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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[193] 富士山麓発見の金印(その後) by : maeda at : 2009/04/27(Mon) 10:49

 その後、この金印について調査した結果、羽田武栄著「真説徐福伝説」と、インターネット情報による富士山西麓住まいの橘高啓氏の説を組み合わせると、つぎのことが分かってきた。

 この「金印」は山中湖の長生村(徐福一族が住んでいた長寿村と言われている。現在は長池村になっている)の栗林遺跡の近くの畑を羽田正次氏が耕していて発見された。
 最初は「秦」と読まれて秦氏の印鑑と思われていたが、1991年に中国徐州博物館の李氏によって、中国三国志の時代の将軍の印鑑である事がわかった。読み方は「己大方」(みたいほう)と読み、三国時代の「呉」国の「黄巾軍」の大将の呼び名である 。
  三国志の記録によると呉の皇帝孫権は西暦230年に、徐福の子孫が住むという瀛(えい)州(富士北麓)に衞温と諸葛直に一万の兵を与え東海に繰り出し応援依頼に向かわせた。
 しかし二人は富士には行きつけず、夷州(台湾)から数千の住民を連れ帰っただけだった。肝心の富士にはいきつけなかったので、命令不履行で二人は殺された。
  徐福の子孫を連れ帰ってくるように、と言う事は徐福渡来から500年もたってからなので、これは日本に応援を頼んだと同じ事で、徐福はそれ程中国で重要な皇族だったと思われる。
 では何故呉国の大将が富士にいたのか。金印があるので間違いなく居たといえる。
 調べてみると、呉の時代の貴重な宝物が山梨からごっそりと出て来たという。
 山梨県八代町(八代とは神武天皇以降の八代天皇がいた所のため八代といわれている)の狐塚古墳からは呉の国の紀年鏡(西暦238年)の一枚が出土している。この古墳は3世紀頃の天皇の古墳(二重堀構造でこれは天皇の古墳しか採用されていない)と思われ、日本の天皇家と呉国とはただならぬ関係にあった。という事は徐福とは中国斉の国の国王だった可能性もあり、王族が日本に来ていたということになる。
 この金印がAD3世紀のものとなると、卑弥呼の時代と重なるので、その重要性に注目しなければならない。呉の将軍の印であることが公表されれば、今後、歴史学会でも大変注目されることになると思われる。

[192] 始皇帝の「金印」富士山で発見!!! by : 木村正治 at : 2009/04/26(Sun) 08:59

 店番をしながら、インターネットで徐福関連を見ていた。
先ず「宮下文書」から。
 前田豊さんの見解が多く惹かれている。
その後で、昭和49年9月24日の毎日新聞、「山梨県側の富士山麓の畑から、中国の大変古い印鑑が出土、その印鑑は「伝奇始皇帝の『金印』である」と。
 岩田さんという方の著書「秦野の伝説」の中で「からこさんと金印」としても取り上げられていることが出ていた。
 当時は冨士伝説と相まって大変な反響であったとある。
今この金印は何処にあるのでしょうか。その後どうなっているのでしょうか?教えてください。
 在位期間の短い始皇帝一族にあって、誰が日本に、しかも富士山麓に持ち込むことが出来たのでしょうか。確かな始皇帝の「金印」であることを中国に鑑定してもらえば、徐福渡来の、今のところ一番近道ではないでしょうか。

[191] 四神と仏教 by : 木村正治 at : 2009/04/23(Thu) 19:16

 4月22日付、朝日新聞に前回(190)の続きが出ている。
「四神は道教思想の影響という見方もあるが、弥生時代に竜だけを取り込んだはずの日本の人々が飛鳥時代に改めて大陸伝来の四神を受け入れたのは、仏教の役割が大きいと思われる。
 キトラなどとほぼ同時期の作である薬師寺金堂の薬師如来座像の台座には、四方に四神の浮き彫りがある。青竜と白虎の、細長く波打つような胴体は、二つの古墳壁画にも共通している」と。
 仏教の公式伝来は、538年とされるが、徐福が7年間、仏教を学んだと言うこと、薬師如来を持ち込んだとされることは、どう考えていったら良いか?

[190] 四神の渡来 竜が最初? by : 木村正治 at : 2009/04/21(Tue) 16:08

 舟葬に関連する「天翔ける船紀行」深野稔生著を、読み込んでいるところである。
 以前に「竜」について質問し、回答を頂いたことがある。それに関連する内容が4月18日の朝日に出ていたので引用、要約してみる。
 表題は「四神の渡来 竜が最初?」
中国生まれの青龍、白虎、朱雀、玄武の「四神」は、いつ日本列島に入ってきたのか。
 各地の弥生時代の遺跡で出土する鳥形木製品から当時、鳥への信仰が広がっていたといたとみられるが、朱雀との関係をうかがわせる資料はない。白虎や玄武と推定される遺物も見つかっていない。
 唯一、想像上の動物である竜は、弥生時代後期に伝来したようだ。〜岡山県倉敷市で出土した土製品は、中国的な竜の頭を立体的に再現しており、その姿形を詳しく知らなければ造れないものだった。「当時、竜の姿だけでなく、『水の神』という性格も日本に伝わっていた可能性が高い」〜この時期の遺跡から出土する後漢時代(25〜220年)の中国製鏡には、佐賀県・桜馬場遺跡の方格規矩鏡のように、四神すべてが描かれているものもある。〜
 具体的なものという形では弥生時代後期ではあるが、「水の神」といった思想的宗教的な考えは、それ以前と示唆されている。

[189] 変わる弥生像 by : 木村正治 at : 2009/04/12(Sun) 16:24

 朝日に歴博研究が出ていた。
   変わる弥生像
 加速器質量分析法を用いた放射性炭素年代測定で全国の土器を集中的に分析した結果として出ている。北九州へ水田稲作が伝わったのは紀元前950年、
 四国へは800年〜700年
 近畿地方へは600年
 名古屋、北陸までは500年
 日本海沿いに青森へ450、400、350年
 名古屋から東進の形跡が無く、関東は100年
 青森から300、200、と南下した可能性が高いと言う。
関東は独自の文化があり、陸稲が盛んで水田稲作を拒んでいたと。
 このことから水田稲作の進展だけをもって徐福の形跡を追うのは困難に見える。もちろん徐福以下の水田稲作の量的発展を考えねばならないが。
 誰か、この解決を教えてほしい。

[188] 弥生時代は紀元前1000年から by : 木村正治 at : 2009/04/10(Fri) 14:33

 大まかに言って、縄文人と弥生人の交差する点に、徐福が渡来した事になる筈である。
 そしてそこから、歴史文化の大きな変化をもたらした証拠が残っている筈なのである。
 ところが弥生時代が、土器の研究からも、紀元前1000年前まで遡ってしまった。
 当然、渡来したのは徐福だけではない幅が拡がっった。
よけいに死生観、舟葬、思想などを含めた証拠が、直ちに徐福に結びつかないところに難しさがある。
 しかし徐福が日本に来なかったという確実な証拠も無い訳で、
徐福渡来を信ずる者としては、その研究を志したかぎり、絶えず初心にかえりながら一歩一歩、押し進むしかない。
 舟葬と太陽祭祀は絡んでくる。
舟葬について先人が研究した本が見つかったので、今それを取り寄せているところである。

[187] 舟葬 アジアンルート by : 木村正治 at : 2009/04/08(Wed) 15:49

 名古屋と丹後の舟葬については既に記したが、
古代の尾張と丹後の関係が注目されるとあった。
 その他の舟葬についても記す。
熊本県山鹿市の弁慶ヶ穴古墳(6c後半)、円墳
 5頭の馬と人物、棺を積んだ船、ゴンドラ舟
福岡県大牟田市有明海側、潜塚古墳(5c)
 舟形石棺
〃   〃 萩ノ尾古墳
 大型船壁画
福岡県筑紫野市、五郎山古墳(6c後半)
 満天の星空を旅する天翔る霊舟上に棺
千葉県館山市、大寺山洞穴(5c古墳後期〜)
 杉の舟棺10基
三重県松阪市、宝塚1号古墳(5c初頭)
 国内最大の舟形埴輪
内陸の舟形木館、岐阜県(七廻り鏡塚古墳)、
        福島県(森北1号墳)神奈川県平塚市(塚越古墳)
北史の倭国伝に、日本の葬制について「置屍船上陸地牽之」
古代朝鮮南部に、舟型容器の後部で鳥の仮面をかぶった舵取りが、  大きな羽をもって死者の霊魂を飛揚せしめる
中国四川省に、2500年前の(春秋時代晩期〜戦国時代早期)墓跡か ら188mもの巨大な舟形木棺、丸太彫が17基出土。
 舟形木棺は四川省の巴蜀文化の特色であり、黄河文明と異なる
 謎の巨大文明、三星堆文明が発見されるとある。
舟葬の歴史をたどれば、日本の太平洋沿岸部から中国長江流域から 四川省まで、日本人の起源をたどることになるとある。

[186] 舟葬つづき by : 木村正治 at : 2009/04/08(Wed) 11:42

舟葬を少し詳しく調べた。
 古墳時代までの舟葬は形を変えて、精霊舟に引き継がれている。
舟葬のアジアンルートを探ることは、日本人の起源をたどることにつながるとされる。
 日本人の起源を俯瞰すると、
氷河期時代、北東アジア、東南アジアの大陸からきたいわゆる縄文人までの人々と、
 のちに中国長江下流域からや、朝鮮半島などから渡来したいわゆる弥生人との、
 共存、融合により、現日本人の祖先が誕生したとされる。

[185] 舟葬つづき by : 木村正治 at : 2009/04/06(Mon) 18:51

 名古屋市北区の日本最古の舟葬(153)は、死者を死後の世界に送る乗り物、弥生時代の死生観を知る貴重な発見とされる。
 身長は155?なのでいわゆる渡来系の人ではなく、縄文系の人物、それも集団の有力者と考えられている。 
 舟葬は古墳時代に終わったとされ、始まりについては、今のところ、名古屋の2000年前が最古だ。
 徐福まで200年である。
 言われるように「舟が現世とあの世を結ぶ交通手段」なのか、
死者の生前のなりわいや、渡来に関わってくるのかどうか。
 世界には太陽が舟で運ばれると考えた人々もいる。
ピラミッドは、王の魂を天に(太陽のもとへ)発射する装置とも言われるが、その前には45mの舟が埋まっていた。
 太陽と舟と鳥を描いた壁画もある。
人類は普遍的にそうした発想をしてきたのだろうか?
 やはり航海の経験がなければ、そうした発想は生まれてこないように、私には思える。
 伊勢湾から富士山を目指したといわれる徐福が何かを遺していないのだろうか?

[184] 頭骨(顔)の向きに観る心情、思想と徐福 by : 木村正治 at : 2009/04/04(Sat) 12:55

167等で死者の頭の方向を述べた。
 一般的な北枕は、釈迦の入滅に習うとされる。
 また中国思想の北極星を指向するともされる。
頭北面天は、南(天)を生、北(天)を死とする中国思想で説明できるが、釈迦の頭北面西はどうだろう。
 面西は太陽の沈む方向とされるが、頭北は聖なる山、ヒマラヤを指向しているのではと、私は推測する。
 里山や美山、高山岳を魂の住所、天空への発着場とする風習は日本や世界にも広く見られる。
 ちなみにピラミッドやオベリスク、墓石塔や高木も、その様である。
 私が此処で強調したいのは、釈迦の涅槃図に観られるように、顔の向きの方がより具体的に、強い意思や思想、宗教を表しているのではないか?ということである。
 2006年始皇帝陵で見た始皇帝の顔は、顔を起してまさしく東を睨んでいた。頭(体)の向きは西ではあったが。
 モンゴル古地図にある「長門 徐福祠」のそれと思われる、山口県「土居ヶ浜遺跡」の何百体の遺骨は、一様に足を西向け、わざわざ頭骨を立てて、顔を西向けている。誰しも、強い、凄まじいばかりの望郷の念を感じずにはいられない。
 名古屋の日本最古「舟葬」に観られる遺骨は、頭は東南でありながら、足の向きに刳り船の舳先があって、全体として太陽の沈む方向に進もうとする死者の儀礼、つまり死者が西北向きに立っていると意識されている。(つづく)

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