_HD_SKIP_CONTENTS

_HD_BREADCRUMBS

TOP  >  BBS

BBS

10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

Name
E-Mail
TITLE
Message
Related URL

[143] 知恵袋 by : 鳥居貞義 at : 2009/02/08(Sun) 04:06

赤崎さん
早速、第1便ありがとうございました。深謝。
早速、徐福仲間の知恵袋に入れさせて頂きます。
「五穀」に稲が含まれているかだけでも興味深いテーマとなりますね。
中国側の見解も聞きたいものです。中国の徐福仲間の皆さん宜しくお願いします。
次回の徐福国際会議ではこの問題をテーマに同時通訳で議論出来たら最高ですね。
次回にはこれだけで論文募集してパネル討議又はグループ別討議が出来れば意義深いものと考えています。
いずれにしても此処での意見交換の次はオフミ(off line meeting)が必要ですね。楽しみにしています。
ところで、『伝説から歴史へ』のハングル語版は如何でしたか?機会を出来れば返事ください。

志保さん
当面は現状で知恵袋を膨らませて行くことにします。
色々とご面倒をかけますがそれでも期待しています。
現在掲示板はそのままにしてテーマ別の知恵袋という方法もあるかも。
先ずはもっと多くの徐福仲間がこの場に登場することを願っています。

高木さん
この掲示板は賛否討論の場にしたくありません。
歯の治療は如何でしたか?それで気づいたのですが歯は考古学では貴重な証拠になりますね。
徐福に興味を持った歯医者さんが仲間になって意見を聞かせてくれることを願っています。
徐福研究仲間には商船大学教授、化学者、作家、郷土史家、考古学者等々多種の専門分野の人が参加していて正に総合科学と云うに相応しい場所ですね。
ご意見有難うございました。

[142] 高木さんへ by : 木村正治 at : 2009/02/06(Fri) 21:51

高木さん、残念なことをおっしゃらないでください。
 私だけではないと思いますが、私は最も高木さんの研究成果を楽しみにしております。ただ高木さんの悪い癖で、頭ごなしに完全否定されると、私もカチンと頭にくるものですから少々意地悪な言葉を発しますが、高木さんのような幅広い研究者がいることで、徐福の日本上陸は、本当に身近に感じることが出来るようになりました。私は今、夜昼、仕事に忙殺されていますので、文章を発表出来ませんが、読む楽しみを奪わないでください。徐福のためにも心からお願いいたします。

[141] 様々な切り口がありますね by : 逵 志保 at : 2009/02/06(Fri) 09:22

赤崎さん、個人メールにお送りいただいていた玉稿、この欄に投稿いただきありがとうございました。「五穀」という言葉が歴史的にも地域的にも同じものを指していない点、私も指摘したことがありますが、文献上の知識でしかなかったので勉強になりました。

さてツリー方式ができないことはすでにお話しました。ひとことお願いしたいのは掲示板は掲示板としての機能を生かせるようにお願いしたいということです。
それはどういうことだ!なんて言わないでくださいね。ご自分の判断でお願いします。みなさんの思いやりでこの掲示板を作っていけたらと思います。

徐福の面白さは「伝承・伝説にこだわ」ることで見えてくると私は考えています。それが私の見方です。でもそれは別の方から見れば「研究者の意識の低さ」なのですね。こうやって言葉を抜いてしまうとあまり気持ち良くありませんね。高木さんを非難しているのではありません。会って話をしているのではないため、言葉だけは誤解も生まれます。不愉快にしあうような掲示板は作った意味がありません。
いろんな研究があっていいと思います。問題解決とはそもそもなにかということも、それぞれと思います。

徐福を楽しめる場をみんなで作りましょう。よろしくお願いします。

[140] 鳥居氏の意見に反対します by : 高木豊博 at : 2009/02/05(Thu) 20:11

歯の治療のため韓国に行っていた間に、掲示板の方式が無理に鳥居氏の提案に引きずられているのを見て驚いています。

徐福は時代が弥生時代がやっと発展の兆しをみせた段階での問題であり、広範囲の知識を総合的に集積して対処するしか方法がないと考えられます。鳥居氏の提案の項目は非常にマイナーな問題であり、これらを基に徐福が見えてくるものでは決してないと思われます。日本の徐福の問題が解決に向かわないのは、伝承・伝説にこだわり過ぎていることと、実質的な研究がなされない研究者の意識に低さにあるように思います。

同じ材料でも、青銅での銅の産地や鉛の放射性同位元素の扱い、墓や土器、貝装飾の比較、中国と日本の造船技術の比較、鉄(製鉄、鍛造)、木の道具、漁業技術などたくさんの物があります。もちろん文化的要素を加味すれば大変な広がりがあります。狭いテーマは、徐福問題解決を阻害する恐れがあります。そこで私は鳥居氏の提案に反対します。提案はどのようなテーマでもよく、自由な意見交換をすべきです。

私の書いたものに対してテーマが絞られたものでないため、あるいは議論が難しいため議論がなされていないとの意見ですが、それは皆さんの問題で、おかしければおかしいと言っていただければそれで議論が発展すると思っています。私は皆さんが今まで話し込んでこられていないことに、敢えてテーマを絞り挑戦してきました。徐福の勉強はあまりしていませんので、難しいし私の意見が全て正しいとも思っていません。反対意見が正しければ、当然修正します。私の文章が長いのは、論文を書くのがへたなためですが、全て私一人で朝コーヒーを飲みながらテーマを考え、その日にパソコンに打ち込んでいます。誰か手伝ってくれる人がいれば助かるのですが。

私はさっき紹介した材料などや文化について、いろいろ書こうと考えていましたが、気力が薄れましたのでここでしばらく休ませて頂きます。皆さんの研究が今後発展することを祈ります。

[139] ツリー方式第1便「五穀」 by : 赤崎敏男 at : 2009/02/04(Wed) 10:57

鳥居さんやってみましょう
第1便です。

五穀

『史記』巻百十八 准南山列伝に「 秦皇帝大説 遣振男女三千人 資之五穀種種百工而行 」に五穀の記事があり、一般的には米、麦、粟、豆、黍と言われているが、『史記』巻30東夷伝 弁辰に「土地肥美、宜種五穀及稲、曉蠶桑、作縑布、乗駕牛馬。」とあり、五穀に稲は含まれていないなど、五穀の種類は時代や地方によって異なっている。ここでは、東アジアの先史時代などの出土穀物から『史記』に記載された五穀を考えてみたい。
中国、朝鮮半島、ロシア沿海州での先史時代(初期農耕文化期)の出土穀物には稲、粟、麦、黍、蜀黍(高粱)、大豆、小豆の各種がある。発見された穀物で稲が最も多く、粟がこれに次いでいる。稲は東アジア穀物出土遺跡の7割近くに達している。出土穀物の分布では、粟をはじめとする畑作物は准河以北に分布域があり、その北限は北緯45度とされている。一方南側では准河が中国において、稲作と粟、麦作の境界にあたっている。
黄河流域ではBp8000年以降は粟が多く作られこの地域の基本的な栽培穀物であったことが知られ、一部には黍が見られるが量的に多くはない。仰詔文化期の後半期になると稲の栽培が始まり、粟、黍、稲が主要な作物となっている。
東北地方では、粟は黍、蜀黍(高粱)、豆などと共判するが豆類の出土が多くなり、遼東半島、朝鮮半島では新石器時代に栽培されていた畑作物に稲が加わっている。
稲については、BP4000年頃には遼東半島に到達しており、これら以北には稲の出土は未発見で、東アジアでは先史時代稲作の境界は北緯40度が北限と見られている。
華南地方では、インディカ、ジャポニカ種の稲が栽培されているが、朝鮮半島、日本に伝わった稲の多くはジャポニカ種の稲である。粟は華南地方には少なく、華中、華北、東北部、朝鮮半島に多く栽培されている。また、黍、モロコシ、マメは華北から東北部、朝鮮半島にかけて多く出土している。
秦とほぼ同じ時代の穀物栽培については、洛陽市漢河南県城墓から出土した穀物名を書いた灰陶があり、これによると稲、黍、粟、麦、の四つの穀物があるが、『史記』に記載された五穀については、徐福の出身地域から集められた可能性が強いため、この地方で栽培されていた、稲、黍、粟、麦のほか、蜀黍か豆が考えられるが、斉地域からの穀物とすると、豆の可能性が強い。
徐福が渡来したとされる、日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて、各地の遺跡から見つかった植物遺体・プラントオパール・籾痕土器などから、栽培されていた植物が判明しているが、コメ、アワ、アズキ、オオムギ、ソバ、ヒエ、リョクトウ、コムギ、モロコシ・エゴマ・ダイズ・ゴマが確認されている。

参考文献
「よみがえる漢王朝―2000年の時をこえて―  1999
甲元眞之編「環東中国海沿岸地域の先史文化」第2編(東アジア先史時代穀物出土遺跡地名表)熊本大学考古学業書7 1999
藤尾慎一郎「日本の穀物栽培・農耕の開始と農耕社会の成立(さかのぼる穀物栽培と生産経済への転換)」国立歴史民俗博物館研究報告 第119集 2003

오곡(五穀)


『史記』巻百十八准南山列伝「秦皇帝大説遣振男女三千人資之五穀種種百工而行」에 오곡의 기사가 있어, 일반적으로는 미, 맥, 속, 두, 서라고 말해지지만 , 『史記』巻30東夷伝弁辰「土地肥美、宜種五穀及稲、曉蠶桑、作縑布、乗駕牛馬。」라고 있어, 오곡에 벼는 포함되지 않은 등, 오곡의 종류는 시대나 지방에 의해서 차이가 난다. 여기에서는, 동아시아의 선사시대등의 출토 곡물로부터「사기」에 기재된 오곡을 생각해 보고 싶다.
중국, 한반도, 러시아 연해주에서의 선사시대(초기 농경 문화기)의 출토 곡물에는 도, 속, 맥, 서, 촉서(고량), 다이즈, 쇼즈의 각종이 있다. 발견된 곡물로 벼가 가장 많아, 조가 이것에 이어 있다. 벼는 동아시아 곡물 출토 유적의 7할 가깝게에 이르고 있다. 출토 곡물의 분포에서는, 조를 시작으로 하는 밭농사물은 준강이북에 분포역이 있어, 그 북쪽 한계는 북위 45도로 되어 있다. 한편 남쪽에서는 준강이 중국에 있고, 벼농사와 조, 맥작의 경계에 임하고 있다.
황하 유역에서는 Bp8000년 이후는 조가 많이 만들어져 이 지역의 기본적인 재배 곡물(이었)였던 것이 알려져 일부에는 수수를 볼 수 있지만 양적으로 많지는 않다. 앙조문화기의 후반기가 되면 벼의 재배가 시작되어, 속, 서, 도가 주요한 작물이 되고 있다.
동북지방에서는, 조는 수수, 촉서(고량), 콩등과 모두 판단하지만 두류의 출토가 많아져, 요동 반도, 한반도에서는 신석기시대에 재배되고 있던 밭농사물에 벼가 더해지고 있다.
벼에 대해서는, BP4000 년경에는 요동 반도에 도달하고 있어, 이것들 이북에는 벼의 출토는 미발 봐로, 동아시아에서는 선사시대 벼농사의 경계는 북위 40도가 북쪽 한계라고 보여지고 있다.
화남지방에서는, 인디카, 쟈포니카종의 벼가 재배되고 있지만, 한반도, 일본에 전해진 벼의 상당수는 쟈포니카종의 벼이다. 조는 화남지방에는 적고, 화중, 화북, 토호쿠부, 한반도에 많이 재배되고 있다. 또, 수수, 수수, 콩(물집)은 화북에서 토호쿠부, 한반도에 걸쳐 많이 출토하고 있다.
진과 거의 같은 시대의 곡물 재배에 대해서는, 낙양시한카난현성묘로부터 출토한 곡물명을 쓴 회도가 있어, 여기에 따른도, 서, 속, 맥, 의 네 개의 곡물이 있지만, 『史記』에 기재된 오곡에 대해서는, 조후쿠의 출신지역으로부터 모아진 가능성이 강하기 때문에, 이 지방에서 재배되고 있던, 도, 서, 속, 맥외, 촉서나 콩을 생각할 수 있지만, 제지역으로부터의 곡물로 하면, 콩의 가능성이 강하다.
조후쿠가 도래했다고 여겨지는, 일본의 죠몽 시대 만기부터 야요이 시대 전기에 걸치고, 각지의 유적으로부터 발견된 식물 사체•세포 형태의 규산 화석•인흔토기등에서, 재배되고 있던 식물이 판명되어 있지만, 쌀, 아와, 아즈키, 대맥, 메밀국수, 히에, 녹두, 콤기, 수수•에고마•다이즈•참깨가 확인되고 있다.

참고 문헌
「よみがえる漢王朝―2000年の時をこえて―  1999
甲元眞之編「環東中国海沿岸地域の先史文化」第2編(東アジア先史時代穀物出土遺跡地名表)熊本大学考古学業書7 1999
藤尾慎一郎「日本の穀物栽培・農耕の開始と農耕社会の成立(さかのぼる穀物栽培と生産経済への転換)」国立歴史民俗博物館研究報告 第119集 2003

[138] ツリー方式 by : 逵 志保 at : 2009/02/02(Mon) 00:36

ツリー方式は以前も検討したのですが、中国語・韓国語を併記できず、どちらをとるかと考えた時、本HPの目的はネットワークの構築ですので多言語表記を選択しました。
本HPの目的に合わせた設定ですのでご理解ください。

[137] 新ツリー方式によるテーマの具体例 by : 鳥居 貞義 at : 2009/02/02(Mon) 00:34

{136}で提言しましたツリー方式が出来ましたら先ずは下記のテーマ別について意見と情報を頂きたいと考えています。
テーマ A. 五穀の具体名について
テーマ B. 百工の具体名について
テーマ C. 童男童女の人数について
テーマ D. 連弩について
テーマ E. 半両銭について
テーマ F. 竹簡について
以上のテーマ別に出来るだけ多くの人の参画を期待しています。

[136] 掲示板ツリー方式の再検討をお願いします。 by : 鳥居 貞義 at : 2009/02/02(Mon) 00:19

掲示板ツリー方式の再検討をお願いします。
掲示板設置の当たってお願いしたことですが、テーマ別に議論が出来るように再検討をお願いします。
現在の方式では?テーマが定まらないの議論が難しい。?特定の意見発表に終始して議論が出来ていない。
?本文だけが長すぎて誰が(匿名はOKです)或いは何人が参画しているのか分かりにくい。等々の改善をお願いします。
因みに別のグループで作成している掲示板は以下のようになっています。
No.906の例では同一テーマ(Windows-7 パブリックβ版)に対して数人が参画して議論しています。
No.891 の例では同一テーマ(「後期高齢者」を記念して) に対して二人が意見交換しています。
上記2例共に現在の参加者が増えています。
上記2例は全くテーマの内容が違いますが、意見のある人はいつでも、どこからでも参画できます。
以上宜しくお願いします。

  テーマ(表題) ハンドル名 発信日時
No.906 Windows-7 パブリックβ版        SanPhil 2009/01/09(金) 11:28 
   ┣No.911 RE:Windows-7 パブリックβ版  SanPhil 2009/01/10(土) 14:50
   ┣No.912 RE:Windows-7 パブリックβ版  Mizu 2009/01/10(土) 16:34
   ┣No.913 RE:Windows-7 パブリックβ版  SanPhil 2009/01/10(土) 18:27
   ┣No.918 RE:Windows-7 パブリックβ版  JIKOH 2009/01/12(月) 18:03
   ┣No.923 RE:Windows-7 パブリックβ版  Mizu 2009/01/14(水) 14:12
   ┣No.925 RE:Windows-7 パブリックβ版  Mizu 2009/01/15(木) 14:10
   ┣No.926 RE:Windows-7 パブリックβ版  JIKOH 2009/01/16(金) 09:09
   ┣No.931 RE:Windows-7 パブリックβ版  Mizu 2009/01/17(土) 20:02
   ┣No.933 RE:Windows-7 パブリックβ版  Mizu 2009/01/22(木) 14:52
   ┣No.936 RE:Windows-7 パブリックβ版  Mizu 2009/01/23(金) 09:00
   ┣No.937 RE:Windows-7 パブリックβ版  JIKOH 2009/01/23(金) 22:17
   ┣No.938 RE:Windows-7 パブリックβ版  Mizu 2009/01/24(土) 09:04
   ┗No.940 RE:Windows-7 パブリックβ版  Mizu 2009/01/26(月) 11:18

No.891 「後期高齢者」を記念して Kazz 2008/12/31(水) 08:56 [ 返信 ]
   ┣No.892 RE:「後期高齢者」を記念して Kazz 2009/01/01(木) 08:59
   ┣No.905 RE:「後期高齢者」を記念して Tomy 2009/01/08(木) 22:11
   ┣No.907 RE:「後期高齢者」を記念して Kazz 2009/01/09(金) 11:51
   ┗No.908 RE:「後期高齢者」を記念して Tomy 2009/01/09(金) 22:43

[135] 3000人の徐福…脱線 by : 木村正治 at : 2009/01/29(Thu) 19:46

3000人の徐福(2006年北京、劉智剛中国徐福会長)がいたと言われながらも、日本には現代、確かな証拠は無いと徐福セミナーでお聞きした。
 つまり、日本各地、二十数ヶ所、韓国、果ては中央アメリカの徐福上陸説は、それはそれでどれも正しい。徐福一行の誰が何処にたどり着いても、徐福を名乗ると言うことである。
 一方で徐福の本体が2度(3,4度説もある)にわたって、日本の何処へ上陸し、どう行動したのかも興味の尽きないところである。 しかし今は日本の徐福研究は始まったばかりであることを思えば、いろんな説、仮説がどんどん出る方が良い。仮説が多く出てこないから、日本の学問は進歩しないとは、有名学者の主張でもある。私の説は直感力、大局観によるところが大きい。批判も恐れない。後の世に馬鹿の烙印を押されても痒くも痛くもない。徐福のことは、大きく言えば歴史の審判を仰ぐ他ない。

[134] 徐福の航海 by : 高木豊博 at : 2009/01/29(Thu) 14:47

(1)徐福と航海
 徐福は斉国出身ですが、この山東半島の住民は古くから航海にたけていて、戦火を避け舟に乗り朝鮮や日本に着いたことがありました。徐福上陸前に北九州にいた弥生人は、同じような江南(揚子江下流域)の出身者と言われています。そのためか燕や斉の方士は、航海への特殊技能を持っていたようです。そのことも徐福が始皇帝から仙人探しを任された一因でしょう。

(2)船の構造
 徐福の航海には、2階建ての船(楼船)が使われたと想像されます。これらの船は出航地が中国の各地にあるように、各地で作られたと思われます。大きさは1艘に子供だと100名程度が乗れる大翼クラスのものと思われます。そうすると40艘近くの大船団だったでしょう。
 徐福の船の構造は、基本的に平底の船で、底全体を取り巻く枠木に板が取り付けられている初期段階のジャンクタイプと思われます。舵の役割として櫓の大型のものはあったと思われますが、いわゆる軸動舵もなく、方向転換はオールを例えば片方を海に挿し反対側を漕いだりして行われたと思われます。マストは中央に1本だけあり、帆はジャンクのように上の留めを外せば一気に下に落ちるタイプだと思われます。
漢代の船の復元模型で、楼閣が中央にあるものがありそれにマストが設けられてあるものがありますが、何か不自然で楼閣は船の前後にあったのではないかと思われます。内部は横木が構造材として多数用いてあり、それに板を渡し人が居住したり、倉庫になっていたのでしょう。環境は良い物ではなさそうです。碇は石で作ったものだったでしょう。また漢代の船にある「やじろべえ」(片側に重しをつけバランスを取りながら物を移動させる)のような物を吊り上げ移動させるクレーンのようなものもあったでしょう。炊飯はかまどを用いたのでしょうが、河姆渡遺跡や西周時代の遺跡から、煮炊き用の甕をのせられ、横から燃やすための木材を入れられる脚をつけた大きなバケツ状のかまどが発見されており、そのような構造だったのでしょう。
 このタイプの船は基本的に釘を使わないで木を組み合わせただけのもので、黄海を渡り朝鮮半島を南下する際にはかろうじて維持できても、済州島から山口の土井が浜に渡る際には、波の強さで遭難した船も出たのではないかと思います。対馬海流の流れにまかせ着いた土井が浜の海岸では、その損傷した船はそのまま砂浜に乗り上げたでしょう。平底が幸いし、船は傾くことはなく人や積荷は無事に降ろすことができたと思います。壊れた船の木材は、仮の家を作る時に使用されたでしょう。

(3)船の定員
 船には実際にどれ位の人が乗り組むことが出来たのでしょうか。遣唐使船の研究家船舶工学の松本哲氏と和船の専門家石井謙治氏は遣唐使船の大きさについて、次のような説を立てています。
  長さ…30m、幅…8m、排水量…300トン、積荷重量…150トン
これを参考に、徐福の船は楼船ですから春秋戦国時代の大翼クラス(長さ26.4m、幅3.5m、乗員91名)と仮定し、それと照合したいと思います。
 ? 船の居住面積=2/3×26.4×3.5=61.6m2(矩形の2/3とした場合)
 ? 1坪(3.3m2)当りの収容人員を3名とすると、1名1.1m2となります。
 ? 収容人員=61.6m2÷1.1=56名…1層<91名
船底が楕円になっている場合には、喫水の深さはどの位でしょう。遣唐使船から割り出すと次のようになります。
 遣唐使船の床面積A=2/3×30×8=160m2
 大翼の船の排水量V=300×61.6/160=115.5トン 
大翼の船の喫水 C=3/2×115.5/61.6=2.82m
 これはかなり深いので、2層にすることが可能です。そうすると収容人員は次のようになるでしょう。
    56名+2/3×56名=93名 ≑ 91名
 これでほぼ乗員数が合うように思われます。どうも戦用の船であるため2層になっていると考えた方が良さそうです。春秋戦国時代の銅壺(「宴会を楽しむ様子・狩猟の様子・水上戦と陸上戦の様子が描かれた壺」)には、水軍の戦闘の模様が詳しく描かれていますが、その戦艦も2層になっています。徐福の船も同じように2層になっていると思われますが、子供の割合が高いので1艘100名は乗り込めたと思われます。 

(4)桐油
 古代中国では、舟の塗装には桐油を使っていたようです。桐油はトウダイグサ科の支那油桐の種子から取れるもので、植物のなかでも比較的乾燥しやすい乾性油です。亜麻仁油より耐水性に優れていて、造船でも使われるようになったようです。古代中国の舟が船体も帆も褐色を呈するのは、この桐油が沁みこんだためです。ただ褐色の色合いが深いのは、製造が稚拙で不純物が多く混じっていたためと考えられています。

(5)造船所
 広州には漢代の造船所(船台)の跡があります。これからは当時の生産設備がかなり先進的なものであったことが分かります。枕木・2列の滑板、滑板上の木の台座で構成されています。2台の滑板で船を挟む形になります。ここでは違った規格の船も建造されたようですし、勿論同じ規格のものは当然できます。ここでは、長さ30m、幅8m、積載重量30トンの大型船が製造でき、ここにはこうした船台が3箇所ありました。
 木の台座は船を支えると同時に、船底での作業を容易にしました。2列の滑板は進水台ですが、幅は船に応じて調整できるものです。枕木は船の重量を分散させ、沈下を防ぎます。このやや原始的な造船施設が秦代にはあったと思われます。
徐福が渡来したクラスの船ですと、造船には乾ドックが必要になると思います。陸と海の境目に最初に水門を設け、陸側を掘削しそこをドックとするものです。中国の江南地方は3m近くの干満の差がありますので、これを利用して中に水を入れ船の進水を行うことが出来たと思われます。水門の施設については、湘江と漓江(りこう)とを結ぶ大運河霊渠(れいきょ)に川の流れに逆行して船を進めるため「陡門(ともん)」と呼ばれる階段式水門を設けていますが、その技術力がこの造船所で生かされたのではないでしょうか。

(6)航海ルート
徐福は紀元前210年に3千人の振男女と(千人の童男童女を含め)、5穀を持ち、百工を引き連れて航海に到りますが、このルートとしては山東半島の北端から遼東半島に渡り、朝鮮半島の沿岸を南下し、まず済州島に到ったでしょう。そして対馬海流にのり、山口県の土井が浜に上陸することになります。ただし紀元前219年にも一度出航して失敗した徐福は戻ってきていますが、日本各地に残る伝説、米の道などを考えると、この時は直接東側の琉球あたりを目指し、黒潮に遭遇した段階で、遭難船団がばらばらになったためと考えられます。この時の航海が中国人が外洋に乗り出した始めてのものだと中国では考えられています。
 私は中国に戻れなかった理由の一つに、船が外洋船ではなく、内陸や沿岸、せいぜい黄海を対称とした構造船クラスで、日本に着いた時には壊れたものが多かったのではないかと考えています。勿論徐福自体は戻ることは最初から考えていなかったようですが。

BBS page navigation