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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
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[133] 日本文化の基層と徐福 by : 高木豊博 at : 2009/01/28(Wed) 17:40

日本文化の基層の船の文化と徐福の関係について述べさせて頂きます。

(1)日本文化の基層
『海の古代史』(2002、千田稔編著)に日本の文化に影響したものが中国の北方系か南方系か、どちらに色分けできるのかとの記事がありました。「南船北馬」という言葉がありますが、これに従い千田氏は13項目に分けて北方系の馬の文化と南方系の船の文化を比較しています。日本はどちらになるでしょうか。

? 南方系の船の文化では、お日さま(日輪・太陽)を女性、と考えるのに対して、北方系の馬の文化は男性とみる。日本のアマテラスは女神であり、日本では赤色を女性とみるのも、船の文化の影響を無視できない。

? 馬の文化では右を上位として、左を下位とするが、船の文化はその逆。

? 七、五、三のように奇数に意味を持たせるのは船の文化。

? 馬の文化では「直道にして行く」ことを美徳とするが、船の文化は必ずしもそうではない。
? 船の文化は柔(柔軟)を大切にし、馬の文化は剛(剛毅)を重んじる。

? 愚(愚痴)と賢(賢明)のどちらを、より擬視するかの問題で、船の文化は愚を切り捨てない。

? 船の文化では真仮、つまり「ほんもの」であるか「にせもの」であるかに価値基準を置くが、馬の文化は正邪、すなわち人が人為的に定めた行為の価値規範に合っているかどうかを重んじる。

? 船の文化では浄穢(じょうえ)または浄不浄、馬の文化は善悪が価値基準になる。

? 船の文化では無為(切り捨て)を重んじ、馬の文化では有為(積み重ね)を大切にする。
? 船の文化は、天然自然の理法に己を虚しくして従順するのをいいとするが、馬の文化はそうではない。

? 「いのち」を持つ生き物のあり方、生命体のいきざまを混沌(カオス)ととらえるのが船の文化。馬の文化は秩序(コスモス)としてとらえる。

? 船の文化は母系社会を基盤にし、馬の文化は父系社会を基盤にする。

? 生まれる前の世界や死後の世界を、海の彼方のような水平に考えるのが船の文化。天国、天上世界のように垂直線上に考えるのが馬の文化。

 これらをみると明らかに日本文化の基層には「船の文化」が色濃く流れています。これは縄文人を含む古代日本人が海を舞台に生活をし、陸の生活に必要な中国、朝鮮からも文物もそれらの人々を通して伝えられたためでしょう。騎馬民族が朝鮮から日本に入って来たという説を唱えられた方がおられましたが、そのような事実は間違いなくなかったと思われます。

(2)阿曇、宗像そして出雲
 中国の5世紀に編纂された『後漢書』や『梁書』には、「漢の南の境は倭に近いので、韓人も入れ墨をしている」との記事や弁辰の国々や百済にも入れ墨をしているものが多いとの記事がみられます。朝鮮半島の南側は、私が昔から使う用語としての玄海人が活躍していたのでしょう。『魏志』韓伝には済州島と思われる州胡という島の漁民が「船に乗って海上を往来し、中国や韓族の諸国で商売をしている」という記事がみられます。
その中で中心となったのが阿曇氏です。彼らの根拠地は糟谷(かすや)で志賀海神社を中心に福岡から北九州までが主な範囲ですが、その中心集団は宗像族です。記紀では伊邪那岐が筑紫の日向の橘の小門でみそぎをした時に、阿曇の三柱の神と墨江(すみよし)の三柱の神が誕生したことになっていますが、阿曇はその前から活躍していました。海人がしている入れ墨を鯨面といいますが、古代「めさききざむ」刑罰である目の周囲に入れ墨をすることを「阿曇目」といいますが、この阿曇氏の入れ墨の印象が大きかったためでしょう。
『古事記』では、出雲の大国主神が胸形(宗像)の奥津宮の多紀理毘売命(たぎりびめのみこと)との間で阿遅鉏高比子根神(あじすきたかひこねのかみ)とその妹の高比売命(たかひめのみこと)をもうけたとあります。また『新撰姓氏録』では宗形朝臣が大国主神の6世の孫という記事があり、考霊天皇の時代に出雲から宗像の神が降臨したとの伝承もあります。これらを考えると宗像と出雲は古くから密接な関係があったことが伺えます。

(3)出雲の造船技術と徐福
出雲では美保神社の青柴垣神事、諸手船神事、阿太加夜神社のホーランエンヤ神事、日御崎神社の和布刈神事など船に関する神事が多くあります。この出雲の美保神社には古代から使用されていたと云われる次の舟が展示されています。
   ?諸手船、?ソリコ、?独木舟、?ドモド、?サバニー
 葦原中津之国である長門国の中にある現在の広島県呉市倉橋町には造船歴史館がありますが、ここで遣唐使船が作られていました。古代の造船技術の伝統が残っていたのでしょう。これらの出雲の造船技術は、徐福の渡来と関係が深いのではないかと思われます。中国から渡来した船乗りたちが日本に住み着くとともに、その周辺の古くからの海人族のなかに溶け込んで、造船や航海の技術を発展させ、船の文化を作り上げる一つの動きになったのではないでしょうか。これは徐福の船団に乗り込んだ「振男女三千人」が考え方の主導権を取るにはまだ若過ぎていて、年配の船乗りの風俗、習慣がその後の行動の規範になったためでしょう。
土井ヶ浜のすぐ南の土笛の出土した綾羅木遺跡は徐福集団の子孫が住みついた場所でしょうが、ここから顔に入れ墨をした土偶が見つかっています。ちょっとユーモアのある顔をしています。

[132] 海人族と秦氏の地名の違い by : 高木豊博 at : 2009/01/27(Tue) 19:10

日本は周囲を海に囲まれているため、大陸や半島との交流を通しそこでの文化が海に生きる人々を通して流入しました。それらは作物、農具、蚕(機)、土器、鉄や青銅などの金属、楽器、玉類等々、そして風俗、習慣など多岐に渡ります。この海に生きる人々を海人と呼びます。そして海人族の伝統は今まで一貫して継がれているため、その活躍の痕跡が日本の各地に地名として残されています。しかし同じような地名に秦族からの「はた」があり少し紛らわしいものです。その区別について述べたいと思います。

(1)海部(あまべ)名の分布
 10世紀の平安時代に作られた『倭名類聚抄』には、海部の地名を持つ地域が次のようにあげられています。
【太平洋側】
豊後、安芸2、土佐、阿波、淡路、紀伊、伊勢、尾張、遠江、武蔵、上総
  【日本海側】
筑前3、隠岐、丹後2、越前
 このうち律令時代に海人が集中して住んでいた地域が、筑前、豊後、紀伊、尾張、隠岐の5カ国です。このうち豊後と尾張は漁撈活動を行っていずもっぱら周防灘や伊勢湾の航海を担当し、筑前の宗像が大陸や朝鮮との交流を担当していました。

(2)海人族
 記紀などの古典に見られる海人族は、次の通りです。(黛弘道氏の文献参照)
?安(阿)曇(あずみ)宿禰(連)、?阿曇犬養連、?阿曇部、?海(あまの)犬養連、?海犬養、?大和宿禰(連)、?大和赤石(あかし)連、?凡海(おおしあま)連、?青海首(あおみのおびと)、?八木(太ガ)造、?物忌直(ものいみのあたい)、?等禰(とね)直、?倭太(わた)、?海、?海部、?海直、?海部直、?海臣、?海首、?海人

(3)海人族の地名
 海部郷のあった場所や海人族の人々の居住地から海人族の地名かどうかの判断が可能になりますが、住吉神社や垂水(たるみ)神社なども考慮し、筑前、豊後と紀伊を結ぶ地域を対象に海人族の地名を探ってみます。

【福岡県】…波多江、住吉、和田、畑、明石、楠木、宗像、白水など
【山口県】…住吉社、福浦、海士郷、畑、和田、赤石鼻、船木など
【大分県】…浦、住吉、天津、畑、和田、大海田、飯田(はんだ)など
【広島県】…畑、明石、八木、福浦、舟木、和田、宗方、垂水など
【岡山県】…畑、和田、明石、幡など
【徳島県】…福良、幡多、舟木、浦など
【兵庫県】…八木、明石、垂水、住吉郷、大和田、和田岬など
【大阪府】…八木、八田、畑、和田、半田など
【和歌山県】…住吉崎、楠見、畑、和田,阿戸、下和田など
【三重県】…和田、舟木地、波田須、畑など
 その他の地名としては、羽田(はた:宮城県)、安曇、阿曇など数え切れないほどありますが、海人族の地名として最も多いのが、「畑」と「和田」ではないかと思います。

(4)畑(はた)と和田(わだ)の語源
 海神のことを『古事記』では「綿津見(わたつみ)」、『日本書紀』では「海(うなはら)」「少童(わたつみ)」などと書きますが、この「わた」は海のことを表しています。この語源についてはいろいろな説がありますが、それらを総合すると、オセアニア語の「wata:大海」が基本にあり、黒潮そして対馬海峡にのり九州西側に渡来した時に南方人が二手に分かれ、朝鮮方面に行ったものが「pata」、日本方面に行ったものが「wata」になったと言われています。そしてこの2系統の言葉が、それぞれ朝鮮の「パタ」が畑、日本の「ワタ」が和田に変化したものと思われます。
海を「うなはら」ということもありますが、これは別系統の日本の古語かも知れません。それにしても「少童」を「わたつみ」と呼ぶのは、何となく徐福の率いた童男女が渡って来た記憶から来ているような気がしています。また「畑(はた)」という地名は、阿曇族がやったように海人族が良い耕作地を求めて進出していった新開地のことです。

(5)朝鮮渡来の秦(はた)族と地名の関係
 では同じ読み方で呼ばれる、秦(はた)関係の地名との関係はどうでしょうか。
 『三国志魏書』辰韓伝に、「辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。城柵あり。言葉は馬韓と同じではない。そこで国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴、皆のことを徒と呼び合い、秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。楽浪人を阿残と呼ぶ。東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われている。今はこの国の名称を秦韓とする。始めには六国あり、十二国に細分化した。」とあります。
 ここから分かることは渡来した秦(はた)族が話す言葉は徐福の出身地で船団の出発地である斉の言葉とは違っているので、秦族は徐福とは関係がないということでしょう。この秦を「はた」と呼ぶようになったのには、3つ説があります。一つは日本に渡来する際に海を渡って来た氏族であるため海を意味する「pata:ぱた」から来たもの(出身地が海を意味する韓国慶尚北道蔚珍郡波旦(パダン)であること)、もう一つは機織りに長じた部族であったため「機:はた」がついたとするもの、最後が古代朝鮮語で「大、巨、多、衆」を意味する「hata:はた」から来たとするものです。
 今のところ決め手となるものがないですが、2と3を足したものでいろいろな説明が可能になります。秦氏が多い豊前の宇佐八幡宮の八幡は「数多い旗」という意味でしょうし、後の「多い」を意味する朝鮮語の「manta」とつながりがありそうな名前が「茨田(まんだ)池」ですが秦氏が作っています。「大」がつく場所も秦氏は関係がありそうです。
 いずれにしても「はた」の付く秦氏関係の地名は、幡多、羽田(大分県日田)、八幡、秦野、波多などでしょう。

(6)阿曇(あづみ)族
 むしろ徐福と関係が深いのは、福岡県の志賀島や宗像に根拠地を置く阿曇族と思われます。「阿」は自分や我々という意味があり、「曇(つみ)」は住吉のスミのように潜るの「スミ」が漁を意味することから海の意味に通じていて、「我れらの海」という意味かも知れません。この安曇族は紀元前473年の呉が越に滅ぼされた際の亡命者で出来ているといわれ、中心の宗像族は朝鮮半島との航海を中心に活躍していていますし、本来の潜水漁民は「済州島だけでなく、かれら黒潮人は朝鮮半島の西海地方や、朝鮮半島の南部の多島海、さらに中国の遼東半島や山東半島の沿岸でも稼働したにちがいない。古代は古代のタイナミズムがある」(司馬遼太郎)と言われていて、徐福の航海の案内をしたかも知れません。

[131] 「日本人が最初に見た漢字」 by : 大阪徐福友好塾 鳥居貞義 at : 2009/01/27(Tue) 17:10

徐福研究仲間及び関係者の皆さんへ 
お久しぶりです。寒中お見舞い申し上げます。
新年は「とんどまつり」を主催しました。これは主に関西の行事ですが皆さんの地域は如何ですか? 佐賀・徐福国際シンポジウムで『伝説から歴史へ』のタイトルで和文、中文、英文で発表しました拙論がハングルになりました。今回は私が依頼した徐福仲間の他に自発的に翻訳し、『済州徐福文化』第7号』に論壇として掲載された先生がいらっしゃいますが残念ながら私はハングルが分かりません。
2月1日には大阪中ノ島の中央公会堂会議室で徐福についての卓話をします。詳細は下記URLををご覧ください。

さて、本日のテーマは「日本人が最初に見た漢字」です。
本日、平成21年1月27日発行の毎日新聞朝刊(余禄)によると日本人が最初に見た漢字は弥生時代中期の土層から発掘された中国の古銭で西暦14年に鋳造されたものとしています。これは徐福研究者としては見逃せない記事です。
紀元前に徐福が持ち込んだと考ええられる「半両銭」が各地で発見されているからです。「半両銭」が秦の始皇帝の時代に鋳造され、流通していたことは中・日考古学者が認めているところです。中でも熊野の波田須で発見された「半両銭」は徐福東渡の科学的証拠になると期待されています。上記余禄では「漢字検定」が話題の中心になっていますが「半両銭」を「徐福東渡検定」の課題にしてはどうだろうか?

[130] 万葉集に見る捕鯨 by : 鳥居貞義 at : 2009/01/27(Tue) 16:52

★NHK『日めくり万葉集』
放映時間は僅か5分で、月〜金の午前と午後2回、12chであります。その他にBSでも放映されます。現在は第1集・1月号を使用していますが、第1集は半分以上経過していますので第2集・2月号を求めると良いと思います。既に店頭にありますが始まる頃には品切れになるようです。第2集では「万葉歌碑」が特集されています。トップページと80頁の記事とハート型の写真は「天の川七夕星まつりの会」で交野市の機物神社
に寄贈したものです。記事は全国各地に存在する「2千基」の歌碑の記録に半生を捧げた田村泰秀氏のことを在野の学究として紹介しています。原本は「万葉2千碑」として発行されています。NHK『日めくり万葉集』は690円、「万葉2千碑」は送料別で千円でお手ごろ価格です。

さて、本題に入ります。徐福集団が齎した技術の中に「捕鯨」があったということがよく言われるのですが、紀元前3世紀頃の中国で行われていた捕鯨とはどのようなものだったのでしょうか?『伝説から歴史へ』を主張する私としては日本古代の捕鯨との関係を是非知りたいものです。
前記のNHK『日めくり万葉集』の最初の画面で、「茜さす・・・」などの枕言葉が動画で出て来るのですが、その中に「鯨魚取り・・・」の文字が出て来るのを不思議に思って見て調べました。ネットでは鯨魚取りで始まる万葉歌が紹介されています。その中の一例は以下のようなものです。

原文: 鯨魚取 濱邊乎清三 打靡 生玉藻尓
   朝名寸二 千重浪縁 夕菜寸二 五百重<波>因 邊津浪之
   益敷布尓 月二異二 日日雖見 今耳二 秋足目八方
   四良名美乃 五十開廻有 住吉能濱
作者: 車持千年(くるまもちのちとせ)
よみ: 鯨魚(いさな)取り、浜辺(はまへ)を清(きよ)み、うち靡(なび)き、生(お)ふる玉藻(たまも)に、朝なぎに、千重波(ちへなみ)寄(よ)せ、夕(ゆふ)なぎに、五百重波(いほへなみ)寄す、辺(へ)つ波の、いやしくしくに、月に異(け)に、日に日に見とも、今のみに、飽(あ)き足(た)らめやも、白波(しらなみ)の、い咲(さ)き廻(めぐ)れる、住吉(すみよし)の浜(はま)
意味: 浜辺は清く、なびき揺れて生えている玉藻(たまも)に、
   朝なぎに、夕なぎにたくさんの波が寄せてきます。
   この岸辺の波のように、何度も何度も、月を重ねて、日に日に見ても、飽き足りるなんてことはないでしょうね、
   白波の花が咲きめぐる住吉の浜は。

「鯨魚(いさな)取(と)り」は「海」を導く枕詞(まくらことば)、鯨魚(いさな)は鯨(くじら)のことと解説されています。

[129] 潮岬神話から徐福へ by : 木村正治 at : 2009/01/27(Tue) 15:00

 大汝(おおなむち) 少彦名(すくなみこと)の いましけむ
   志都(しず)の岩屋は 幾代経ぬらむ
       
        万葉集 生石村主真人(おいしのすぐりまひと)
   
 万葉集、記紀の時代、既に此処の祭神は認められている。
そればかりか仁徳天皇の時、記事「熊野岬に至りて 即ち其のところの御綱柏を取りて還りませり」と仁徳皇后磐之媛にあることから
重要な場所としての認識がある。御綱柏とは、当地で丸葉チシャと呼ばれ、宮中の豊明りに供された木の葉である。
 後代の天皇がこの歴史を慕って敬い詠んだ詩がある。

 アナウレシ 難波ノ宮ノ コト問ワン
        潮ノ御崎ノ 御綱柏ニ 
                      72代 白河天皇

 ココニマス 神ニ手向ヶノ 幣帛ナレヤ
        潮ノ御崎ニ 寄スル白波
                      
                      65代 花山天皇
 
 現、潮御崎神社の断崖直下に「夕日のガバ」と「静ヶ窟」は並んで見える。海進期の海面が高い古代、岩屋のどのあたりまで潮が満ちていたのだろうか。
 「夕日のガバ」には、夕日が射しこんでいただろう。
 「静ヶ窟」の話を宮司に聞くと、神話の少彦名の話をされる。
波間に漂う光る小人が此処に上陸されたという。
 今は「静ヶ峰」に勧請されて、主祭神となり、脇士には大汝、天照大神を配している。
 最初は無社殿であったろうが、56代、清和天皇の時に、今の宮司の初代が着任したところまでは、確かに遡れるという。今は潮崎姓だが当時は、藤原姓だったと言う。
 藤原姓は本、中臣であり、鎌足の時、藤原を特別に賜った。
中臣は忌部とともに祭祀を司った。そこでは中臣を徐福の姓とする研究もある。祭祀や職業名からの徐福研究が待たれる。

[128] 隠岐に伝わる伝承と徐福 by : 高木豊博 at : 2009/01/24(Sat) 21:23

 隠岐は出雲の島根半島の沖合65kmの海上にあり、縄文時代はここの黒曜石が出雲に運ばれたり、弥生時代後期には出雲独特の四隅突出型墳丘墓ができたりと、出雲との交流が絶え間なく行われていたようです。ここには海部郡があり、都で出土する木簡からは隠岐の海草についてのものが多く見られ、海草の貢納国と呼ばれています。
 この隠岐に伝わる伝承に『伊未自由来記(いみじゆらいき)』というものがあります。明治43年金坂亮氏が隠岐の北方郵便局に在職の時に、那久の安部廉一が原本を持参し、安部氏が口述したものを金坂氏が電報受信紙に書き写し、隠岐の郷土研究会で発表したものです。金坂氏によると「この原本は六十枚ほどあり、表紙には伊未自由来記、永亨三年(1431年)持福寺一閑、古木所有と記されていた」とありますが原本は未発見です。
 ここには隠岐に渡来した人々が渡来順に7段階に詳細に描かれています。?木の葉比等、?海人(阿痲)、?山祗、?大人様、?美豆別之主之命、?奈賀命(后中言命)、?国造の順番ですが、縄文時代から古墳時代にかけて渡来した種族の順序となっているように思えます。この伝承は内容が正しいものか、チェックしたいと思います。(長さの関係で?番以降の詳細説明は省略します)

(1)本文紹介
? 木の葉比等
 隠岐の国に初めて住み着いたのは、木の葉比等とその族であった。この人々は、下に獣皮の着物を着て、上に木や川柳の皮で綴ったものを着ていた。髪は延びたまま、目だけくるくるして恐ろしい姿であったが人柄は良かった。一番初めに来たのは島後(どうご)への男女二人で、火を作る道具や、釣りをする道具を持っていた。この二人が南の島の一番高い山で火を焚いたところ、それを目がけ男女三人が登って来た。この山が焼火山である。この後も同じような人々が漂着して住み着いたが、後全島に分散居住していった。この人々は甘い団子を作りそれが後代に伝わっていった。このことが杵取歌、餅まき歌、子守歌として村長家に伝わっている。この木の葉比等は、西方千里の加羅斯呂から来たといわれている。
● これらの歌には古代朝鮮語が入っているといわれています。

? 海人(阿痲)
 顔から全身入れ墨をした物凄い風体で、この人間を見たとき木の葉比等は大いに驚き恐れて、部落人が集合して彼らに立ち向かったが、海人は甚だ温和で、漁が上手であったので、やがて同居するようになった。その後出雲から相次いで来住するようになった。木の葉比等の名は、この海人がつけたものである。この頃隠岐は小之凝呂島と呼ばれた。これは小さな島の集まりであったからである。海人が来航して間もない頃、出雲の大山祗の一族が来航したが、数は少なかった。その後海神の於佐の神が海賊に殺された。

● 海人族は『魏志倭人伝』の次の文章に見られるように、文身(入れ墨)をしていました。「男子は、大小なく、みな面に黥(いれずみ)をし、身に文(あや:絵模様)をしている。(中略)今、倭の水人(海人)は、沈没をよくして魚や蛤をとらえ、身に文をして、また大魚・水禽をふせぐまじないをしている。後にはやや飾りとしている。諸国の身を文にする仕方はおのおの異なっている。あるいは左にし、あるいは右にし、あるいは大きく、あるいは小さく尊卑の差がある。」

? 山祇(やまつみ)
  於佐の神が亡くなった後、出雲の鞍山祇之大神の子の沖津久斯神が小之凝呂島の神として来航し、於母島の東の大津に長く宮居をする。しかし出雲が於漏知(おろち)に奪われた後、この地に於漏知が来襲し財産を奪ったり乱暴を働いたりした。そのため隠岐の島の民が結束をして於漏知に対抗した。島を奪われるなどがあり於母や三つ子の島では長い闘争があったが、そのたびに島の民は強くなっていった。
 しかし於漏知はたたらを踏んで、金(かね)の鎧・兜・楯・剣を作るので、人数は少なくても戦いには強かった。そこで島の民も度重なる来襲に耐えがたく、流宮の加須屋の大神祇大神の援助を受けるため使いをやった。小之凝呂島で米を作ったのもこの頃である。

● 於漏知(おろち)とは、出雲にヤマタノオロチ伝説が伝わっているように、良質な農地と砂鉄を求めて斐伊川の下流の平野に居住した後、山に入っていった渡来系民族ではなかったかと思われます。中国東北地区やバイカル湖東部に住むオロチョン族と思われてもいます。山祇は弥生人の前に国土に住んでいた縄文人と思われます。

? 大人(おおひと)様
 流宮加須屋大海祇大神は、軍兵を小之凝呂島へ遣わす準備を整え、御子奈賀の大人様に多数の兵船に多くの軍兵を乗せ武器・衣料・農耕(工)具・種子類まで持たせて流宮を出発させた。大人様は於母島の松野に着船、全島征服の準備をされた。於漏知は強力で、この戦いは子孫5代に渡るほど長いものとなった。そこで6代目目の出雲大山祇神の娘をめとり、その援助で於母の島を征服したが、三つ子の島までは無理であった。その後於母の島の大津に宮居を作り、この地を公田(くむだ)ととなえた。後の宮田である。そして苦労してやっと三つ子の島も取り戻すことができた。

● 流宮がどこかは不明であるが、加須屋(かすや)が福岡市東部の糟谷と思われること、?の於漏知に対抗した美豆別之主命が阿曇首と呼ばれるようになることから、志賀海神社と考えられます。そうすると奈賀は福岡市の那珂のことかも知れません。
 
(2)結論
これから徐福の問題を扱うようになると、於漏知は徐福のイメージに近いですので、この伝承も出てくる可能性があり紹介しました。私はこの『伊未自由来記』は古史古伝と考えた方が良いと考えています。昔からの伝承ではなく、明治に入りある程度考古学の知識が出来てきた段階で書かれた可能性が大きいと思います。

● 題名の「伊未自(いみじ)」は英語のイメージ(想像)から来ている可能性がある。
● おのごろ嶋は、イザナミ、イザナミが天瓊矛(あめのぬほこ)で最初に作った島で、小之凝呂島はそれをもじった可能性がある。
● 子守唄は中世の日本語に近いものです。
● この伝承での?の木の葉比等が火を燃やした山が焚火山と呼ばれると伝承ではなっています。これは隠岐・島前内海中央にそそり立つ焼火(たくひ)山ですが、しかしそこにある神社のいわれと違っています。御祭神は大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと:天照大神)であり、「平安期に至り海中より神火が示現し、それが山に飛入った奇瑞を見た島人がそれを追って山中に分け入って現在の巨岩を発見、ここを神の鎮まる処として社殿を営んだ」と縁起書にはなっています。どこにも木の葉比等が出てきません。
● 隠岐の島前神楽はスサノウの尊や高天原に関する故事が中心であり、この由来記の内容にそうものがないことはおかしなものです。
● 斯呂は斯蘆(シロ)をもじったものでしょうが、辰韓12ヶ国の一つとして3世紀に出てきます。時代が違います。

[127] 潮岬神話から徐福へ by : 木村正治 at : 2009/01/20(Tue) 19:48

太陽の 出でて没るまで 青岬     山口誓子
 今夕、柩車の窓から見た、串本須賀ノ浜の没り日は、車内の会話と相まって、特別にきれいだった。本州最南端に立つ句碑の通りに、円く見えると言われる太平洋、水平線の東端に朝日が出でて、西端に夕日が没る光景は、冬至を挟んだ短い期間である。
 間もなく「潮岬火祭り」芝焼きがおこなわれる。十万?の芝生を焼く光景は壮観であり、幻想的だ。年々盛んになり数千人が集う。
     この景色を詠ってみた。
     ? 火矢が風切る ウォー鬨の声
        灯台あかり 浮かぶ芝山
       丸い水平 漁火遠く
        木曜島へ 四千マイル
       真珠ロマンは 命懸け
        ロシア艦隊 望楼名残り
       芝は十万 枯れ衾
        平和尊き 潮岬火祭り
     ? 火矢が描いた アァー火炎花
        火輪大輪 踊る花弁
       空に響いた 黒潮太鼓
        トンビ高見で ピーヒョロロー
       観光タワー 鈴生り様
        煙棚引く 星空見上げ
       神功様も 酒盛りだ
        今宵春呼ぶ 潮岬火祭り
 神功皇后は「旭日の森」に日の出を望み、応神天皇第一侍従墓説など、近くの大島水門祭りは、これらの背景を如実に再現する。
 神武天皇は東征から、紀伊半島を南下し、近くの二色トベを誅し、海洋に漂う。古代潮岬島は知られざる神話の宝庫だ。
 潮御崎神社、主祭神は「少彦名命」、景行天皇28年、断崖直下の「静ヶ窟」岩屋から、現潮岬灯台の「静ヶ峰」に勧請されたと伝承する。(つづく)

[121] みなさんの掲示板として by : horuhoru(逵志保) at : 2009/01/20(Tue) 00:43

こうあってほしいというご要望をいただけること、真剣にこのページに向き合ってくださっていること、このページをより充実させようという思いからの声に感謝しています。
現在、単純に私自身が掲示板に時間をかける余裕がないのが実情です。
いくつもの徐福に関する新しい動きについても、公表できる段階になったらいちはやくお知らせしたいと思っています。
みなさんそれぞれのちょっとしたご意見でも感想でも案内でも、かつては駅にあった伝言版のように、徐福に関わろうとする方たちに一声かけあえる気楽な場となるとうれしいです。

[120] 皆さんの考えを載せて下さい by : 高木豊博 at : 2009/01/19(Mon) 21:49

山口さん

私の書いたものを読んで頂き有難うございます。私はまだ徐福の問題については駆け出しですので、これからまだまだ勉強しなくてはならないと思っています。考えにもブレがあります。
徐福渡来の出来事は、記紀の最初にちょっと出てくるだけの非常に古い時代のものです。それでこれを解くには、考古学、古文献、伝承、伝説、風習、言葉などあらゆるものを動員しなくてはなりません。推理力も必要です。国も日本・中国・韓国だけでなくもっと広い範囲になるかも知れず、山口さんが仰られるように皆さんの研究された成果の積み上げが必要になると思います。
それで時には新宮徐福会の研究の成果も発表して下さい。そこから何かが出てくるかも知れません。私も考えをまとめ皆さんにお伝えする努力をしたいと思っています。

逵さん
勝手な小論文を載せて頂き感謝しています。そこでお願いですが、「邪馬台国大研究」の井上筑前さんのように、一般的にはブログの責任者はテーマについての自分の意見を時々述べられます。逵さんも、ぜひ、逵さん自身の考えや今の徐福の研究の進み具合について何か述べて頂ければ幸いです。

木村さん
私は測量士の資格を持っていますが(持っているだけです)、経験的に山地や木が繁茂した場所で直線を引くことは、現在でも難しいことです。見通しを取るためには大規模な伐採が必要ですし、無線機がなければ合図で示せる範囲はそんなに遠くないものです。また太陽のラインのようなものを引こうとすれば、秒単位の正確な時計が必要ですし、GPSを含む高度な測量器具も必要です。古代の技術ではあり得ないことです。
また逵さんの言われていることは、あちらこちらで、いろんな説を聞きそれを批判せず納得ばかりしていてはいけないでしょうということだと思います。頭の中の整理が出来ていない状態では、全体を見通す筋が通ったストーリーが出来ないと思います。私自身も極力トンデモにならないように気をつけていますが、木村さんもトンデモ説を切り捨てる勇気を持って下さい。

[119] 邪馬台国問題からのヒント(続き) by : 高木豊博 at : 2009/01/18(Sun) 20:00

さて先日の「一つのヒント」の続きを述べさせて頂きます。

(1)日向地名
福岡県から熊本県を中心に「日向」と名付けられた地名が分布しています。しかしただ不規則に分布しているのではなく、一定のルート状に並んでいます。よく見ると、そのルートは私が皆さんに示している「不明21カ国」の国々の流れにそっていることが分ります。

1)奴国 :福岡、春日    ……日向峠(伊都国東境)、日向川
2)烏奴国:大野城      ……日向山
3)支惟国:基山、筑紫野、小郡……日向石
4)巴利国:甘木、把木    ……日向石、日向東
5)躬臣国:日田       ……日向山、日向郷、日向山(玖珠)、日向(前津江)
6)邪馬国:八女       ……日向神川、日向神岩、日向神社、日向(浮羽)、日向見山
7)鬼奴国:玉名       ……日向
8)為吾国:山鹿       ……日向(菊鹿)
9)鬼国 :菊池       ……日向、日向(菊池郡)、日向上(熊本)
10)華奴蘇奴国:阿蘇    ……日向(産山)
11)呼邑国:河陽 ……なし  12)蘇奴国:二瀬本、馬見原……なし
13)対蘇国:草部      ……日向泊
 この他で「日向」地名があるのが、宮崎から大分にかけての海岸に沿ったものです。
日向泊(佐伯)、日向岳(別府)、日向(武蔵)、日向(東国東)

これらから分ることは、女王国における卑弥呼の国の範囲が伊都国の境であること(『魏志倭人伝』では奴国が境界となっています)、卑弥呼(ピミファ、あるいはピミカ)の名前が日向(ヒムカ)の元でありその範囲がこれらの国々であり、このルートを通して頻繁な人の流れがあったこと、従って魏の使者が通ったルートも当然これに沿ったことが分ります。

(2)アクセントからみる邪馬台国(女王国)の範囲
 平山輝夫先生の『日本の方言』では、長崎県北部、佐賀県北部、筑前、筑後、熊本県北部、阿蘇、日向(宮崎全域)地域では、崩壊アクセントとそれに付随する曖昧アクセント地域となっています。この地域は、末盧国(松浦半島、唐津)から伊都国、奴国、そして私があげた不明21カ国のまさにルート地域です。従ってこの点からも、東京アクセント地域の豊前、豊後は邪馬台国(女王国)の地域から外れていることが分かります。
(厳密にいえば、邪馬台国は都のある狭い地域で、卑弥呼が統治している国全体が女王国です)

(3)四国の存在と九州の姿
 『魏志倭人伝』では「女王国の東、海を渡ること千余里にして、復た国あり、皆倭種なり」とあり、これは豊の国から東に1日船で行った場所に国(多分愛媛県)があるとしています。この『倭人伝』は、九州北部と中国地方の位置関係については直接何も述べていませんが、「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なりて、周旋五千余里可なり」とあるように、九州(倭)の形や、それが一周できるものであることをはっきりと認識していたと思われます。これは中国の外洋船で初めて調査可能なもので中国船の頻繁な来航があったのでしょう。

(4)豊国とは
 豊国は、福岡県東部と大分県北西部(宇佐、下毛郡)の豊前と、この2郡を除いた大分県全域をいいます。『豊後風土記』では、景行天皇が名付けたことになっていますが、実際はもっと古くから名付けられていたと思われます。徐福の子孫は土井ヶ浜から南下をしてここまで辿り着き邪馬台国の時代頃までは自分たちの国を作っていたのでしょう。苅田町の葛川遺跡からは山口県下関市綾羅木遺跡で出土した土器と類似するものが出土しており、また小倉南区守の長行(おさゆき)、宮原、守恒(もりつね)遺跡、行橋市下稗田遺跡からはその頃の住居跡があり、この守恒遺跡から中国の前漢時代の五銖銭が1枚出土しています。豊前市の鬼ノ木四反田遺跡からは青銅製ヤリガンナや小型の銅鏡などが出土していますし、上毛町からは弥生中期前半の大型掘立柱建物跡が牛頭天皇遺跡、中桑野遺跡、桑野遺跡などで見つかっています。

(5)台与と豊の関係
 ここに宇佐八幡宮があります。全国4万4千社の八幡宮の総本社です。大宮司は最初大神氏がなり、その後宇佐氏が継ぎますがどちらも渡来人の子孫と言われています。問題はこの主祭神です。宇佐神宮の本殿には、一の御殿に応神天皇、二の御殿に比売(ひめ)大神、三の御殿に神功皇后が祀られていて、真ん中の比売大神がもっとも重要な神と思われます。
この比売=姫が誰であるかいろいろな説があります。私は卑弥呼の後の邪馬台国(女王国)を13才という若さで継いだ台与(とよ)であり、記紀での万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)ではないかと思っています。これは名前の中に「豊(とよ)」を含んでいること、また卑弥呼と考えられる天照大神を祀った伊勢神宮に、皇大神宮の内宮の天照大神の相殿神としてこの命が祀られているためです。この万幡豊秋津師比売命の父は高御産巣日神(たかみむすびのかみ)で朝鮮から渡来した神であると考えられています。万幡豊秋津師比売命は天照大神の子供の天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)と結婚し、邇邇芸命(ににぎのみこと)や天火明命(あめのほあかりのみこと)などを産みます。このためか天照大神は、この葦原中国は「天之忍穂耳命の知らす国ぞ」としたために、後の出雲の大国主の国譲りにつながっていきます。

(6)卑弥呼とは
 卑弥呼の名前の意味についてはこれも様々な学者が説を唱えていますが、私は職業名ではなく本名ではなかったかと考えています。蚕の古名を「蚕子」あるいは「姫蚕」と書いて「ひめこ」と言いますが、これが本名でしょう。この言葉は近年まで地方に残っていたといわれています。蚕の背面に×形や⋀形の斑紋があり、狭い意味ではこの斑紋がない種類を「姫蚕」と呼びますが、一般的には「姫蚕」で十分通用するでしょう。
 『日本書紀』には高天原の話として、「また大神(天照大神)は口の中に、蚕の繭を含んで糸を抽くことが出来た。これからはじめて養蚕が出来るようになった」とあります。口から糸を出してみせ脅かしている、悪戯っぽい乙女の顔が浮かんでくるようです。『書紀』の作者のなかで真相を知っているものが、分からないように暗示させているのかも知れません。勿論卑弥呼は天照大神です。

残念ですが、この時代の豊の国あるいは出雲の国については『魏志倭人伝』からは十分に探ることが出来ません。やはり時代が違うためでしょう。投馬国を出雲に比定する学者もいますが、これは南を東に変える捏造レベルのものであり得ないことです。

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