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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[215] 弥生時代に入った思想・宗教―茶臼山古墳 by : 木村正治 at : 2009/06/24(Wed) 11:07

 6月13日各紙。奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳で見つかった丸太垣の痕跡からは、
 約1700年前の巨大な古墳上に異例の構造物が復元でき、研究者の間に驚きが広がった。
 厳重な柵を設けることによって、
 「聖なる空間」を演出しようとする意識は、
 古代の宗教観を表してるとの指摘も出ている。
 古墳のイメージを根底から変えるような発見だ」
「屋根があってもおかしくない」
「建物の中で亡くなった人が生きている、という発想だ。
 弥生時代にはそのような思想が日本に入っていたと考えていたが 本当に出てくるとは」
「古墳がどいう意図で造られたかを思想的、宗教的に迫る材料になる」以上引用。
 特に弥生時代に入った思想、宗教という点に注目したい。

[213] 「月刊ムー」7月号を読んで by : 木村正治 at : 2009/06/20(Sat) 13:30

 田舎町にも一冊の「月刊ムー」がありました。
「消された古代東ヤマト」、「天翔ける船紀行」、
 月刊ムー「封印された物部神道 秦始皇帝とユダヤの秘義ー唯一絶対神の信仰を古代日本に持ち込んだ徐福の謎」
 の底流にあるものは同じという印象を持ちました。
世界的な広がりの中で徐福を理解するのは私には大き過ぎますが挑戦します。

[212] 「月刊ムー」7月号 by : 木村正治 at : 2009/06/16(Tue) 11:55

前田豊さん、いつもいろいろと有難うございます。
 早速、「月刊ムー」7月号を取り寄せてみます。

[211] 徐福と物部氏の関係 by : maeda at : 2009/06/14(Sun) 13:52

「月刊ムー」の7月号に、ついに日本の神道の由来が開かされました。
 総力特集「封印された物部神道 秦始皇帝とユダヤの秘義ー唯一絶対神の信仰を古代日本に持ち込んだ徐福の謎」

 これは飛鳥昭雄さんの、まれにみる日本の秘史解明の総合的論文です。ぜひお読みください。

 2009年1月のヤタガラスと飛鳥さんの会見で、物部氏の正体に関する重大な秘密が告げられます。
 ヤタガラスといわれる老紳士が語った言葉は
「物部氏は徐福とともに来たり!!」
 ということでした。

 物部集団は、徐福一行から生まれた集団です。その呪文は死人をも生き返らせるというのは、不老不死の霊薬を求めた徐福一行だからこそ可能だったのでしょう。
 それも、遡れば古代イスラエルの失われた10部族と繋がってくるのです。
 いよいよ日本の歴史の真実が明かされる時代になりました。
 東三河、富士山麓、相模には徐福伝承が明らかにのこっています。
 東三河は、物部の祖神ニギハヤヒ尊をまつる、物部王国でした。

 木村様、小生の説をよく案内して頂き、ありがとうございます。恐縮です。
 しかし、徐福一行のことは、そろそろ、日本の古代史の主流に出てくると思われます。

[210] 不老不死の「帛画」 by : 木村正治 at : 2009/06/13(Sat) 11:11

5月27日付。朝日新聞から。
 「キトラの天文図・世界遺産級」。
 飛鳥時代に本格的な古代国家が形成され、
 政治の仕組みや宗教に大きな転換期があったことが、
 キトラと高松塚の両古墳から分る。
 中国・山東省の金雀山9号墓(前漢時代)で見つかった帛画という布だ。
 不老不死を願う神仙思想の絵が描かれ、太陽と月図から「天界の象徴として太陽と月が描かれる」という。
 こうした思想が本格的に日本に入ったのが飛鳥時代。
 象徴が藤原宮跡出土の正月儀式用の旗「幢幡」柱穴跡だ。
 三本足のカラスの幢(旗)を立てて、左右に日月像や四神の旗を配置した。
 「中国から伝わった道教的宇宙観に守られた中央集権的な国家の成立を宣言するもの」以上引用。
 天皇家の正装にもそのまま表されている。
注目すべきは前漢時代の「帛画」、徐福の時代と交差する時点にこうした思想が完成されていた。
 高松塚、キトラの製作者は渡来系の「黄文連本実」とされるが、
 思想を受け入れる下地が既にあったとも考えられる。

[209] 「徐福」映画上映・・串本 by : 木村正治 at : 2009/06/10(Wed) 09:38

徐福映画 日中韓合作のニュースを早速、インターネットでも検索しました。
 14億円の費用を掛けて有名スターも登場するとか。
 来年10月〜串本町において「徐福」映画(岡本明久監督)を上映したいと構想しています。
 これは「潮岬遺跡太陽祭祀場」の提唱者・北岡賢二の13回忌を記念しての行事とします。
 日中韓合作ということでより注目されるのではないかと期待します。

[208] 銅鐸、銅鉾の×印 by : 木村正治 at : 2009/06/06(Sat) 17:25

203に銅鐸と銅鉾の「×」印について書いたが、
 ある意味、日本最初の漢字である可能性もでてくる。
 これ自体、古字の漢数「五」を表すようである。
 何故、この印しを付けたのか考えると次の答えが浮かんできた。
 天と地を表す「二」を省くと、陽と陰、五元の交流のみ残る。
 そこで、「×」は交流を祈ること、例えばキリスト教の十字を切る祈りの様に、祈ることを意味する、
 つまり祭祀に銅鐸、銅鉾が使われた事を表していると考えられないだろうか?

[206] 潮岬・伊勢・恵那・諏訪ライン by : 木村正治 at : 2009/06/02(Tue) 12:01

潮岬「夏至太陽祭祀場」と伊勢神宮を結ぶ延長線上に、恵那神社、
 諏訪神社(諏訪湖)が存在する。
 こうした位置の決定は古代、三角法測量が存在し可能であったようだ。
 船(海)から見た山など定点の測量法、太陽を定点に入れた方法があったようだ。
 この線上の三河、遠江周辺に消された東ヤマトが展開されている。
潮岬「夏至太陽祭祀場」・潮御崎神社(主祭神・少彦名)と諏訪神社(建御名方)と出雲大社(大国主)を結ぶ大三角形、
 三者協力して国造りをしたと言う神話と古代の大略が収まる。

[205] 卑弥呼と太陽祭祀 by : 木村正治 at : 2009/06/01(Mon) 16:53

5月31日 箸墓古墳の年代特定が正式に学会で発表なった。
 卑弥呼自身が生前に古墳の築造に取り掛かり、死後完成されたと言う説である。
 異論もあったようですんなりとはいかない。
 卑弥呼の終焉地とされる岐阜県中津川市の恵那神社には天照大神が祀られてる。
 紀伊半島の北緯34°32′「太陽の道」と東経135°48′「聖なるライン」の交差する所に、箸墓古墳が存在する。
 二つのラインが構成する正三角形の頂点に、潮岬・高塚の森遺跡「夏至太陽祭祀場」が存在し、天照大神の誕生地とみられている。
 ここに箸墓の卑弥呼が介在してくると、より信憑性が増してくるし、古代中国の太陽祭祀が伝えられたことになる。

[204] 箸墓古墳「240〜260」卑弥呼と合致 by : 木村正治 at : 2009/05/30(Sat) 16:42

5月29日付、各紙の新聞を見て誰もが驚いたであろう。
 箸墓古墳の年代が「AD240〜260」と特定された事である。
                朝日の記事を要約します。
 「卑弥呼の死亡期 合致」
 邪馬台国の女王・卑弥呼を葬ったとの説がある、
奈良県桜井市の箸墓古墳が築造されたのは、
西暦240〜260年ごろとする研究成果を、
 国立歴史民俗博物館がまとめた。
 放射性炭素による年代測定法に独自のデータによって補正を加えた結果で、
 中国の史書「魏志倭人伝」記述から、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と合致する。
 放射性炭素年代測定は、測定ごとに数十年の誤差が生じるため、
 同博物館は全国の3千点を超す土器について、
 付着した穀物などの炭化物で年代を測定。
同古墳が築造された時期の層から出土した「布留0式」土器の年代を240〜260年に絞り込んだ。
 卑弥呼は250年ごろに没し、「径百余歩」(直径約144m)の塚に葬られた、とされている。
 このため、後円部の直径が約150mの箸墓古墳を卑弥呼の墓とみる説は古くからあった。以上引用要約。
 同博物館は5年間の研究成果に自信を持っていると言う。
 邪馬台国・卑弥呼の九州説、畿内説、九州から畿内移動説に大きな影響をあたえることは間違いない。
 箸墓古墳が卑弥呼のものであることになると、「潮岬遺跡」の内容も多少変わってくる。つまり「潮岬・高塚の森・太陽祭祀場」が、卑弥呼によって築造された可能性が出てくる。
 そして前田豊氏の「消された古代東ヤマト」が俄然、真実性を増してくる。つづく

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