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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[282] 改訂古代中国の船の歴史ー1 by : 高木豊博 at : 2010/01/11(Mon) 23:04

明けましておめでとうございます。

以前書かせて頂きました古代中国の船シリーズを補填しましたので掲載させて頂きます。徐福研究のご参考にして下さい。皆さんのご批判もお願いします。

新古代中国の船 (合併版)

古代中国の船の発展については近年発掘調査などで明確になってきており、当初私が考えていたものより発展の規模が大きそうです。
 中国における舟の字を使った最初の文献は、孔子が編纂したと伝わる地理書の『書経、禹貢』です。「禹は洪水をふさくこと十三年、その間、家の前を過ぎても門に入らず、陸をゆくに車に乗り、水をゆくに舟にのり、泥をゆくに橇(そり)を踏み、天下を分かって九州とした」とあります。
中国最初の字書といわれる紀元前2世紀に完成したとされる『爾雅(じが)』の「釈水」という項目には「天子は造舟、諸侯は維舟、大夫は方舟、士は特舟、庶民は筏(いかだ)に乗る」とあります。これを逆に辿った順番が、船の発達の歴史となりそうです。特舟は単体の舟、方舟は2艘の舟を連結した双胴船、維舟は4艘並べたもの、天子の乗る造舟は構造船であり楼閣が乗る楼船と考えて良いと思います。

1.殷周以前の舟
(1)はじめに
 中国には、全体で32,000kmの海岸線(大陸沿岸18,000km、島14,000km)と6,000もの島があります。また多くの川が流れ、古い時代これを渡るには人が直接川に入り向こう岸にたどり着くしか方法がありませんでした。孔子が編集したとされる『詩経』には、「渡り場には深浅がある。深い処は衣をからげて水を渉る。また浅い処は裾をからげて渡る」とあります。
これを克服し生かすために、古代から様々な船が工夫されてきました。中国人は、新石器時代の1万年から4千年前までに、筏と丸木舟(中国では独木舟)を使い河や海に乗り出し始めていました。「木を浮かべることから船を知った」(隆安『淮南子』)あるいは「燧人氏は匏(パオ)を以って水を渡り、伏羲氏は捊に始めて乗った」(『淮南子・物原』)という時代です。木の筏が最初に出現し、7000年ほど前に丸木船、3000年ほど前に木板船が出現します。これらは長期の生産労働と洪水対策の中での「木在水上」『易経・系辞』の概念が出てきたことがきっかけとなり、大きな川を渡るのにこの木というものが役に立つことがわかり、このことで船が発達したと考えられます。

(2)筏(いかだ)
桴は筏のことで、中国南方の百越人の発明と言われています。孔子が世の有様を「道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばんか」と嘆いたことは有名ですが、これは、孔子が庶民ですから筏にしか乗れないということだそうですが、古代での航海ではこの筏が使われていました。同じく孔子が編纂した『詩経』には「深きについては方の舟あり」とあります。この「方」は、桴すなわち筏のことです。
筏は丸木舟より製作が簡単で、蔓で何本かの木を結べば簡単に出来るもので、近年まで対馬や韓国の済州島では島間の渡海に使われていました。対馬では材木船と呼ばれ、杉の角材を7本連結した筏船です。
『准南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便り、越人は舟に便る」、あるいは「南船北馬」という言葉が示すように、中国の南側では古代から舟が重要な交通手段でした。そのため単純なものから複雑なものへと舟が進化していきます。筏も進歩して、漢代黄河では遊浮箱式古船という、木で大きな四角い弁当箱を造りそれに帆をつけたものが出現します。
中国には7,000年前既に竹筏がありました。竹ざおを梱包して作るもので、主に河川で櫂(かい)、櫓(ろ)などで操作していたようです。筏舟といいます。1993年イギリスの探検家がベトナムで伝統的な竹筏(3本マスト、縦18.3m、横4.6m)を作り、5月13日に香港を立ち7月5日に和歌山県新宮市の三崎漁港に着いた記録があり、竹筏の安全性と航海性能が実証されました。木の皮やチベット族のようなヤクの牛皮や、黄河沿岸の羊の皮をはった筏などもありました。

(3)丸木舟
丸木舟は、石斧が出来たことにより製作が可能になりました。『易、系辞下』に「 伏羲氏、木を刳り舟と為し、木を削り楫(かじ)と為す。舟楫の利は不通を取り除く」とあり、古代、丸木舟がいかに役立ったものだったかが分ります。
2002年これを裏付けるように、浙江省の河姆渡遺跡の西側約10kmの跨湖橋遺跡から丸木舟が発見されました。全長5.6m、幅52cmでオールも見つかっています。材料は1000年経過した馬尾松(ベビショウ)が使われています。また河姆渡遺跡の北側の田螺山(でんらさん)遺跡からは、下流域最古の土器、丸木舟、八本の木製の櫂(かい)、橋か船着場の跡、高床式建物なども出土しています。この年代が8,500年〜5,000年前です。
 河姆渡遺跡は6,000年〜7,000年前の遺跡で、高床式建物や漆器などの他、日本にイネが伝わるルートだったのではないかと言われていています。上記の2遺跡を含め全てが低湿地遺跡であることはそのことを裏付けていますし、丸木舟は古代人が東シナ海を渡る時に使ったのではないかと言われています。これらを含め長江がアジアの舟の発祥地ではないかと言われるのは、ある程度納得がいきます。商代(紀元前17世紀)には、丸木舟で島に渡ったという記録が残っていますが、姜尚(紀元前11世紀)が殷を滅ぼす時に、木造船を作ったと言われています。 丸木舟はこの後進化し、春秋時代初期には、呉越が争った太湖の北にある常州市の掩城(えんじょう)博物館にある丸木舟のように、楠木でできた幅約5m、長さ約11mのものが出てきます。炭素同位元素の測定では、2800年前のものとのことです。
 中国で丸木舟は20体以上発見されていて、それが福建、広東、江西に最も多く、ついで浙江、台湾となっています。「舟」という字は、字の中に2本か3本の横線があります。これは横梁(横板)が丸木舟の強度を上げることを表すとともに、区画の意味合いがあります。
 丸木舟での航海速度はどの程度だったのでしょう。1999年に縄文式の丸木舟(全長8m、幅75cm、定員5人)で佐渡海峡40kmを渡る実験が行われましたが、その時は40分のロスを含み9時間で渡りきりました。平均時速は4.5kmでした。
1998年浙江省招興で越王允常の墓が発見されましたが、質朴で実用的なものでした。特に目を引いたのは全てが木造墓室であり、特に中室の棺は巨大な丸太を2等分に割り、それを繰りぬいて、それぞれを蓋と棺にしてあったことです。墓室と丸太棺は、防食のため漆が塗られていました。戦国時代初期の蜀の王族墓では、全体を船形にした船棺が9棺、箱形に刳りぬいた棺が8棺出土しています。

(4)その他
筏舟や丸木舟の応用として羊皮筏や牛皮筏などがあります。これは羊や牛の皮を風船のようにして、それで上の木(竹)組みの筏を浮かべるものです。昔はその羊の皮の風船を1つ持ち、川に浮かんで遊んでいたようです。15世紀の李朝で編纂された『東国通鑑』では、新羅国の始祖赫居世干(かくきょせいかん)の補佐をしていた瓠公について「瓠公、本(もと)倭人、始めて瓠(ひさご、瓢箪)を以って渡海し来る、故に号す」の記事があり、これがそれに似たものでしょう。この他日本では葦の舟や植土(はにつち)の壺を風船のようにして使用したものもありましたので、中国でも同じものがあったのではないかと思っています。
 木板船は、紀元前16世紀から11世紀の商の時代に出現します。これは青銅を作る技術が発達したことにより、青銅の斧や鋸が出来たことにより可能となりました。商代の甲骨文字に「舟」とあるのは、この木板船のことと思われます。三板船もこの一つです。これが発達し後の軍船となります。

(5)方船
 丸木舟を2艘並べてその間を橋でつないだものを橋船といいますが、これは古い時代からあったようです。『詩経』に「造舟為梁」とあり、船を浮かべてその上に板を渡し、通行の便に供したとのことですから、この「船橋」のことでしょう。「方舟」・「方船」と呼ばれているものです。2艘以上の舟をつなげたものを「連舫」と呼びました。安定性が向上し、多くの荷物を積むことが可能になりました。これには皮ひも、藤蔓、荒縄で結んだだけのものと、上を板で渡し橋としたものとがあります。ただ『詩経』の時代は、2から3人が乗れる丸木舟か筏程度のものだったでしょう。

[281] 今年もよろしくお願いします by : 逵 志保 at : 2010/01/09(Sat) 14:43

新年になり、いただいた年賀メールから「最新情報」欄に韓国の組織の最新情報を載せましたところ、
中国の関係者から貴重な情報をありがとうというメールをいただきました。
各ページの充実というところまではまだまだいかないこのページですが、「徐福伝説を『縁』とした地域と人とのネットワーク」の一歩となれるよう努力したいと思います。

なかなか拾いだせない各地の徐福に関する情報、ぜひ皆さんおよせください。
今年もよろしくお願いいたします。

[279] 所感 by : 通りすがりの大学生 at : 2009/12/28(Mon) 11:52

管理人さん、逵さんお世話になってます。

徐福に触れる人の交流のため、こうした掲示板が存在するっていいですね。思うところあるので、好きなように書いておくので後で消していただけると助かります。

自論をとうとうと述べていただくのは素晴らしいとして、なぜここでなければならないのでしょうか。ムーを片手に堂々と学会でも参加していただければと思います。
徐福は国、地域、分野を超えた研究テーマです。書き込まれている数人の方のうち、このHPの名前や逵さんの研究分野をご存知の方はいらっしゃるでしょうか。

無知な大学生の目で申し訳ありませんが、発表とメモ書き程度の内容の違いがどうもわかりません。これで発表なら今苦労している卒業論文が10分後にでも終わりそうです。

たとえばご自分でサイトを開かれて、このサイトとリンクしたりというのはだめなのでしょうか。ただのこのサイトのアクセス数便乗でなければ、問題ないかと思います。

人の研究分野を邪魔して、苦言をされても、自分がやってることは正しいと書き込みを続けられるのはなぜでしょうか。

[278] このサイトの賑わいを期待します by : 木村正治 at : 2009/12/22(Tue) 19:19

 やはり根っ子に何かを持っておられるんですね。
横浜では、岡本明久監督の申し出があり、王一帆さんの飛び入りで実現しました。
 佐賀では、やはり王一帆さんが進めたことです。
私は、自分からでしゃばりませんが、けしかけられたら逃げません。そう言う心情で生きております。
 またBBSでは二ヶ月間、止められましたが、誰一人投稿されませんでした。
 もし陰で、自分が投稿しないで、とやかく言う人がいましたら、ぜひ、この素晴らしいサイトに投稿するよう勧めてください。私も皆さんの投稿を楽しみにしているのです。
高木さんのような素晴らしい投稿で溢れることを期待し祈ります。
 この場は、徐福にまつわる各自の研究成果を発表する場であると、最初の管理人のことばから、そう理解しています。

[277] 返事 by : 逵 志保 at : 2009/12/22(Tue) 16:44

木村さん、御自身のこのBBSへの投稿の数をご覧ください。
実はこのページ、多くの方にご覧いただいているのですが、
木村さんの御投稿が他の方から見て「荒らし」や「迷惑投稿」とも映っているのです。
「数々の忠告」に関してはこれまで無かったと思われているようでしたら言うこともありませんが、木村さんのこれまでのいくつかの場面(横浜も佐賀も)での主催者への配慮を欠いたパフォーマンスを見ておりますので、もう少し周りを見てくださいと言いたいのです。
生意気を申しますが、私には木村さんの御発言に議論を投げかける気持ちはありません。
どうぞご自身のHPで御自身の論を展開ください。よろしくお願いします。

[276] 逵さんへのご返事 by : 木村正治 at : 2009/12/20(Sun) 19:26

 逵さん、年寄りの話と思ってお聴き捨てください。
もし、ムーの立場に、あるいは私の立場に否定的であるなら、正当な批判をして下さい。
 数々の忠告とは何でしょうか。私も本当に納得できるご批判を頂ければ、あるいは今の立場を捨てる場合も将来あるかもしれません。しかし賛同して頂いてる学者もおられますし、重要な場で発表もして頂いております。
 引用や他者の研究成果を利用しないで、学問の進歩はあるはずはありません。
 どうか柔軟な姿勢で徐福の研究に成果を上げてください。
それに、あらためて逵さんの言葉を紹介しておきましょう。
「このぺーじは人の研究姿勢を批判する場ではありません」と。

[275] 世界史の中の卑弥呼 by : 木村正治 at : 2009/12/19(Sat) 12:34

逵さん、読んで頂いていてありがとうございます。
 徐福、始皇帝に纏わる太陽祭祀については、世界史の流れの中で捉えなおさなければならないと感じています。
 世界史に疎く、あらゆる面で浅薄な知識の私にとって、必然的な引用です。
 ムーの中に、おそらくの前提付きながら、卑弥呼を物部氏の一族であろうとしています。つまりは徐福の一族であろうとなります。
 タイムリーに奈良、桜井市の卑弥呼の宮殿と太陽祭祀に絡んできますから、大変に重要なムーの論文であると思います。
 また最近、吉村作治氏がエジプトで推理、発見された第二の「太陽の舟」。
 日本の太陽祭祀も「太陽の舟」と密接な関係があります。
これらを思うと、徐福と世界史は避けて通れないでしょう。
 

[274] ご自身の言葉を by : 逵 志保 at : 2009/12/19(Sat) 09:19

木村さん、熱心にありがとうございます。
ただ『ムー』に疲れてきました。
ご自身の意見をこれまでの数々の忠告にも耳を傾けて発言していただけるときっとみんなが楽しめるのではないかと思います。
いかがですか?

[273] 物部氏と秦氏 by : 木村正治 at : 2009/12/18(Fri) 14:20

 中国に住む現在のユダヤ人の写真がある。本当に、日本人に良く似ている。
 同じユダヤ人ゆえ、原始キリスト教に改宗した時点で、物部氏は秦氏とは区別がなくなる。ある意味、徐福集団だった物部氏は原始キリスト教徒になることによって、秦氏になった。
 とすれば、徐福の集団の子孫は、今も秦氏となって日本に住んでいるという『義楚六帖』の記述もうなずける。
 その証拠に秦氏の中には物部氏の象徴であるニギハヤヒ命を祖とする者もいる。
 太秦にある蚕の社は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)を祀る。
 以上ムーより 冒頭はムーの写真を見ての私見。

[272] 始皇帝と徐福の野望 by : 木村正治 at : 2009/12/16(Wed) 17:37

 徐福は、徐福一行は、徐福の子孫という人々は、何故、秦、はた姓を名乗ったのか?について未だ明快な納得できる解答を聞いていない。
 一説には始皇帝の報復を恐れたとしているが、始皇帝死後に渡ってきた人たちも、はた姓を名乗っていることをみれば、これは当らない。
 しかし、ムーの論文は、その点納得しやすい。
以下ムーから引用
 始皇帝がユダヤ人であったとすれば、徐福伝説はまったく別な見方ができる。
 徐福はもともと不老不死の仙薬を求めたのではなく、別天地で王になる野望をもっていた。
 そのことは秦始皇帝も十分わかっていたはずだ。
 秦始皇帝は同じ血をもつ徐福に、ユダヤ人の童男童女と技術者たちを引き連れて、東の海の向こうに新たなユダヤの王国を築くよう、密命していたのではないだろうか。そして、彼らが日本に渡来して、物部氏になった。
 八咫烏の言葉が正しければ、日本に唯一神の信仰、ユダヤ教を持ち込んだのは徐福集団であり、彼らはユダヤ人だったことになる。
 徐福伝説につきまとう秦氏の影。
秦氏がユダヤ人原始キリスト教徒であるならば、物部氏はユダヤ人ユダヤ教徒であった。
 以上についてユダヤ教と日本の神道は似ているとされる点があるようだ。

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