_HD_SKIP_CONTENTS

_HD_BREADCRUMBS

TOP  >  BBS

BBS

10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

Name
E-Mail
TITLE
Message
Related URL

[251] 最古級世界古地図の復元 by : 木村正治 at : 2009/11/24(Tue) 12:30

 今の時点では、徐福について、断定したり、否定したりすべきではないと、私は思います。徐福に関わる人々は、あらゆる可能性を探るべきでしょう。
 判断は後世に委ねなければなりません。
ところで21年11月22日の朝日に、最古級世界地図「混一彊理歴代国都之図」を龍谷大学が復元、消えていた地名や色彩が蘇ったとあります。
 この古地図は九州を上に描かれたため「魏志倭人伝」の行程通りに南へ進むと大和に至るとして、「邪馬台国畿内説」の論拠の一つとされたこともある。とあり興味深かったです。

[250] 徐福の行動の背景 by : 高木豊博 at : 2009/11/23(Mon) 20:08

紀元前210年始皇帝は、最後の巡幸として会稽から揚子江を渡り、轀輬車(おんりょうしゃ)に乗り北上し山東半島の琅邪(ろうや)からさらに北中国に入ったところの沙丘(さきゅう)という地で病を得て亡くなります。しかし徐福はまさにぎりぎりのタイミングで振男女三千人を引き連れて東の海に舟出することができました。秦の始皇帝がもしその船出の前に亡くなっていれば、不老不死の薬を得るとする徐福の船出はなかったでしょう。
秦の国は、この後宦官の趙高の陰謀で始皇帝の遺志に反して胡亥(こがい)が二世皇帝に就任し、その後三世が継いだ直後秦がほろび、漢帝国がスタートします。しかしこの時代の中国で起こった時代背景については、徐福との関連についてなかなか論じられることがありませんので、少し述べたいと思います。

 徐福がいた時代には、当然ですが後の漢の時代を開く様々な人々が、その社会で活躍を始めていました。始皇帝の数回の巡幸で轀輬車の窓を開けて民衆に見せた顔をこれらの人々が見ていて、それぞれの感想を述べたことが記録に残っています。
 項羽は会稽で始皇帝を見たとき、「彼にとって代わるべきなり」と叫び、この項羽と競い漢帝国を築いた劉邦は咸陽の都で土木の労役に従事していた時に見ることができ、「まさに此(かく)の如くあるべきなり」とつぶやいたと記録されています。このことが時代を大きく動かしていきます。項羽は前232年生まれで、劉邦は前252年(または前247年)生まれであり、また秦の国が滅び始めるきっかけの陳勝・呉広の乱を起こした陳勝はおそらく前240年頃の生まれだったのでしよう。この革命の時代を作ったこれらの人々はまさに徐福と同じ時代に息をしていました。

 秦の始皇帝が天下を統一する前、その東にある韓、魏、趙、楚、斉、燕などの国々は秦と対抗するため国中の若者や壮年をことごとく召集し戦士として戦わせましたが、大多数の兵士が帰らぬ人となりました。民衆の中に絶望が生まれ、中国が秦帝国に統一されたあとも深い悲しみが国全体を支配して行きます。秦の時代に入れば戦はほぼないものの、今度は、全国に張り巡らされた道路工事、咸陽宮殿を代表とする宮殿群、匈奴への備えのための長城、霊渠のような運河工事などに駆り出され、民衆のあきらめと不満は徐々に高まって行きます。若者に未来がなくなったのです。

 そのため始皇帝の崩御とともに民衆の反乱が各地に起こり、この反乱が秦を滅ぼすこととなります。まず前209年に工事に駆り出す人夫を護送していた兵士の陳勝が、途中の道が大雨で流されるかして期日に間に合わないため、その処罰を恐れて仲間の呉広とともに反乱を起こします。この時陳勝は「王候将相いずくんぞ種あらんや」(王や高位高官はもともとから決められていたものではなく、誰でもそれになれるものだ)という名言を吐いたと伝えられています。
 陳勝の反乱軍は瞬く間に巨大な勢力をなし、旧楚の首都陳城を占領することが出来ましたがこれは民衆の不満がいかに大きかったかを示しています。この反乱に呼応し各地で地方の軍や民衆が反乱を起こしますが、その中に項羽や劉邦も入っていました。丁度徐福が船出した後10戸のうち6戸が反乱の気を持ったというのはこのことでしょう。
陳勝は、即位し王となり、国号を張楚とします。そしていよいよ秦を滅ぼすため咸陽に向けて各地で徴兵しながら進み函谷関を破ったまでは良かったのですが、この後秦の章邯(しょうかん)将軍の軍に敗れ、次第に勢力がバラバラになり、最後には自分の御者に殺されてしまうことになります。
 バラバラになった際、趙を平定した配下の武臣はそこで王を称し、彼の配下であり彼が命じて燕を平定させた韓広は、武臣をまね燕で王となります。また魏では旧斉の王族田儋が旧魏での王族を擁立して魏王としたり、項羽の叔父項梁が楚の旧王家の末裔を探し王につけて楚王にするなど各地で王が乱立するようになりました。

 項羽は、叔父の項梁とともに会稽郡役所に乗り込み、会稽郡守になったのをきっかけにして時代に登場してきます。自分が擁立した楚王が秦の章邯の奇襲により戦死したのをきっかけに、秦を滅ぼすことに全力を傾注します。向かう所敵なしという状態で鉅鹿の地で章邯を破り、大いに気を吐きます。しかし秦の都の咸陽に先に入っていた劉邦が功績を先取りしたと怒り、これを殺そうと酒宴に招くが、項羽の伯父項伯の機転で劉邦は一命を取りとめます。これが有名な鴻門の会です。
 その後劉邦と項羽は死闘をつづけますが、常に劉邦が破られて僻地へ逃げ込みまた息を吹き返し再三死闘を繰り返すパターンが続きます。この劉邦のねばりには驚かされます。最後には項羽は劉邦のだまし討ちにあい、核下に追い詰められることとなります(前203年)。ここでの籠城戦において、城外から聞こえる項羽の故郷の楚の歌がどこからも聞こえてきたために、項羽は「漢は皆すでに楚を得たるか。是なんぞ楚人の多きや」と嘆いたことが四面楚歌という言葉として残っています。
 またこの時愛人虞美人に送った詩が、有名な核下の歌です。
「力は山を抜き、気は世を蓋う。時利あらず。騅(すい)逝かず、騅の逝かざるを奈何とすべき。虞や、虞や、若(なんじ)を奈何せん」
 その後逃亡中に自らの首をはねることとなります。

 劉邦は、江蘇省徐州の豊県中陽里という所で生まれます。縁あって亭長(警察の分署長)になりますが、本来は放蕩人でありいろいろな人を困らせていたようです。しかし、何故か人望だけはあったようです。劉邦も陳勝と同じように、人夫を引き連れて咸陽に向かいますが、秦の過酷な労働状態をしっている人夫が逃亡したため、本人も責任を取らされることを恐れ、沼沢に隠れます。しかし前209年陳勝が反乱を起こした時、県令に押され沛公と呼ばれるようになっていて。この反乱に呼応するため故郷の人々を集め、秦の国に挑戦を始めます。まず故郷の豊などを占拠し勢力を拡大します。その後項羽の叔父の項梁の軍に参加し、項羽とともに秦と戦います。そして項羽より先に咸陽に入ったことで、鴻門の会となる訳です。
 項羽を滅ぼした劉邦は、前202年皆に押されて皇帝に即位し、国名を漢とします。この漢という名前は、以前項羽に敗れ逃げ込んだ漢中という小さな地方の名前を大事にして付けたものです。小さな地方の名前が中国全体を代表する名前になった稀有な例です。この漢中は長江の支流で湖北省の武江にそそぐ漢江の上流に位置しています。

 ここで思うのは、これらの中国の大きな変化が徐福が船出した前210年から前202年までのわずか8年間で起こっていることです。徐福が日本に着き、国土を切り開いていたまさにその時、同じことが中国本土でも起こっていた訳です。この時代の息吹は当然徐福も浴びていたと思われます。その表れが次のようなものに現れています。

(1)秦の時代戦はほぼ亡くなっていましたが、大変な土木や建築工事に各地の人々が駆り出され、過酷な労働と、働き手を取られ食料にも事欠くような時代がいつまでも続き、青年に未来がなく民衆に不満が鬱積していました。徐福が船出した後は、これに戦乱に伴い当時の軍隊が現地調達を基本としているため戦場周辺のみではなく、行軍の途中の地域も食料が略奪され、国中が飢餓に陥ってしまいました。徐福の船出した時にはまだ戦乱はなかったのですが、子供を安全な場所に避難させることに親が同意し易い環境が出来ており、振男女三千人の結成が可能だったと思われます。

(2)徐福の本名は徐市(じょふつ)といいます。『常陸風土記』にある「古老がいうことには、天地のつくりはじめ、草木がものをよく言うことができたとき、天より降って来た神、お名前を普都(ふつ)大神と申す神が、葦原中津之国を巡り歩いて、山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた。」とあり、この普都大神が、名前からして徐福のことと思われます。中国から来ていきなり武力を振るい、現地の倭人を弩という武器を使い支配していったと思われます。徐福は平原広沢を得て、王となり中国には帰って来なかったと云われていますが、この時代は中国本土では混乱に生じてあらゆる所で王と称するものが誕生していました。この気分を引き継いでいたと思われます。
 徐福が率いたのは巨大な船団であり、中国本土との連絡方法は確立していたと思われ、本土の知らせで自分の行動を決定したため、本土に帰る必要がないとの判断もできたのでしょう。秦の報復の心配が、陳勝・呉広の反乱で実質船出の1年後でなくなったためです。

[249] 地表に線を引くのは無理です by : 高木豊博 at : 2009/11/23(Mon) 18:50

木村さん

前も言いましたが、地上に長距離の線を引くのは正確な時計も測量技術もない当時の技術ではまったく有り得ないことです。太陽の道などというものは幻想であり、妄想です。早くその考えを捨てられることを勧めます。まして徐福とは何の関係もありません。

[248] 世界不思議発見に登場 by : 木村正治 at : 2009/11/23(Mon) 11:40

11月21日 世界不思議発見で取り上げられた「纏向遺跡・卑弥呼の宮殿」の太陽祭祀。
 AD247年と248年に、二年続けて起こった太陽の異変は、歴史的科学的に裏付けされたものであった。太陽が三日月状に沈み、昇った状況で、卑弥呼の権威は失墜し、衰弱して死んだか、殺されたかの可能性がある。その後継者として台与が登場したと推していた。
 神話や御神楽などの天岩屋戸開の神事は、この時の事変を表したものとしていた。
 潮岬の「夏至太陽祭祀場」は、北岡賢二によれば、この後、崇神天皇による、より権威の高い新たな太陽祭祀の構築、南北軸の構築に築造されたものと言える。

[247] 東西軸と南北軸の交差点、纏向 by : 木村正治 at : 2009/11/20(Fri) 16:18

「太陽の道」(北緯34°32′)と「聖なるライン」(東経135°48′)が直角に交差する場所こそ纏向遺跡遺跡である。そこには纏向型前方後円墳が幾つか存在し、初期型前方後円墳とされる。その中で最初のものが纏向石塚古墳と呼ばれている。その東西線上(34°32′)東側に今回の発見があった。
 そこは政治の中枢域のみでなく、宗教的中枢域でもあった。そして東西軸から南北軸への転換の場所でもある。
 東西軸は日の出の太陽と沈む太陽を結ぶ線である。夏至や冬至、春秋分の太陽も絡んでくる。付近の神社や古墳がそれを示している。
 この場所は、聖なる空間として、四方を人口の堀で囲まれ、瑞籠(水垣)と呼ばれ、大市とも呼ばれていた。
 南北軸は北極星をバックに、自らを地上の北極星として、南中の太陽を仰ぐ、天子南面の構図が描かれる。そして四神や12支が配置される。高松塚やキトラ古墳の壁画が示すとおりである。

[246] 245文中の訂正 by : 木村正治 at : 2009/11/18(Wed) 15:23

245文中の訂正、統計は東経、AD447はAD477、円墳を太陽祭祀場は 円墳を太陽祭祀の祭壇です。
 なお、始皇帝も東西線に法り、顔は東を凝視しておりました。

[245] NHK特番テレビ by : 木村正治 at : 2009/11/17(Tue) 12:42

箸墓等古墳、三輪山、三輪神社、崇神天皇陵を含む纏向遺跡は、当に「太陽の道」北緯34度32分の東西線に位置しています。後に統計135度48分にも係わってきますが、それはさて置いて纏向石塚古墳の円墳を太陽祭祀場に定め、その東の延長線上、「太陽の道」に一連の建物、そして卑弥呼の宮殿(日本一の規模)があり、太陽祭祀が行われていたことは真に重要です。そして周辺から出土した土器は日本中から集められたもののようで、NHKテレビの特番報道によると、この場所は宗教思想と政治の中心地であることを示している。また魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述がぴったりすると述べられていました。
 そうなると「太陽の道」の起源は、今までのところ佐藤忍の伊勢神宮研究から導かれ確認されたAD447を遡り、卑弥呼の時代200年〜250年になる。もし卑弥呼が作ったものでなく、すでに存在した43度32分ラインを利用したと考えれば、起源はさらに遡る。
 太陽の昇沈ラインを利用した太陽祭祀は、全く日本古来からの独自発生のものであり、のちの天子南面的中国思想のみを中国渡来のものと考えるのは、少し無理があるように思える。
 何故なら徐福の時代以前から「斉」の国、山東半島には、れっきとした太陽祭祀があったからである。
 「太陽の道」を設定し、太陽祭祀の統一、国家の統一と云った
大局的な設計は、誰にでも出来るものではない。よほど優れた指導者、思想の持ち主がいたはずである。
 私はそこに徐福の登場を考えたいのである。
太陽の道のような東西線は、太陽と周髀や天日鉾を使って設定できることは幾つかの文献に出ている。

[244] 東風吹かば においおこせよ 蘭の君 by : 木村正冶 at : 2009/11/16(Mon) 16:27

東風吹かば においおこせよ 蘭の君 ・ ・ ・
 若かりし頃に 君子蘭のような今の女房に送った ラブレターが想い出されます。その女房も今は 梅干し婆々になってしまいました。
 高木さんの久方ぶりの登場に 嬉しくなって閉じた貝を開きました。二ヶ月間 まったく投稿がはねられ続けましたので しばらく貝を閉じていました。
 いつどやは徐福の地図を送っていただき 有難うございました。
原本を買って読ませていただきました。
 梅と徐福を興味深く拝見しました。
ところで11月10日配信の「纏向遺跡の卑弥呼の宮殿」を見られたことと思います。
 それについて私見を述べます。
徐福東征、神武東征、卑弥呼東征を信ずるものですが、「まほろばの歌がきこえる」の中で、西部警察俳優の苅谷俊介氏が予言した宮殿跡の発見は「まぼろしの邪馬台国」以来の大きな波紋を呼んでいて、私も興味をそそられます。氏は「百パーセント卑弥呼の宮殿ー大感激」とまで言っております。
 解説をみると、国内最初の前方後円墳とされる纏向石塚古墳の後円部が、太陽祭祀の祭壇と推定、そこから東へ延びるラインを中心軸として予想した宮殿域は、桜井市教委が今回発表した範囲と位置、大きさともほぼ一致、飛鳥時代以降に登場する宮殿は、南北軸が基本であるが、纏向石塚宮殿は東西軸を基にしている。南北軸は中国思想であるが、東西軸は日本古来のものとある。つづく
 

[243] ありがとうございます by : 逵 志保 at : 2009/11/14(Sat) 23:44

御忠告、ありがとうございます。
熱意がないと言われたらそれまでですね。

徐福文献につきましては、拙著に掲載しました徐福文献一覧をHさんが一つ一つかなりの時間をかけて入力してくださったところです。その後の部分はこれからになりますので気長にお待ちください。高木さんのようにこの資料!と言われるものはご教示いただけると幸いです。実はその量もすでに膨大です。

このページは人の研究姿勢を批判する場ではありません。
どうぞご自身の研究の話をなさってください。
そのほうがずっと読んで楽しいですから。

[242] 徐福と梅 by : 高木豊博 at : 2009/11/14(Sat) 18:31

逵志保さんへ

 近頃は、掲示板に投稿される方がまったくなく、まったく寂しい状態になっています。これは申し訳ないですが、志保さん自身が徐福がいたことを信じていず、そのため伝説や伝承のみにこだわり、そこから出ることがないためだと思います。投稿者は敏感のそのことを感じます。資料編をみても、以前紹介した徐福のいたことを示す日本を描いた中国最古の地図である『広輿彊理図(こうよきょうりず)、水東日記の巻十七』(米国国会図書館蔵、大倉集古館蔵)あるいは『声教広被図』(国立公文書館所蔵)についてはまったく載せられていないことも、その熱意のなさを表しています。現在の徐福研究の第1級資料です。

 その志保さんにエールを送る意味で、小論文を投稿します。掲示板を賑わせていただくために、徐福本人についての研究を進められることを切に願います。最後の歌の「春」は志保さんの「初心」と取ってください。

徐福と梅

 梅は、早い春を告げる白や桃色の花をつけ、何とも言えない香りをはなつため、私たち日本人がこよなく愛する花木です。面白いことに、この梅は日本に昔から自生している花木ではなく、原産地は中国の四川省や湖北省と現在は考えられています。梅は、バラ科サクラ属の落葉高木です。梅の実は杏子の近縁種であり、野梅は小柄でしたが改良を重ね(杏との交雑)により大型化して現在の食卓に上がる豊後系となりましたが、他に紅梅系があります。この梅の実でも、我々日本人には欠かすことの出来ない花木です。

 この梅は実は徐福ともつながりがありそうです。梅が中国の書物に記載されたのは、孔子が編んだ最古の詩集である『詩経』に「標有梅」とあるのが最初です。この『詩経』は紀元前11世紀から7世紀にかけての500年間の詩を集めたもので、女性が男性に梅の実を投げて愛情を表現した歌です。

 投げる梅の実/その実は七つ/あなたわたしが欲しいなら/良いお日柄をはずさずに
 投げる梅の実/その実は三つ/あなたわたしが欲しいなら/今この時をはずさずに
 投げる梅の実/もうないわ/あなたわたしが欲しいなら/今すぐ言葉をおかけなさい

 古代中国では、梅が熟して落ちることに例えて、婚期の遅れた女性が男性に梅の実を投げる風習が出来ましたが、このことは求婚を意味していました。これが徐福と関係があると思われるのは、日本での梅の遺物の出土状況からです。現在梅の遺物が見つかっている個所を列記すると下記のようになります。(月向雅彦氏より)

  弥生時代前期 山口県平生町 岩田遺跡(モモとともに)
  弥生時代前期 大阪府八尾市 亀井遺跡(梅の自然木の断片)
  弥生時代前期 山口県綾木郷 台地遺跡
  弥生時代中期 山口県熊毛町 岡山遺跡
  弥生時代中期 京都府綾部市 青野遺跡
  弥生時代後期 奈良県榛原市 高塚遺跡(モモ・クリと共に)
  弥生時代後期 東京都板橋区 前川泥炭層(梅の破片2個)
  古墳時代前期 山口県平生町 吹越遺跡
  古墳時代前期 奈良県桜井市 大西遺跡
  古墳時代前期 愛知県豊田市 伊布遺跡
  古墳時代前期 石川県加賀市 猫橋遺跡

 縄文時代には梅の遺跡は見つかっていませんので、梅が日本に渡って来たのは弥生時代前期となります。またここが重要なのですが、梅が渡来した地点が明らかに山口県であり、そこから全国に広がっていったことが伺えるということです。山口県には徐福が上陸した土井ヶ浜遺跡があり、このことは徐福が持ち込んだ可能性が非常に高いことを示しています。

 私は、振男女三千人が山東半島を出発するに際して、彼らの親たちが落ち着いた先で恋愛をし子孫が繁栄することを願い、梅の苗木を託したのではないかと思います。あるいは中国のことを忘れないで欲しいとの願いもあったでしょう。梅の古字が母を意味する「某」や「楳」であり、子授けの神「禖」ともなっていることは、「母の木」として子供たちに親を忘れないように伝えたかったとも考えられます。

 梅を見て何となく感傷的になるのは、ひょっとして私たちのDNAにそのことが引き継がれているのかも知れません。私の故郷福岡には、大宰府という町に菅原道真が流された時都から道真を慕って飛んできたという飛梅伝説があります。好きな歌の一つです。

 東風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ

BBS page navigation