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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[271] ユダヤ人と秦 by : 木村正治 at : 2009/12/15(Tue) 18:55

 大秦とはペルシアのことも意味していた。
ネストリウス派キリスト教ー景教の寺院は、大秦寺と呼ばれたが、かっては波斯寺と表記された。波斯とはペルシアのことである。
 中国では、古代ローマ帝国のことも大秦と呼んでいた。
それゆえ、学問的に大秦とは一定の国を意味するのではなく、広く西方の領域をさす名称だと理解されている。
 しかし、大秦という名称のつく国々や領域を改めて俯瞰すると、ひとつの流れがあることに気づく。
 そう、ユダヤである。
アレキサンダー大王が開いたシルクロードを通って、ペルシアにいたユダヤ人たちもまた、東へと移動したのではないか。
 始皇帝の配下には、ペルシア人が多数存在した。彼らもまた、故国を失って彷徨った末、中国へと来た人々ではないか。
 さらには、そこにユダヤ人も含まれていたとしたら、すべて「秦」という名によってつながってくるのだ。
遠くパレスチナの地から捕囚されたユダヤ人たちが、民族解放の恩人であるペルシア人とともに、中国へやってきて秦国、さらには秦帝国の建設に関わった。ムーより引用

[270] ペルシア〜アレキサンダー by : 木村正治 at : 2009/12/15(Tue) 10:24

 アケメネス朝は最終的に、インドからエチオピアまで版図をひろげるのだが、これを滅ぼしたのがマケドニアの大王、アレキサンダーであった。
 紀元前334年、東征を開始したアレキサンダーは翌年、イッソスの戦いでダリウス3世の軍勢を破り、紀元前330年にはペルセポリスへと攻め上がり、アケメネス朝ペルシアを滅ぼす。
 さらに、アレキサンダー大王は東へ進み、ついにはインダス河にまでいたる。
 ここで主力部隊はギリシャへと帰還するのだが、インドに居座った連中もいる。彼らは後に中国では大夏国と呼ばれる国を建設するのだが、興味深いことに、仏教経典「那先比丘経」では「大秦国」と表記しているのだ。秦国はバクトリアの植民地であるとの指摘。
 ムーから引用

[269] バビロン捕囚 by : 木村正治 at : 2009/12/14(Mon) 15:48

 ユダヤ人がペルシア、現在のイラン地方に大勢来たのには、歴史的なわけがある。
 紀元前11世紀ごろ、イスラエル人は現在のパレスチナ地方に古代イスラエル王国を築いていた。
 これが紀元前931年に南北に分裂。
北朝イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされたように、南朝ユダ王国もまた、紀元前596年、新バビロニア王国の攻撃によって滅亡。
 住民はバビロンへと連行された。いわゆる「バビロン捕囚」である。
 南朝ユダ王国のイスラエル人、すなわち後にユダヤ人と呼ばれるようになる人々は、約50年にわたって異国のバビロン、すなわち現在のバクダッドの南約90キロの地点で過ごすことになる。
 バビロン捕囚に終止符を打ったのは、新バビロニア王国を打倒して覇権を握ったアケメネス朝ペルシアであった。キュロスと大王はユダヤ人を解放し、パレスチナへの帰還を正式に認める。
 こうして帰ってきたユダヤ人は破壊された神殿を再建し、その後、紀元後2世紀に古代ローマ帝国によって滅ぼされ、世界中に離散するまで、ユダヤという国を保った。
 ところが、バビロン捕囚から解放されたにも関らず、故国へ帰らなかったユダヤ人も多数いた。
 『旧約聖書』の「エステル記」には、その当時のことが詳しく記されている。。書名にもなっているエステルは王妃となり、彼女の養父であるモルデカイは宰相の地位に登りつめている。いうなれば、ユダヤ人はペルシア王家の外戚であり、王国内部でも重用されていたのである。以上ムーから引用

[268] カタツムリ民とは? by : 木村正治 at : 2009/12/10(Thu) 16:33

 嬴という字について、地図を見ていて思いついたことは、カタツムリの特徴というか、引きずった跡を残すという意味では、砂漠の民、いわゆるシルクロードを砂漠に残したことを表しているようにも、私には見える。

[267] 嬴について by : 木村正治 at : 2009/12/09(Wed) 12:15

 異民族であった秦祖は、周に仕えて馬を飼い増やした功績で「嬴」の姓を賜ったという。また秦の国土に封ぜられた。
 この嬴はカタツムリの象形で、「商いは牛のよだれ」と同意と思われるが、余る、儲ける、満るの意味を持っている。カタツムリの中に挟まれる字は、貝、女、羊、果などあるが、ここでは、女である。つまりは商人であることを示すものと言える。

[266] ユダヤの血を引く始皇帝 by : 木村正治 at : 2009/12/08(Tue) 16:09

 始皇帝の父、荘襄王に、巧みに取り入った呂不偉は、愛人の趙姫を差しだし、政治の中枢に食い込み、荘襄王亡き後、幼い始皇帝をバックアップし、絶大な権力を手中にした。
 始皇帝は呂不偉の子とも言われている。始皇帝の容貌は鷲鼻で眼光鋭く、瞳は青かったと伝えられる。呂不偉は古代シルクロードの交易を担ったソグド人、ユダヤ人とされる。
 中国最西域の秦は、非漢民族との交流が盛んであった。
                        ムー抜粋要約
 太陽信仰のシンボルである「3本足のカラス」が、始皇帝と徐福の先祖、羸民族から発生しているという指摘は、実に興味深い。

[265] 羸という姓、羸民族のカラス by : 木村正治 at : 2009/12/08(Tue) 14:21

始皇帝の血統、系図は伯翳、羸(えい)であり
徐福もまた中国の研究によれば、羸という。
 この羸について「山海経」に羸民族が登場し、鳥のトーテムをもっていた。始皇帝の掲げた軍旗は玄すなわち黒であり、カラスである。このカラスは太陽の中に住む3本足の金烏であり、日本において八咫ガラスであり、熊野のシンボルでもある。ムーから抜粋
 

[264] 線では無く点 by : 木村正治 at : 2009/12/07(Mon) 15:22

 高木さん「弩の捕鯨」について、丁寧に教えていただき有難うございました。
 「太陽の道」については、線ということを念頭から外してください。線では仰るとおり測量は無理かもしれません。
 点とお考え下さい。点と点がいくつか結果的に同一ライン上にあることになります。
 この点は太陽や月、星の観測、そして周髀や日矛を用いて、同緯度、同経度上に並べることは、可能であることを、多くの学者は示しています。
 「太陽の道」も「聖なるライン」も私が作り上げたことではありません。
 それを発見した先人が多くいることを、どうか、お忘れなきようお願いします。

[263] ありがとうございます by : 逵 志保 at : 2009/12/07(Mon) 01:29

高木さん、ありがとうございます。江戸期の徐福の扱われ方は今とは違うおもしろさがあると思うので、あたためていきたいと思います。
鳥居さん、励ましありがとうございます。石倉さんへ届けられた小旅行記、とっても良かったです。

[262] 鳥居先生 by : 高木豊博 at : 2009/12/05(Sat) 16:59

うっかりしていました。捕鯨については、1週間前の254「徐福と捕鯨」に簡単な文章を書いていますので、ご参考にして下さい。

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