_HD_SKIP_CONTENTS

_HD_BREADCRUMBS

TOP  >  BBS

BBS

10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

Name
E-Mail
TITLE
Message
Related URL

[163] 黒船がたった4隻来て日本はビックリ! by : 岡本 at : 2009/03/01(Sun) 10:17

たった100年ちょっと前に黒船が4隻来ただけで日本はびっくり仰天、江戸時代はひっくり返って明治になります。徐福さん(1人)子供が3000人職工さん100人沖縄の王子1人=3102人+沖縄の王子のお供が大船団でやって来たら地元の縄文人の方々はどれだけびっくりするでしょう、今だったら宇宙人でも来ない限りそこまでびっくりはしないでしょうが、当然何をしに来たか分かりませんし警戒しますよね。徐福さんには全く悪意はないのですから何とか友好を結びたいと思いますが地元の人はそう簡単に出てきてはくれません、そこで意外に警戒心の弱い子供を手なずけて見たらどうでしょう。徳永飴でもあげてみれば子供はあっという間に警戒心を解き親に報告に行くでしょう。飴もらったよ!と。そこで親たちは酋長の源蔵さんに相談します、沖縄の王子が通訳となり持って来た酒を振舞ってこんなのを作りましょうよ!と言えばたちまち息も統合するのではないでしょうか、私の勝手な解釈ですが。

[162] 古代人は暇じゃない! by : 岡本 at : 2009/03/01(Sun) 09:02

何で古墳を作ったのでしょう?たった一人の王の墓のために働かされたのではお腹がすいてたまりません。そもそも王は自分が死ぬことを前提に墓を作らせたのでしょうか?そんなことをするのは始皇帝かピラミッドか?お腹がすくから民衆は当然反発しますよね。その近くにため池はありませんか?稲を作ろうと思ったら当然干ばつの際の対策は必要でしょう。今でこそダムがあり水道の蛇口をひねれば水は出てきますが徐福さんの時代にそんなものはありません。それでは皆で掘らなければいけないでしょう。耕していたら雷も落ちてきます。古墳の真ん中に竹でも立ててその先に鉄でも巻きつけておいたらそこに落ちてくれるでしょう。場所場所では案山子を作って鎌を持たせておけば大丈夫です。その指導者が亡くなったら改めて納棺して古墳に埋葬してあげましょう。

[161] 名前はある程度似たものを付けています。 by : 岡本 at : 2009/03/01(Sun) 08:21

新在があれば当然どこかに本在がある、新庄があれば本庄がある、新宿があれば本宿がある、今でこそすべて過去ですが作った時には現代でしょう。

[160] okamoto-ke@sgr.bbiq.jp by : 岡本 at : 2009/03/01(Sun) 04:27

始皇帝は最大の敵です、裏切ったのがのがばれれば攻められます!自分が渡ってこれたのですから当然他の部隊が渡ってこれてもおかしくないでしょう。防衛しましょう、延寿は有ったけど不老不死はまだ見つからないくらいの報告はしておきましょう。牽制しつつ防衛手段はとっておきましょう、帯隈山に神竃石の列石が有ります、有明海からの進入に備えているようです、自分がそこから来たのですから当然相手も裏切ったことがわかればそこから入ってくるでしょう。帯隈山の手前に池を掘って進入路を狭くしましょう、その横に天童山があります、いよいよ攻めてきたら横から相手を突きましょう、そういう防衛は必要ですが使わないにこしたことはないでしょう、防衛しつつ平和を保ち開拓をしましょう。

[159] 「おくりびと」にオスカー by : 木村正治 at : 2009/02/27(Fri) 17:11

153 ,最古の舟形木棺、弥生中期の舟葬から何を読み取れるか?
 考古学の知識に乏しい私が語れるとは思いませんが、現役の葬儀屋として感じるままに述べてみます。
 映画「おくりびと」にオスカー賞が贈られて、納棺士という職業、葬送という厳粛な儀式があらためて注目され、見直される時に当たって、この問題を考えてみるいい機会です。そして徐福に繋がる死生観、思想へ一歩でも近寄ってみたいと挑戦します。

[158] 石板持って 姫路→山口 by : 木村正治 at : 2009/02/27(Fri) 13:51

今日の毎日新聞一面記事(全文)
 奈良時代・初確認
坂江渉・神戸大講師(人文学)らの研究チームは26日、小郡文化資料館(山口市)所蔵の文字を刻んだ石板が、右下がりの書風から、
奈良時代中期(8世紀中ごろ)の作だったと発表した。現在の兵庫県姫路市内の地名や、渡来系氏族の名前が記されていた。ひもを通すとみられる直径1センチの穴があり、持ち運び可能な実用品らしい。奈良時代の石板は墓碑など長さ1〜2メートルが大半で、持ち運びできる石板の確認は初という。約45年前に山口市の民家の敷地から見つかり、同資料館に保管されていた。長さ23センチ、幅は最大15,9センチ、厚さ3センチの将棋の駒のような形で、重さは2,7キロ。表に「餝磨郡因達郷秦益人石」、裏に「此石者人□□□□□石在」(□は判読不明)とあった。「餝磨郡因達郷・しかまぐんいだてごう」は現代の新在家にあたり、「秦益人」は人名とみられる。
 坂江講師らは、渡来系の豪族で灌漑技術を持っていた秦氏の関与した可能性を指摘。「山口での開発事業のため、秦氏らの集団が石板を持ちながら移動したのでは」と推測している。
 東野治之・奈良大教授(日本古代史)の話
これまでの石板の文字は墓碑などに限られ、実用的な使い方は極めて異例。実用品として金属や象牙に文字を刻んだ例があるが、今回のは、石の頑丈さが必要だったのだろう。別の加工品の所有者や制作者を表す札だった可能性もある。以上
 徐福から900年以上隔てているのではあるが、石刻漢字、秦氏、実用石札、山口〜姫路などの内容は極めて示唆的であるので載せました。とにかく徐福の痕跡を見つける上でのヒントにしたい。

[157] 神を感じてはいけないのです。 by : 岡本 at : 2009/02/26(Thu) 23:00

人間の開拓そのものが歴史です、開拓した跡を追ってみましょう、簡単に律令国家までの歴史が出てくるかもしれません。

[156] 風土記を読みましょう by : 岡本 at : 2009/02/26(Thu) 22:32

烽火は一処だそうです、それでも徐福さんから700年たっています、自分が徐福さんの環境に置かれなければ何にも見えません。悪政への反発ではないのですか?悪政への反発でも悪政が追討しにきたら抵抗せざるを得ません、自己防衛しつつ開拓しましょう。敵は秦の始皇帝です。そんな気持ちで住宅地図を見ましょう!

[155] 火と煙の譬え by : 木村正治 at : 2009/02/25(Wed) 11:05

 徐福にとっての伝承、伝説、神話、神社、進行形の町おこしは、最も卑近な譬えで言うと、火と煙の関係です。
 いわゆる「火の無い処に煙は立たない」の関係です。
 伝説等の煙は、日本や韓国の至る所、30ヶ所にも立ちのぼっているのですが、肝心の「火」そのものが見つかっていません。
 今のところ2200年前に、徐福とその一行が、確実に日本に上陸し、確実に何かをした、確実な考古学的な証拠、即ち、「火」に当たるものが確定されていません。火は炭として残っているのか、火炭の痕跡はないか、何処かに埋もれていないか、変形しているのか、皆さんが探されております。
 「火」に当たるものは、「徐福一行」の持ち込んだもの即ち、船とその技術、武器の類、五穀百工と技術、生活用具、貨幣、馬など家畜、宗教儀式と用具、身体と心、埋葬の仕方、古代思想、DNA等が考えられます。
 今まで探りだされたものは、吉野ヶ里遺跡や土井ヶ浜遺跡、熊野市の秦半両銭等かなりな数に上りますが、個別には近いと思われまても決定的ではありません。
 半両銭のように科学的鑑定をまたなければならないものもありますが、むしろ徐福に関するものの全ての総合化、組み立てから、徐福一行の「火」が見えてくるのではないかと感じています。

[154] 徐福さんは全国を5年かけて回ってくるといいました。 by : 岡本 at : 2009/02/23(Mon) 21:16

5年かけて帰ってきたらお辰さんは死んでいました。天童、海童という地名は全国にあります。佐賀の金立の近くに帯隈山というのがありその後ろに童男山というのが有ります。徐福さんは元々陰陽士ですよね?

BBS page navigation