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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[261] 川柳と弩 by : 高木豊博 at : 2009/12/05(Sat) 16:45

逵志保さん
      鯨汁 豚よりいいと 徐福喰い
 この江戸川柳については昔川柳の本では見ていたのですが、今その本が何であるかは分かりません。今回は鯨に書くこともあるのではないかと下記のネット「面白い江戸―くじら川柳」を見て控えていたものです。
www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/kujira-senryu.html
 これが機会となり、また掲示板が賑わうといいですね。

鳥居先生
 お久し振りです。お元気で何よりです。先生の研究している成果を、皆さんの前に披露して頂けるのを楽しみにお待ちしています。

木村さん
 弩は、全体が金属製で弦を力一杯に引き懸刀(けんとう)と呼ばれる突起物にかけ、矢を溝に置き引き金を引き、矢を飛ばす武器です。広武山で項羽と劉邦の軍が対峙した時に、この2人が近距離で向かい合い自分の正しさを演説していた際、項羽の後ろに隠れていた弩兵が劉邦に向けたこの弩で矢をいます。矢は劉邦に当たり劉邦は胸の骨を折る程の重傷を負いかなりの間苦しみますが、これで済んだのは劉邦が特別に厚い皮を重ねた鎧をつきていたためにこの程度で済んだ訳ですが、通常の兵士の防備では確実に体を射抜かれていたでしょう。
 この弩は素晴らしい武器ですが、次に矢をいるためにかなりの時間を有するため、騎馬で使うことは難しく攻城戦で主に使われてようですし、実際は数を撃てる普通の弓が好まれたようです。この弩という武器は厳重な国家管理がされており、また青銅冶金の粋を集めた精密機械でこの時代はまだ数も少なく、普通の庶民が持つことは禁止されていました。小舟で鯨による捕鯨の場合は、古式捕鯨では数艘の船は鯨の体当たりで沈められ、また亡くなる漁民も多く出ます。こうゆう捕鯨にこの貴重な弩が使われることはまったくありません。
 捕鯨は、銛で鯨を引き留め苦しさで身を持ち上げた時に心臓をめがけて刀や銛を打ち込みとどめを刺します。この最後の心臓にめがけて打ちだす作業に使うとしたら3〜4機は必要でしょうし、威力のある弩でも捕鯨の投げおろす銛の威力には敵いません。幕末、銛に火薬が付けられ鯨の体内で爆発するようなボンブランス捕鯨銃が出現し、やっと犠牲の少ない近代的な捕鯨となりました。
 始皇帝と徐福が弩の矢を射た相手は、鯨であれば近寄ること自体大変危険性が高く、多分イルカ程度のものだったでしょう。

 これはくれぐれもお願いをするのですが、太陽の道のような馬鹿げた考えは、ぜひ捨てて下さい。ちょっと考えて下さい。例えば山が幾重にも重なる場所で、長距離の場所を結ぶ正しい南北線を引くことは可能でしょうか。これをするためには地球が丸いという考えが知られており、磁北が地軸とはずれており、正確な時計があり、測量技術が19世紀末程度に発達していなければ出来ません。目に見える距離であれば可能ですが。東西も同様です。非常にアバウトであれば、徐福の440年後頃の裴秀という天才を得て出来るようになります。しかし、これでも木村さんの考えられる太陽の道の精度とは、比べ物になりません。

[260] 鳥居先生!お元気でなによりです by : 木村正治 at : 2009/12/05(Sat) 11:19

 鳥居先生には、本当にお元気でアジア各地を飛び回っておられるご様子、本当に羨ましい限りです。
 私の方は仕事が大きく変わり、こんな田舎でもいわゆるホール葬が中心になってきました。それでこの年になって、大借金をしてホールを造ったものですから、しばらくは此処から離れられそうにもありません。来年後半には落ち着くと予定しておりますので、徐福の大きな催しがあれば、またよろしくお願いします。
 「伝説から歴史へ」のようなご教示をこれからもお願いいたします。
 お元気な様子に、嬉しくて、掲示板をお借りしました。

[259] 長らくご無沙汰致しました。近況報告です。 by : 鳥居貞義 at : 2009/12/05(Sat) 02:46

徐福研究仲間の皆さん大変長らくご無沙汰致しました。
他のテーマに追われていましたが徐福さんの事は片時も忘れたことはありません。
他のテーマはベトナム視察、全国万葉フォーラム、七夕伝説の記事を環球時報に提供、貴州省少数民族地訪問などです。


勿論、韓国・済州島、中国・慈渓市のフォーラムにも参加し、新旧の徐福仲間との意見交換の他、帰国後は報告書の作成、会場で提案のあった来年に予定されている徐福2220年イベントに対する提案、「徐福検定」の提案、捕鯨の歴史調査などを実施しました。
これらについては機会を見つけて順次この掲示板にアップし、ご意見頂きたいと考えています。

又、中国で預かった「栄誉証書」を伊根町の石倉先生にお届けしました。
石倉先生は足を不自由されていますので、中国のフォーラムには参加されなかったとのことですが一方で現状の方式では徐福研究に前進が見られないので敢えて参加しなかったとのことでした。石倉先生自身は大変お元気で徐福研究の熱意は益々盛んで神話、緯度にまで手を広げておられます。

さて、私は兼ねてより徐福伝説は文献史学的に議論してもこれ以上新しいテーマは出ないのでそろそろテーマ別に議論を深めようと提案してきました。本掲示板[33]項及び『伝説から歴史へ』:私のHP参照参照。
最近の投稿記事を見ますとこの方向性に向かっているようで、志保先生ご同慶に存じます。

中国・慈渓市のフォーラムでは八女市役所の赤崎さんが五穀について、又、佐賀大学の和佐野教授が稲作について報告されました。物証によって『徐福伝説を科学する』ことが大切だと確信しています。その為に国際フォーラムがあると行っても過言ではありません。何故なら徐福研究は共同研究によってこそ解決出来るテーマだからです。
私は兼ねてより、半両銭、連弩(※)、竹簡を物証を得る三大テーマに、ソフト面では度量衡をテーマにあげてきました。
※これまで連弩はイラストでしか見られなかったのですが、中国貴州省で現代に伝わる実物を入手しました。

徐福の百工が伝えたものとして捕鯨が話題になることがあるので、日本の「捕鯨」の歴史を調べつつあるのですがその前提となる徐福が伝えたという秦代の「捕鯨」がどのようなものであったかという資料がありません。
これは中国側で調査願いたいテーマです。個々には提案しているのですが全く反応が見られません。このテーマも個別分科会で取り上げる必要があります。
日本の調査では熊野のくじら館の学芸員から縄文期の石器が刺さった海豚の骨が出土したという記録写真を入手しました。
尚、八世紀に完成した『万葉集』に鯨魚(いさな)捕り、という枕言葉のある歌が10余首あり各地で歌われています。

志保先生、この掲示板が国際化されることを期待していますので宜しくお願いします。

[258] ペルシャ人骨から始皇帝、徐福 by : 木村正治 at : 2009/12/04(Fri) 12:08

 平城京跡から、ペルシャ人の骨や、船でしか運べない大きなペルシャの甕が出土していた。
 広大な始皇帝陵、その1,5Km東の兵馬俑にペルシャ人の遺骨があった。
時代は違うが広大な交流のあったことを示している。
 論文の重要なことは、始皇帝と徐福がともに、ユダヤの血を引いていることを論証している。
 秦始皇帝と徐福集団は、ペルシャから来たユダヤ人だ!と結論付けている。つづく

[257] 川柳 by : 逵 志保 at : 2009/12/03(Thu) 23:10

同時進行のプロジェクトに追われる日々、
数日の掲示板を追いかけて読んでいます。

高木さん、「徐福と捕鯨」楽しく読ませていただきました。
捕鯨に限らず、調べてみれば徐福の時代に遡ることができない技術を各地が徐福に託しているというケースに出会うことが度々あります。なぜそこに徐福を持ってきたのか、徐福の名をあげたときの周囲の反応は?、そんなことを考えると当時の暮らしの断片が見えてくるような気がします。
最後にあげていらした江戸の川柳、初見でした。出典をお教えいただけると嬉しいです。

[256] 徐福と太陽祭祀 by : 木村正治 at : 2009/12/03(Thu) 14:47

 徐福が渡来し、何を残したかを考えるとき、伝説、伝承は別にして、考古学の成果を総合的に捉える必要があるのは自明の理である。
 考古学の成果の中で、信仰や埋葬を含めた祭祀の痕跡が最も重要なファクターではないかと、私自身はそう考えている。
 徐福がどんな信仰、死生観をもち、どんな祭祀を行っていたのか? 
 それをどんな形で残し、どう伝えたのかはもっと考えられなければならない。
 そういう意味では、今回、発見の祭祀に纏わる纏向遺跡の建物群は非常に重要だ。
 此処には歴然とした「太陽祭祀」の形がある。
この「太陽祭祀」に関連し、「太陽の道」と「聖なるライン」から迫っているのが、私の立場である。
 しかし、ここに前田豊氏の紹介で購読した「月刊ムー」7月号には、真に広い視野、世界史の流れの中で、太陽祭祀や徐福、始皇帝を捉える論文が出ていたので、それを紹介しながら、徐福の祭祀について迫ってみたい。つづく

[255] 「弩」による捕鯨? by : 木村正治 at : 2009/12/02(Wed) 19:22

鯨汁 豚よりいいと 徐福喰い
 高木さんらしい新しい角度からの切り込みには、ただただ感心するばかりです。
 一つ伺いたいのは、徐福が捕鯨の新しい技術を伝えたのではないかという一点です。
 つまり史記に書かれた徐福と始皇帝のくだりです。徐福が携え来った「弩」のような武器です。始皇帝も大魚を射殺す場面があります。そのような新しい武器で鯨を射獲った、それを伝えたというようなことは考えられませんか?

[254] 徐福と捕鯨 by : 高木豊博 at : 2009/11/29(Sun) 11:15

 私は若い頃鯨の肉が好きで、仕事帰り駅横の食堂で冷凍鯨の刺身を食べながらビールを飲んでいたものです。とろりとした感じがなんとも言えないですね。ところで聞くところによると、この捕鯨の技術は徐福が伝えたという伝承が特に熊野灘の新宮市や熊野市辺りにはあるようで、徐福研究家の間ではそれが常識のようになっています。しかし、本当にそうなのか考えてみました。

(1)縄文時代の捕鯨
 日本における捕鯨の歴史は縄文時代に遡ります。8000年前の縄文前期の千葉県館山市の稲原貝塚からはイルカの骨に刺さった黒曜石の石器が出土していますし、石川県真脇遺跡からは多量のイルカの骨が見つかっています。また縄文時代中期の九州北部から中部で見つかる阿高式土器の底に鯨の脊椎骨特有のデコボコの圧迫跡があり、脊椎骨を回転台として利用していたと考えられています。大きさから10m〜15mの大型鯨の捕獲があったことを示しています。
また長崎県田平町の縄文前期から中期に渡るつぐめ遺跡からはサヌカイト製の大型の石銛が数百点見つかっていて、捕鯨に使われていたのではないかと言われています。石銛は安山岩製の尖頭石器で、大きなものは100gを超えます。北海道に住んでいるアイヌの人々は、古くから鯨を取っていました。その方法は、トリカブトの毒を先端に塗った銛を鯨に刺して捕るというものです。アイヌ語で、鯨は「フンペ」といいます。
 前記の真脇遺跡ではイルカの頭がい骨が扇型、並列、向い合せに並べられていましたし、北海道東釧路貝塚では5個の頭がい骨のくちばし部分を中心に放射状に外側を向けて配列されていて、哀悼の意を込めて葬ったように思えます。
隣の韓国の蔚山市の郊外にある盤亀台(バングデ)遺跡は、以前働いていた場所が真横にあり仕事をさぼって時々行っていましたが、ダムの水面上ぎりぎりの高さに鯨を中心とする動物や人面、舟など多彩な絵が岩に刻まれている場所です。国宝に指定されています。描かれている鯨の種類は豊富で、ザトウクジラ、セミクジラ、マッコウクジラなど多くの種類があり子供を乗せた鯨も見えます。この鯨の種類を分類した方が現在蔚山市の文化財解説士の金青子(キムチャンジャ)さんです。日本語が非常に得意で、学者顔負けの人です。彼女の努力で鯨の種類がよく分かるようになりました。
絵の中には、長い丸木船に多数の人が乗っていて、その先の一人が投げた銛が鯨に刺さっている絵や、網で捕獲している様子、鯨の横での舟などが見られ、先史時代(日本の縄文時代中期)の様子を知る非常に貴重な文化財です。しかし岩刻画の保存状態は太陽に晒されるむき出し状態で、見つかった1979年から年々痛みがひどくなって来ています。笠などをかけて保護してはどうかと思うのですが、環境保護団体がその上の崖に笠などの施設を設けることに反対しており、どうにもなりません、
 倭人という記述が歴史に現れるのは、戦国-秦漢期成立の『山海経』の「海内北経」に、倭が中国東北部にあった燕国に服属していたという記述がありこれが最初です。紀元前6世紀から紀元前4世紀頃のことと考えられています。これらのこと等を考えると玄界灘の両岸から朝鮮の北西部までの広い範囲を倭人と呼ばれる人が分布して生活しており、同じような言葉を話していたのではないかと考えられています。これらの人を安本美典さんは環日本海人あるいは環日本海語と呼んでいます。私は玄海語が良いと思っていますが。これらの人々、それに縄文人やアイヌ人が捕鯨を行っていたと思われます。
 ところでイルカと鯨の違いは、単純に体長4m以下のものがイルカ、4m以上を鯨としていて、どちらも同じハクジラ亜目に分類される哺乳類の動物です。

(2)弥生時代の捕鯨
 長崎県壱岐島の原(はる)の辻遺跡から、弥生時代中期の3重になった甕棺に捕鯨らしいものが線刻された土器が見つかっています。これには舟や何本もの銛が鯨に刺さった様子も描かれています。この時代にすでに銛を突き船で引っ張り弱らせる突取捕鯨法が行われていたようです。土器は赤く塗られていますので多分大漁を祈ったものと思われます。またここからは弥生時代後期の鯨の骨を用いた紡錘車や矢じりなども出土していて、同じように銛を打ちこまれた鯨を描いた壺も発見されています。しかしまだ捕鯨用の大型漁具は見つかっていません。
 『魏志倭人伝』に倭人は、魚を捕る時にサメなどの害を防ぐために鯨面(げいめん)文身といういれずみをしていたと書かれています。この風俗が中国の長江あたりから来たものとはいえ、九州を中心とする倭国では漁業が生業の中心であったことが分かります。

(3)古墳時代
 古式捕鯨が行われていた前記の壱岐島では、郷ノ浦町の鬼屋古墳や大米古墳から捕鯨の線刻画が見つかっており、帆や櫂で進む数隻の舟と銛を刺された大小のイルカのようなものが描かれています。
 鯨は、『記紀』に「久治良」や「区施羅」として出てきます。久治は黒白(久が黒、治が白)を、良とは得体の知れないものを意味するという人もいます。万葉集では、鯨、不知魚、勇魚、伊佐魚、鯨魚などと表記される「イサナ」で出てきます。イサナは朝鮮語で、大きな魚という意味です。「イサナとり」は海や灘などに掛る枕詞で、壮大な海と大きな鯨の組み合わせで歌のイメージを膨らましたと思われます。とすると、「クジラ」と呼ぶのが古く、後世、結局は本来の日本語に戻ったのですね。

(4)中国の捕鯨
 古代の殷王朝の獣葬墓には、いろいろな動物が葬られていました。水牛・牛・鹿・豚・犬・羊・山羊・鼠・兎・狐・熊・豹・犀・猿・象・鯨です。内陸部に鯨の骨があるのは驚きですが、どうやって運んだのでしょうか。多分イルカではなかったでしょうか。
 鯨のつくりの「京(けい)」は非常に大きな数字のことをいい、鯨は大きな魚と捉えられていたようです。鯨は雄の鯨を表し、魚に児での鯢はお腹に児を持つ雌の鯨のことです。孔子の編んだ『春秋左伝』ではこの両方を合わせた「鯨鯢」は悪人のかしらという意味で使われていますが、『李陵・答蘇武書』では罪なく殺されるものとなっており、意味がよく分かりません。前漢の劉安が書いた『淮南子』には「鯨鯢は魚の王なり」となっています。
『史記』(秦始皇本紀、前212年)の記事での「蓬莱の薬を得ようとしたが、大鮫魚に妨げられて蓬莱に至ることが出来なかった」という記事での「大鮫魚」は、鯨とも言えますしイルカのようでもあります。司馬遷はひょっとして鯨というものを知らなかったかも知れません。説文解字では「鯨」は、海の大魚と記されています。
 東晋代(4世紀)の『捜神記』の中国の妖(あやかし)を挙げたなかでの魚虎(しゃちほこ)のところに、「鯨の口元を住処として、天帝が定めたように鯨が小魚だけを食べているか見張っていて、鯨がこれを破ればその鯨の舌を噛み切る」と書かれています。どうも古代中国では鯨については食べたという記載がないように思われますし、捕鯨についても知識も少ないように思われます。

(5)まとめ
  1764年の『鯨記』では、大型の鯨に対しての突き取り式の捕鯨(銛ではなく矛)が最初に1570年頃の三河国で行われたことが書かれていて、これが近世的な捕鯨の始まりとされています。それが尾張、伊勢湾から紀州熊野の太地浦に伝わり、1606年そこで銛を使った突き取り方法による組織捕鯨(鯨組)が始まり、1677年網取り捕鯨が開発されます。これらの技術は全国に瞬く間に広がりました。そしてこの地では徐福が捕鯨の技術を伝えたという伝説ができました。
徐福は百工の職人を引き連れて日本に渡りますが、当時中国本土では鯨を捕るということは殆ど行われておらなかったと思います。それは鯨が回流するのが主に対馬海峡や黒潮に沿ったもので、流れが緩く北から南に反転する黄海の中国本土側には殆ど姿を見せなかったようですので、当然捕鯨の発達はなかったと思われるためです。それに対して対馬海流に沿った倭人が住んでいた朝鮮半島の海岸線、対馬や壱岐、九州北部などでは、鯨の漁業がすでに縄文時代から盛んに行われていました。徐福伝説が残る熊野では熊野地方からは、捕鯨を描いた土器が出土することはありません。これらを総合的に判断すると、徐福が捕鯨の技術を倭国(日本)に伝えてことはなく、むしろ徐福集団の人々が倭国で捕鯨技術を知り、鯨の肉の美味さに舌鼓をうったと考えるのが本当だと思います。
江戸時代の川柳に、次のような歌が残っています。これが真相でしょう。
   鯨汁 豚よりいいと 徐福喰い

[253] 纏向の発見と濃尾平野との相関性 by : 木村正治 at : 2009/11/28(Sat) 11:39

[222]に、土器や前方後円墳の分析から、卑弥呼に対立した「狗奴国」が、濃尾平野にあったという、研究成果を掲載しています。
 今回の纏向の発見によって、相互に信憑性が増幅されます。
 私としては太陽祭祀から迫ってみたいと思います。つづく

[252] 古地図の測量法 by : 木村正治 at : 2009/11/25(Wed) 15:27

 前記の古地図は測量されたものか?見聞と想像が入り混じったものなのか?
 素人には全く判断が付きません。ただ数千年前から、測量法はあったようです。
 太陽を三角法の一点に配した長距離の測量は、この様な歪みを生むともインターネットに有りました。

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