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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/
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[203]
銅鐸
by :
木村正治
at : 2009/05/26(Tue) 16:20
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銅製祭祀具、銅鐸、銅剣、銅鏡、銅鉾に注目する人がいる。
銅剣と銅鏡+勾玉で「三種の神器」、これを秦から徐福が持ち込んだと主張する人。
この中で銅鐸の使われ方が良く解らないと言う。
銅鐸の伝わり方は、九州、島根、丹後、近畿、参遠の順らしい。
元々は中国にあって、陶製のものから出発しているようだ。
参遠地方にあっては、高さ数十?から1m半ばまである。
中国にあっては戦いの合図の音に使われた説もある。
参遠にあっては権力の誇示、観賞用ともいう。
埋納の仕方から、これを魂の子宮とみる説もある。
舌があって音が出るような鐸は、シャーマンが瞑想のために使ったのではないか?
島根の数ある銅鐸の中に、また銅鉾にも、〆、×印が相当数ついている。これを研究されている人がいた。
佐賀徐福セミナー論文の中に、中国の数詞「五」の古文字、甲骨・金文字として出ていたので早速紹介させていただいた。
「二」は上下の天と地を表し、その陰陽、五元素(木火土金水)が交流する様を「×」表し、「五」の意味とされる。
前田豊さんは銅鐸と物部氏秦氏の相関関係を指摘している。
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[202]
あらゆるものが絡んでくる
by :
木村正治
at : 2009/05/25(Mon) 15:46
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前田豊さんの「消された古代東ヤマト」を読んでいる所です。
「天かける船紀行」と絡んでくる部分んもあって驚いています。
ユダヤ、エジプト、ギリシャ、メソポタミア、インド、中国、韓国、
そして神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教、中国古代思想、
そして徐福、卑弥呼、古代天皇、神農、神話の神々、
あらゆる国々、宗教思想、人物が絡んでくることにも驚いています。
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[201]
太陽の船
by :
木村正治
at : 2009/05/22(Fri) 18:19
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太陽の船、月の船が、神話にある。
天体、星々の移動が、船で為されているという発想である。
大河は大海に注ぐ。大海は大空と一体である。
太陽は、昼間、東から西に、船で移動する。
夜間、西から東に、船で移動する。
太古の人々はそう感じ取った。
太陽信仰は、生の向こう側の輝かしい世界に、自らも船で往きたい と願った。
太陽信仰は、太陽のようにまたあした、自らも船で戻ってくること を信じた。
航海は、太陽と船と共にあり、鳥と風と供にする。
舟葬は、あたらしい世界への、航海である。
太陽信仰の聖地、斉地から、徐福は、あたらしい思想をもたらしたのだろうか。、
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[200]
今でも棺は「船」
by :
木村正治
at : 2009/05/21(Thu) 11:04
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名古屋の舟葬は2000年前、年は取りたくないね。
著者は現代のお棺も含めて刳り船、石棺も全て船であること。
葬も祭も同じ出発点であることを明かしている。
船に遺体を入れて蓋をし、死者の魂が漏れないようにして、太陽などの目的地へ送り届ける。
そしてまた船で迎える。
今でもお棺の釘づけや荒縄で縛る風習は残っている。
死者の送迎も、神の送迎も同じとしている。
名古屋といい、丹後といい古く見つかっている舟形棺は、徐福の伝説と共にある。つづく
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[199]
舟葬とは
by :
木村正治
at : 2009/05/18(Mon) 11:00
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「天翔ける船紀行」をようやく読み終えた。
著者は舟葬に関して、考古学上の舟葬に異を唱えいる。
本来の舟葬は「遺体を船に載せて川や海に流す」であり、
舟形に載っていてもこれを埋めたり、
洞窟に入れているのは舟葬で無いとされる。
名古屋の1800年前の日本最古の舟葬といわれるものは、
葬法で言えば土葬ということになる。
著者は船の付く神社や山や、その祭祀のありかたから、
船が、死者や神の魂を送り、迎える際の果たす役割を、
日本の根源、果ては世界的な広がりの中で捉えられている。
つづく
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[198]
炭化米の比較にみる徐福の稲・和佐野論文
by :
木村正治
at : 2009/05/12(Tue) 14:18
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稲と土器の科学的分析の結果、弥生時代は紀元前1000年強に遡り、
日本列島の水田稲作の伝播年代と経路が明らかになったことと、徐福の関係を質問していたが、
灯台下闇しで、佐賀・徐福シンポジュゥムに解答が出ていた。
佐賀大学名誉教授・和佐野喜久生氏の論文「徐福と弥生の稲作」である。
吉野ヶ里の炭化米と中国、韓国の炭化米を比較している。
稲作の起源が長江下流にあり、徐福村近くの江蘇省北部東海県の焦庄遺跡の炭化米(BC1000)が進化して、佐賀に伝わったことを示しています。
但し徐福一行によるとみられる伝播の地域は極めて限られている。
瀬戸内海ルートは関門を通って姫路あたりまで、
太平洋ルートは佐賀から九州南端を経由して紀伊半島南端、伊勢湾周辺まで、
日本海ルートは北陸、青森までを示して広がりはない。
範囲は狭いが着実に徐福伝説の色濃い処に及んでいる。
そして「変わる弥生像」、最初に示したルートとも矛盾しない。
この論文は、徐福が持ち込んだ稲作を証明するに十分なものである。
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[197]
キトラの青竜、白虎 一般公開
by :
木村正治
at : 2009/05/09(Sat) 10:38
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読売新聞によれば、キトラの青竜と白虎は共に右向きであって、他の朱雀や玄武も右向きであると言う。
方角で言うと青竜は南を向き、白虎は北を向いている。
中国の墓誌にみられる四神、51例の内、青竜と白虎が同じ向きなのは8例だけ。
主流は左右互い違いで、いずれも南を向いている。四神の基になった星座群の位置が関係していると言う。
時代の古い銅鏡に描かれたものには、同じ向きの例がある。
銅鏡の銘文には「四神が邪気をはらい、陰陽や時間の動きを整える」という趣旨が刻まれていると言う。
いずれにしても、被葬者を守り、その魂の行き先を導き、再生を司るものであろう。
竜はすでに1万年前から現れている。
巨大な鰐や蛇への畏敬や、太古の恐竜の記憶が混合し、想像上の竜のモチーフに成ったものと思う。
恐竜の遺伝子は、鳥のそれに近いと言う。
そうした竜は、他の動物と共に、古代中国思想、道教、五行、12支、陰陽道などに取り込まれたのであろう。
徐福の時代には既に完成していたのであるから、徐福とその一行が、この思想を持ち込み、利用していない筈はない。
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[196]
「徐福の宝物」は何処へ
by :
木村正治
at : 2009/05/05(Tue) 20:55
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鳥居さんの玉竜のページは2008年「遼寧省・査海遺跡」です。失礼しました。
「徐福の宝物」は何だったのか?
三千人が2、3十年が暮らせる食糧家畜、五穀百工以外のもので、不老不死の薬と交換しうる当時の財宝と言えるものは何か?
古来、仏典にもある「金、銀、瑠璃、玻璃、シャコ、珊瑚、瑪瑙、真珠、マイ瑰」のどれか、そして砂金、銅、鉄、絹、これらの製品、農具、鏡、刀、銅鐸、貨幣、仏像類、竜玉類など、巨万の珍宝、千駄とも宝船とも言われる大量のもの。
これらは「樹海に眠る徐福の埋蔵金」とか、一部は見つかっているとか言われ、西紀800年の富士山噴火の際、持ち出し得たもの、埋ってしまったものなどに分かれるようです。
つまりは確実に、徐福が日本へ、富士へ来たことを前提にしています。
詳しくは「徐福の宝物」を検索する中に、前田豊さんの「古代神都、東三河」を見て頂きたい。
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[195]
竜は「徐福の宝物」
by :
木村正治
at : 2009/05/04(Mon) 14:49
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竜や四神に拘る理由は二つあります。
一つは竜玉のような徐福の宝物です。
二つは潮岬遺跡に関わる思想の問題です。
朝日新聞、4月23日「竜虎 墓守り6千年」を引用、要約します。
「源流の地」とみられる中国では、約6千年前(新石器時代)にはすでに、竜虎と思われる動物が登場していた。
河南省の西水坡遺跡。貝殻をびっしり並べて造形した竜虎図像が被葬者を守っている前例のない墓地である。
〜キトラ、高松塚両壁画の竜虎の配置と同じ方位。
竜の造形はもっとさかのぼる。
約8千年前とされる遼寧省・査海遺跡には、茶褐色小石でかたどった長さ約20mの首をもたげた竜が表現されていた。
「中国では7、8千年前には竜を特別なものと意義づけていた」「古くから竜を重視し、何らかの象徴としていた」。
特に古代中国で信仰にかかわりが深い玉製品にも竜が表されている点に注目する。
約5千年前の安徽省の「玉竜」や夏の宮殿跡、河南省の「玉杖」がその例だ。
玉杖は青緑色のトルコ石を並べて竜を表現し、権威の誇示に使ったとされる遺品である。
竜のモデルは何か。「水と縁につながる伝承が多いから、長江にいた大型のワニだろうか。それとも蛇か」
そのルーツは専門家にとっても謎に包まれたままだ。
夏の後の殷時代につくられた青銅器には、盛んに竜の姿が浮き彫りにされるようになった。
占いに使われた甲骨文字にも、角をつけた竜が登場する。
こうしてシンボル化された竜は、中国史でさらに躍動し始める。
西水坡遺跡の「竜」や玉竜については、
鳥居貞義さんのページに良い写真が載っています。(鳥居貞義で検索)
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[194]
金印+呉の紀年鏡
by :
木村正治
at : 2009/04/27(Mon) 20:11
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前田 豊さん 大変に貴重な情報を頂きまして本当に有難うございました。
金印が始皇帝のものではなかったのは少し残念ですが、
しかし、金印+呉の紀年鏡が三国志の記録とともに、
具体的に徐福の一族を連れて帰るよう、呉王の命令の結果として、 富士山西麓に残ったと言う事は真に重大な要素ですね。
ますます徐福が日本、富士山に来たという確信は強く深まります。