会社の後輩で仙台在住者の案内でレンタカーで被災地を廻りました。海岸部に近いところで、名取川付近と仙台空港付近をドライブしたのですが仙台市内に比べて復旧はまだまだでした。天の川七夕星まつりの会の先発隊からマスクを持参するようにアドバイスを受けていたのですが悪臭や粉塵は感じられませんでした。
仙台市街では特有の吹流し飾りは「ブランドーム一番町からマーブルロードおおまち商店街」へとどこまでも続いていました。
今年の仙台七夕まつりのテーマは「復興と鎮魂」、七夕まつりが復興を目指す大きな力となっていることを目の当たりにすることができました。
阪神淡路大震災の翌日寸断されていた陸路を避けて大阪港から臨時運行されていたサンタマリア号で神戸埠頭に到着し三宮へと歩いた時にはいたるところでビルや高速道が倒壊していた。今回仙台を訪れたのは大震災5ヵ月後であったとは云え、全くそのような情景は見られませんでしたが津波の被害の大きさは言葉では言い尽くせません。漁船が流されて海岸から松林を越え、田畑を越え、道路を越えて民家に迫っている情景を見た時、津波の被害と恐ろしさを改めて感じさせられました。
神戸では倒壊した建物の下で動けずに3千人以上の市民が迫る火で焼け死んだと云われていますがここでは2万人以上の人が水に流された瓦礫の下で息を引き取ったのです。
謹んで哀悼の意を表します。この掲示板は徐福伝説の為のものですがこのような惨いことも書き遺すことで歴史認識の大切さ、そしてフィールドワークの大切さを改めて感じました。私たちが活動した「祈りの広場」には日本全国は勿論、世界各地から励ましの言葉が来ていました。一日も早い復興を願いながらも、私が送った言葉は「決してあきらめなかった、なでしこジャパン澤選手18年;はやぶさ、チームいとかわ7年;そしてあきらめずにがんばろう!東北復興は10年以上」でした。近く、天の川七夕星まつりの会のHPに「目で見る報告書」を掲示しますので是非ご覧ください。

[454] 益田様、お元気で何よりです by : 高木豊博 at : 2011/07/18(Mon) 19:21

遅くなりましたが、奈良徐福会7周年記念おめでとうございます。ますますの発展を祈ります。

さて一つだけ気になったのですが、益田さんが依然「徐福が弥生の使者」と書かれていることです。使者というのは、ある目的をもって委任を受けてそれを相手側に伝える人のことだと思うのですが、徐福はこれにまったく当てはまらないことは明らかです。

中国側で書かれた『史記』には「平原広沢を得て王となりて帰らず」と書かれています。
中国人が示す「王」とは、絶対権力者のことです。支配、支配される関係での事柄を表現したものです。中国では王が人民の生殺与奪の権を持っていました。それが日本側で記録されたのが、以前紹介した『常陸風土記』です。この中の「普都(ふつ)大神」は徐福の本名「徐市(じょふつ)」のことと思われます。

「古老がいうことには、天地(あめつち)のつくりはじめ、草木がものをよく言うことができたとき、天より降って来た神、お名前を普都(ふつ)大神と申す神が、葦原中津之国(あしはらのなかつのくに)を巡り歩いて、山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた。」とあります。『史記』とほぼ同じ内容です。中国から来ていきなり我々倭人に武力を振るったのですが、始皇帝から弩という武器を手に入れた徐福が何を考えていたかが明確に分かると思います。この葦原中津之国は、中国地方と豊の国を合わせたものです。

これらを踏まえ、全国の徐福研究会は、歴史の研究・研鑽が目的ですので、そのあり得ない話を広げたり誇張する姿勢を見直し、原点に帰り、徐福の真実を追求するよう頑張って下さい。徐福の伝承・伝説は、殆どが江戸時代に出来ています。「考霊天皇の時」などと書かれていたり、江戸時代の人々の名前が載ったものなど、直ぐに後世のものだと判断ができるものばかりです。これらの伝承を真摯に追求することによってのみ、本当の意味での「徐福のロマン」が生まれてくると思います

[453] 奈良徐福研究会 by : 益田宗児 at : 2011/07/07(Thu) 05:22

 奈良徐福研究会は平成17年7月7日に設立しました。
本日7日は設立7周年になります。
 設立発会式を行ったJR三郷駅前のホテル・バンガードで
7周年記念として懇親会を開催します。
 徐福さんファンが33名参加して交流を図り親睦を深める事になります。弥生の使者と言われている徐福さんについて共に学んで参ります。

[452] 徐福がもたらしたアクセント by : 高木豊博 at : 2011/06/26(Sun) 16:08

私が特に最近述べてきたものは、徐福が何を倭国(日本)から吸収したかということでしたが、今回は逆に徐福がもたらしたもの:アクセントについて述べたいと思います。

徐福が紀元前210年に2回目の船出に出た時には、日本の北部九州は弥生時代の真っ最中でしたが、他の地域はまだまだ縄文の気分を色濃く残していた時代でした。従ってこの時代の言葉は、基本的にはまだ縄文語が支配的でした。徐福は、山口県の土井ヶ浜に上陸し徐々に各地に進出していったため、日本の単語の中に徐福がもたらした可能性がある言葉が見つかるのではということは、以前(2年前)述べさせて頂きましたが、アクセントもその際同時に広めた可能性がありそうです。

元日本言語学会や元日本音声学会の会長を歴任し、現在関西外国語大学国際言語学部長をされている小泉保さんが著された『縄文語の発見』(青土社、1998年)には、「縄文時代は縄文語と呼ばれる言葉で意思の疎通が図られていた。特に縄文晩期では、概ね下記の3方言に分かれていたようだ。琉球縄文語は、このうちの九州方言から分岐したと考えられる。そして弥生語が北九州で成立し、やがて畿内に移動したために、縄文人が片隅に追いやられるようになり、特に日本海側では弥生人の蚕食により、縄文語の残る地域が虫食い状態になった」(取意)と述べられています。

(縄文晩期の方言地域)
九州方言:九州地方、沖縄地方、四国地方南半分
西日本方言:瀬戸内海地域、近畿地方、中部地方
表日本方言:山陰地方から関東、東北地方

これらの縄文語の特徴は無アクセントであり(音の高下がない)、現在で俗にいうズーズー弁だということです。この特徴は、現在の東北日本方言に受け継がれ、特に奥羽方言、雲伯方言(出雲)にそれが残っています。松本清張の小説『砂の器』で、東北と出雲が同じ方言地帯であることが非常に重要な伏線で使われていて、皆さん良くご存じでしょう。よく東北の人がズーズー弁を話すために、寒さで口を大きく開けて発音することを避けたためにそのような発音になったと思われていますが、それは間違いで我々日本人は縄文語として昔からそれで意思の疎通をしていたようです。

逆に弥生語の特徴は複雑なアクセント体系があることです。日本語にも中国語の四声に似た声調と呼ばれるものがあります。声調とは語の意味を区別するため語の中に高低のアクセントをつけることを意味します。小泉保氏の『縄文語の発見』では、この声調は渡来人がもたらしたと検証されています。

「縄文語裏日本方言の行われていた山口県に土井が浜人に例証されるような渡来人が入り、縄文語九州方言の行われていたところにも渡来人が入る。」
「これら二種の縄文語が合体して弥生語の基礎をつくり、次のような複雑な母音体系が形成されたと推測される。」
「その合体の結果、八母音が生まれ、中国からの渡来人の影響になる「高、低、上昇、下降」のアクセントがこれら母音の上にかぶさった。」

ただし中国語と基本的に違うのは、中国語が1語1音節1字として、一つ一つの文字が1音節でその意味の違いを四声で表わしていることです。四声とは、中古漢語之時代(六朝、隋、唐)に確立したもので、平声(ひょうしょう)、上声(じょうしょう)、去声(きょしょう)、入声(にゅうしょう)の4つの声調で、どの単語もこの四声のどれかに属しています。声調は、音のトーンのことです。“ma”という音節は、高く平らに言えば「母」(平声)、あがり調子では「麻」あるいは少し下って上がる場合は「馬」(上声)、さがり調子では「罵」(去声)となります。

入声とは、1語の終わりにp、t、kの子音がつく音です。今もそうですが、当時の日本人には発声が難しく、pにはu、t、kにはiかuを付けていたようです。「急」kipは、kipuといっていましたし、「一」itはitu、「力」rikはriki、「百」hyakはhyakuなどと発音していました。(『漢字と日本人』文芸春秋、高島俊男著)

この四声という声調は中国の歴史のなかで徐々に発達してきたため、沈約(441〜513年)が『四声譜』でやっと確立することになりますが、六朝の梁の時代(502〜557年)でも中国人でこの四声が出来ない人がかなりいたようです。徐福の時代(紀元前220年頃)では、まだ単純な発音の前を強調するか、後ろを強調するか程度のレベルであったでしょう。

これを土井ヶ浜に上陸した徐福の集団が持ち込んだのではないかと考えられます。西日本のアクセントの分布をみると、近畿・四国が京都(京阪)式アクセント、対馬・壱岐・中国地方と豊前・豊後が東京式アクセント、宮崎・阿蘇・筑後・佐賀県北部と長崎県北部は無アクセント(一型アクセント)、福岡市周辺は曖昧アクセント、鹿児島・熊本沿岸部・佐賀県南部・長崎県南部は特殊アクセントとなっています。京都アクセントと東京アクセントは相性が悪い、片方が高で始まるともう片方は低に、片方が低で始まるともう片方は高で始まるという具合です。

学者の間では、無アクセント(一型アクセント)の地域に京都アクセントが全国に波及しようとする時に、それに反発するように逆アクセントが生じたと言われています。私は、東京アクセントの地域が『記紀』における葦原の中津国と重なっており、山口県の土井ヶ浜に上陸した徐福集団が各地に進出する際に、そのアクセントを広げたものではないかと考えています。九州を縦貫する無アクセント地帯は、その影響を受けなかった縄文語の無アクセントが後まで残った地域ではなかったでしょうか。

小泉氏は北部九州に上陸した他の弥生人と土井ヶ浜に上陸した弥生人がもたらした2種類のアクセントが他に影響を与えたと書かれていますが、北部九州に上陸した初期の弥生人は土井ヶ浜よりも数百年早く、まだ四声のような声調がない時代の人々であったために、北部九州の奴国、伊都国、末盧国などの北部の人々にアクセントを付与するような影響は与えていないと思われます。

このアクセント一つをとっても、日本各地の他の場所に徐福集団がまとまって上陸したとは考えにくいものです。徐福の問題は細かな積み上げのなかで解決していくしかないと思われます。

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