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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
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[314] 徐福の時代の中国の生活(2) by : 高木豊博 at : 2010/04/02(Fri) 22:24

(4)農・工・商業
……古代中国……
 古代中国では、石製、木製、青銅製、鉄製の農工具がありましたが、その進化はこの順番ではなく、それぞれの用途に応じて使い分けられていたというところでしょうか。木製の鍬の先に鉄製の刃先での補強がなされているとかの組み合わせると、いろいろなタイプがあります。
 石製では、石斧、石鎌、ナイフなどがありますが、これらは日本でも縄文時代から知られており、特に中国から伝わったというものではないでしょう。石包丁は、中国、韓国、日本はほぼ同じものを使っていたようです。
 木製では、鋤(すき)、鍬(くわ)などやはり掘削するのに使われる道具が多く見られます。またそれを補強するために青銅や鉄が使われていて、それが経済的な向上からか青銅や鉄で作られていくものに変わって行きます。青銅製のものは性能的に信頼性があるとしても高価でありまた簡単に加工できるものではありませんので、国が管理できる武器には最適です。反面やや脆く腐食しやすい欠点があるにしても、安価で加工しやすい鉄製品は農具としてその中心を占めるようになります。すき、くわ、まぐわ、じょれん、根切り、鋸鎌、穂摘み具などは殆ど鉄製品に変わります。
……古代日本……
 日本にも、木の鍬(広、平)、鋤、えぶりなどがあり、弥生時代の進展とともに、鉄製や青銅製の鋤先などをもった道具が出てきます。鎌も鉄製で補強したものから、鉄刃そのものを木の柄につけた鎌も出現します。
……古代中国……
 この頃の稲の収穫をみると、穂摘みがなされた後長い鎌で穂を摘んだ後の茎をなぎ倒していますが、この鎌の使い方は日本では見られないものです。またうすは「からうす」で、大きなてこのような長い杵で地上に設けた臼で米を搗き、他方大きな二枚の扇を振り動かして風を起こし、風で米ともみがらを分離します。またもみすり、あるいは粉ひき用の臼も現れます。
……古代日本……
 古代日本では、円筒形や鼓形の材をくり抜いて作った木臼に、棒状の木材の中央を削った縦杵がついとして脱穀に使われていました。
……古代中国……
動物や人に引かせて田を耕す犂(すき)に使われる石器が前三千年頃現れますが、後引きの犂が紀元前二世紀には現れているようです。しかしこの犂が日本では使われていないようです。
漁業では漁網や針などがありますが、当時玄界灘では既にこれらを使った漁業が盛んに行われており、特に中国から日本に伝わったものではないようです。むしろ日本から中国に伝わったとするのが正しいかも知れません。
 木工具では、鉄製の斧、木の柄に取り付けられた鉄刃の斧、やりがんな、鋸(目が小さく、効率が悪い)、曲尺などがあります。釘を使わずに木を組み合わせ、接合する技術が発達していて、徐福の乗った船も木で組み合わされたものだったでしょう。
 機織り機はほぼ現在の形に近いものが使われています。四本足の台の上に経が斜めに懸けられて、真ん中あたりで上下に分けられています。経を1本おきに交互に上下に分ける仕掛けに連動するペダルもついています。また糸車を回し細い管に糸を巻き取っていますが、この糸車も今日使われているものと殆ど同じものです。
……古代日本……
 日本では糸を紡(つむ)ぐ紡錘車(円い輪状)が見つかります。紡錘車で紡いだ糸を体を利用した機織りにかけて織っていました。布の幅は30〜40cmといわれています。
……古代中国……
 青銅器は鋳型をもとに作製されます。現在その技術を復元しようと大阪のとある会社が努力していますが、薄い部分やシャープな彫の部分とかは難しいようですし、鋳型の材料もまだ解明には至っていないようです。青銅を取るために銅山では木の支保工を組んだ坑道が作られましたが、日本ではまだそういう設備は見つかっていないようです。しかし青銅は日本でも作られており、中国からの技術の伝承は行われたと思われます。
 鉄については当時日本に製鉄の技術はなく、鍛造で形を作るのが精一杯というところでしたが、中国では銑鉄から鋳物を作ることまで行われていました。
 前4世紀頃から中国の経済が発展し、これに青銅の技術の発達がかみ合って、各地で青銅製の貨幣が造られます、草かきから変化した布銭、内反りの小刀から変化した刀銭、楕円形の粒状の銭、そして穴の空いた円形の銭が流行しました。徐福の時代には半両(8グラム)と書かれた半両銭が有名です。半両銭は日本では以前紹介させて頂いたように数か所しか見つかっておらず、そのうち秦のものは1つ位でしょう。またその他の形の銭は見つかっていませんので、日本での必要性は殆どなかったものと思われます。中国では素焼きで小銭を貯めることが出来る「撲満(ぼくまん)」という貯金箱も出来ています。
 町には常設市場もあり、食物や酒も売られていました。市場は道路で区画された区画の中に屋根のついた長屋が立ち並んでいて各種のものが取引されていたようで、税金も取られていたようです。市場は壁で囲まれていて、出入り口には門が設けられていました。逵の中央には市場を管理する役所が建ち、2階の軒に太鼓がつるされ市場の開閉時間を知らせていました。時間の管理には青銅製の水時計が使われていました。
 度量衡は、秦の始皇帝の時代にそれまでまちまちだったものが統一されます。天秤ばかり(分銅を含め)、枡、物差し全てが統一され、始皇帝の詔が彫られたものもあります。出土状況からして、これらのものが全ては日本には伝わっていないように思われます。
(農産物については省略します)

(5)乗物、道路
……古代中国……
 中国では前三千年紀のおそい時期に製陶にろくろが使われており、この応用として車の発達があったようです。2頭立ての馬車等は従ってかなり古く、徐福の時代は日常茶飯事に使われていました。馬車には、男性用としてビーチパラソルのような屋根のついたもの、女性用としては映画の西部劇などでよく見かけるかまぼこ状の屋根がついたものなどがあります。しかし日本ではこの時代まだ馬というものを知らず、ましてそれを利用した馬車あるいは車輪というものを知らなかったようです。
 この頃中国では物を運ぶのに一輪車を使っていました。これは現在の工事現場でよく見かけるもので、猫(ねこ)とも呼ばれています。先日スーダンに行った時もスチール製だけではなく、木製の一輪車も使われていて古代中国ではこの木製のようなものが使われていたのでなと感慨深いものがありました。
 道路は軍事用として整備されていました。道路は極力直線で計画されていて秦の時代は幅40〜50mほどだったと考えられています。道路には橋がかかっていて、その上を馬車で行き来している画像塼が残っています。咸陽の西南9.5kmのところで橋の遺構が見つかっていますが。直径30〜40cmの松、柳、このでがしわの丸太を2m間隔ぐらいで1列に打ち、各列の間が3〜6mあり、全長は500m、幅16mという現在の橋梁の水準からみても非常に大きな橋だったようです。
……古代日本……
日本の弥生時代の道路については、ほとんどが動物が通るような狭いものでした。やっと出来た最初の計画道路は、現在のところ福岡市の比恵〜那珂地区での3世紀初頭の70cmの側溝を持つ7m道路です。
 (造船については省略します。)

[313] 徐福の時代の中国の生活(1) by : 高木豊博 at : 2010/04/02(Fri) 22:20

 前回徐福の東渡が弥生時代にあまり影響を与えていないことを簡単に述べましたが、今回は中国側の当時の生活を通して日本の弥生時代とどのような違いがあるか見てゆき、徐福とは何だったのかを考えたいと思います。資料としては、昨年末に復刻がなった林巳奈夫先生の「中国古代の生活史」(吉川弘文館)を参考にしたいと思います。ここでは「今から三千五百年ばかり前から、日本の弥生時代に平行する時代まで」の生活史を対象にしています。

(1)身なり
……古代中国……
 古代中国では男女とも髪を結っていました。女性は長い髪を束ねて丸め、ピンで留めていました。男性は秦の始皇帝の墓から出土した兵馬俑の陶製の人形に見られるように、身分の違いにより髪の形が異なっていますが、概ね長い髪を右側か中央で束ねています。
……古代日本……
日本の女性は基本的には、後の時代と同じようにあまり結うことをしません。束ねただけというのが多かったでしょう。男性は「みずら」のように顔の両側で束ねるようにしますが、ただ頭の上で束ねたこともあったようです。
……古代中国……
 中国の服はV字形のシャツかゆったりとした羽織(衣)でそれを腰のあたりまで着ていて、その下には、はかま(裳)かズボン(袴)を履いていました。既に機織りの技術が発達していて、それで服を作っていたようです。中国人はこの羽織を着て儀式等で立った場合に両手を前に組むようにします。下層階級では褌(ふんどし)を穿いているのもいました。ズボンは短ズボンもあります。褌は南方の風俗で多分水に潜り漁業をしていたことからそれに便利なものとして南方経由で日本や中国に伝わっていったものでしょう。布の材料は麻が中心でした。
……古代日本……
日本では。男性は横幅の布をただ結束して束ね、縫うことはしていません。女性はワンピースのような貫頭衣でした。縄文時代には植物繊維で編んだズボンのようなものはありましたが、中国のように織ったものはなかったようです。しかし時代が進むにつれ機織りの技術が伝わってきます。
……古代中国……
 履物は靴が主流でした。貴族は絹製のものを履きますが、庶民は麻製のものが中心です。靴の他に中国にも「わらじ」があります。中国のものは麻製で日本は稲わらで作る違いがありますが、これは中国から日本に伝えられた可能性があるでしょう。
……古代日本……
日本の庶民はまだ殆どがはだしの生活でしたが、田下駄が使われることもあったようです。
 中国と日本の基本的な違いは、日本人は男性は「鯨面」、女性は「文身」と呼ばれるいれずみをしていました。

(2)住居と町
……古代中国……
 中国の建物の基本は、木材を建て、泥で壁を作り、上に木材を渡して屋根を支える形式のものが一般的だったようです。壁の下の方は版築(はんちく)、上の方は泥レンガで造ります。屋根には上に葦の束をのせ、スサ(短くきざんだわら)を混ぜた泥をかぶせて葺いたものです。完全に防寒の働きがあります。
……古代日本……
当時の日本の建物は南方からの影響で、壁を泥で作るという発想がなく、竹を編んだものとか木が多かったようですし、戸などはあっても日本では下から上に持ち上げるタイプで中国のように横に開くタイプはなかったようです。版築は弥生時代の後期にならないと伝わってきていなかったようです。日本は縄文時代からの伝統としての竪穴住居に住んでいました。しかし縄文時代から、木材にほぞ穴を掘るなどして組み合わせる技術が日本にはあり、のちの高床式倉庫などをつくるのに役に立ったようです。日本は基本的には南方系の建物ということが出来るでしょう。従って今になっても冬には弱い建物です。
……古代中国……
当時の役所クラスの建物ですと、まず四角い土地を版築で土を盛った上に作るようにしていました。大きな貴族以上となると建物は、瓦葺になりますし、建物の構造自体も「堂」(前面吹き抜けの部屋、「室」(四面が壁)、望楼、井戸、中庭、門、回廊など多種多様な要素が見られるようになります。
 城壁で囲まれた聚落(しゅうらく)は「邑」とか「国」とか呼ばれていましたが、この中に使われている「口」は周囲をぐるっと囲んだ城壁のことをいい、中国では版築で築いた城壁が一般的です。
……古代日本……
日本には空濠でのものは中国から伝わったようですが、この城壁は伝わってこなかったようです。

(3)什器、飲食
……古代中国……
 中国では飲食を行う場合には台の上に座り行われていたようです。この台は四角い床几と呼ばれるもので寝台を兼ねていました。座る時は茣蓙(ござ)のようなものを敷きますが、これは「席(せき)」と呼ばれていました。屏風のようなものを設ける場合もあります。いずれにしても台の上で寝るという発想は日本にはなかったようです。
……古代日本……
弥生時代の後半宮崎県で室内の周りに土を盛り上げた台状の区画が設けられた竪穴住居が多数見つかっています。その区画が外側に張り出していることから花弁式住居と呼ばれていますが、台状の形。大きさが丁度寝台と同じ程度で間違いなくベッドとして使われたと想定されていますが、台をベッドにした例では最初のものでしょう。
……古代中国……
 当時暖房用の火鉢があり、中に灰を入れ炭火をのせていました。照明は、木切れと「かおがら(大麻の繊維を剥いだあとの茎)をもやして取っていたようです。炊事道具は、ほとんどの形のものが既に出来ていたようです。釜、たらい、包丁、大なべ、つぼ、かめ、しゃく、れんげ、しゃくし、容器等々です。青銅製のものが残っていますが、木製や陶製が一般的なものだったでしょう。
 飲酒の際は、鉢や壺に入れられた酒をスプーン状のもの注いで飲んでいたようです。コップによる酒の飲み渡しも行われていて、酒壺の横には水の壺も置かれて合わせて呑まれていたようで、焼酎の水割りといったものだったでしょうか。酒には甘酒、どぶろく、日本酒のような酒などがあったようです。通常は冷やで飲んでいたようですが、燗(かん)をして飲むこともしていたようです。ちろりのようなものに漬けて燗をすることもあったようです。これらの習慣は日本には伝わって来なかったようです。

[310] 徐福のもたらしたもの by : 高木豊博 at : 2010/03/20(Sat) 21:59

 徐福が振男女三千人とともに東渡した時に「五穀百工」を伴ったと記録にあることから、徐福集団が多種多様な技術を持ち出し弥生文化の基礎を築いたという説が一般に行われています。果してそのことが言えるのでしょうか。簡単に検証したいと思います。

 資料として「日本文化の基層を探る」(佐々木高明著、NHKブックス)で紹介されている(佐々木高明、佐原眞『週刊朝日百科 日本の歴史39稲と金属器』)の「弥生文化を構成する要素」を参考にしたいと思います。ここでは弥生文化を構成している文化要素が、その起源ごとに分類されています。

(1)中国系の渡来品
 ガラス製の壁(へき)、漢の環頭の太刀、漢の青銅製腕輪、前漢・後漢の鏡、金印

(2)朝鮮半島系の渡来品
 ガラス製の玉、菅玉、有柄式磨製石剣、青銅製武器(剣・矛・戈)、各種の青銅品
 鉄製工具、朝鮮式小銅鐸、多紐細文鏡

(3)大陸から伝わった技術、習俗
 水田稲作の技術、大陸系磨製石器(石包丁など)、高床倉庫、穴倉、青銅器の鋳造
 鉄器の鋳造、鵜飼の習俗、紡織の技術、養蚕と絹の製法、卜骨(骨占い)
 水田農耕儀礼(豚の供犠)、鳥霊信仰、支石墓、多数の財産を死者に添えて埋める厚葬
 
(4)弥生文化独自のもの
 弥生土器、南海産巻貝製の腕輪とその青銅製模造品、小型の鏡、分銅形土製品
 巴形銅器(盾の飾りか)、再埋葬(東日本)、打製短剣、石戈、特殊壺と特殊器台
 銅鐸と武器形祭器の祭り、方形周堤墓、北部九州の甕棺墓

(5)縄文時代より受け継いだもの
 竪穴住居、土器製作の基本技術、土器や木器の文様、打製石器の技術
弓矢を用いる狩猟技術、有用植物の採取と利用、半栽培と畑作農耕の伝統、漁撈技術
骨角器の製作と使用、編布とその製作技術、木製品と木材加工技術、丸木舟とその製法
漆の加工技術、勾玉、二枚貝製の腕輪、抜歯の習俗

 大陸から伝わった技術・習俗については、支石墓を除き主に長江などの南方からもたらされたものと思われます。その支石墓自体の起源は大陸北部にあっても朝鮮半島経由でもたらされたと考えられます。また再埋葬などは西日本でも行われていたなどいくつかの点で変更が必要になっていると思われる要素もありますが、全体としての起源の分類はこれで良いと思われます。

 この分類を眺めると、中国北部からもたらされたものは、朝鮮系を加えてもガラスや金属に関するものばかりで、文化の基層をなす農業、住居、土器などは含まれていません。当時中国北部では牛や場合により人力で犂を用いた農業を行っていましたが、これは弥生時代には日本には入っていないようです。将棋などというと中国からもたらされたように思われますが、実は東南アジアから来たものです。当時のもので中国北部からもたらされたものは、例え半両銭などの通貨を含めても意外と少ないものです。

 もし徐福が日本に着いていたとした場合は、もたらしたものは金属の加工技術、青銅製の武器、半両銭、鏡、長粒米、舟というようなものでしょう。以前紹介した土笛、梅なども入れて良いかも知れませんが、これらは確かに弥生文化の表層の大きな要素の一つではありますが、この後の日本文化の基礎となる稲作文化としての要素が少なく、基層としての南方文化や縄文文化に飲み込まれてしまったややマイナーな要素と捉えてよいと思います。

 徐福の百工は、生活維持のための基本的な技術(農業を含む)はあるものの、鉄や青銅を中心とする金属加工技術が中心であったと思われます。

 話題を少し変えますが、徐福のことを「平和の使者」と言っている方がおられますが、これは根拠のないもので、「平原広沢を得て、王となった」とある記事は当時の常識からして武力で制圧したことを意味しています。また平和の使者が連弩を必要とすることはなく、上記の話題にみられるように金属製の武器を作る技術を持ち、それを使用し日本での上陸地の制圧を行ったと考えるのが一般的と思われます。

[309] 田主丸の伝説 by : 高木豊博 at : 2010/03/20(Sat) 07:52

やっと日本に戻りました。また時間が有れば徐福について考えていることを投稿します。さて逵さんは田主丸に行かれていたとのことですが、田主丸の伝説を紹介します。

水縄(耳納)山地の耳納山に伝わる物語があります。田主丸町(旧石垣村)の石垣山観音寺の坊さんと化け物との話です。

今から800年ほど前の話です。観音寺は、耳納連山の最も高い鷹取山の麓に建っています。そのあたりの村人が、絶え間ない山鳴りに悩ませられていて、どうしたら良いものか観音寺の坊さんの、比叡山で修行を終えたばかりの金光坊に相談しました。

坊さんは考えた末に、その夜化け物を退治しましょうといい、夜が更けて、右手に1振りの剣をもって、力自慢の村人2人を連れて山に入りました。坊さんは「声を出さないように」と言い聞かせ、自分は御経を唱え始めました。「化け物よ。もし何か言いたいことがあれば姿を表しなさい」と何度か心の中でつぶやいた時、それまで静かだった山が根こそぎグラッと動き、それがあまりにも凄まじかったものですから、村人の2人は生きた心地もしませんでした。

その時です。高さがゆうに5mをこえるような化け物が現れました。体は真っ赤で筋肉が隆々と盛り上がっています。首から上は牛です。牛の角は、他のものを一気に突いてしまうほど鋭いものです。化け物は坊さんに襲いかかろうとしますが、読経に阻まれます。「観念せい!」と立ち上がった坊さんは、いきなり化け物の手首と耳たぶを切り落としました。痛さでしゃがみこんだ化け物は、不思議と泣き出してしまいました。

「吾ら鬼は、村人に危害を及ぼすつもりはまったくないよう暮らしてきました。しかし誰かが谷川に毒を流し、そのためこのような化け物の姿となってしまいました。言うかたなく人間どもに復讐しようと考え、山を鳴らすような仕業をしてしまいました」

これを聞いた坊さんは、生き物はお互いに助け合って生きているのに、人間が谷に毒を流し、このようなことになったことに、人間への非常な怒りを覚えました。そこで切り取った手首は寺の宝として朝夕御経を唱え供養し、耳たぶは、切り落とした足代(耳納山の旧名)の山中に埋めることにしました。「耳納」の名前は、この化け物の耳を山の中に納めたことから来ています。

金光坊は、高良山で出家し、比叡山で修行後、天台の教えを得て観音寺に戻り、灌漑や治水に努力され寺の中興を果たしました。物語のこの頃の話でしょう。その後法然上人に帰依して陸奥国に渡り生涯を終えたと伝えられています。

水縄(耳納)山地は九州でも有数の水縄活断層(L=25km)があり、西暦679年(天武7年)にM7.1程度の地震を起きています。田主丸アスレチックの南側には活断層が引き起こす大露頭があり、今もずれを起こしています。800年前にも地震にともなう山鳴りやゆれがあったのでしょう。また化け物が出来た毒とは水銀のようなものでしょうか。

[308] 「徐福検定」地域編合格認定書 by : 鳥居人持 at : 2010/03/17(Wed) 08:43

木村さん:「徐福検定」地域編 合格(100点満点)おめでとうございました。
木村さんと徐福伝説とのかかわりは突然私に電話を貰った時からだと思うのですが短期間に地域編をマスターされたことに敬意を表します。

以下重複しますが、校長先生の話を私にも聞かせてください。
串本古座高校 マンスリータイムス(2月号まで)を見て思ったのですが、串本古座高校は大変ユニークな教育をしていますね。

[307] 徐福とさくら by : 鳥居人持 at : 2010/03/17(Wed) 08:13

志保さん、" 桜に罪はないということで今も満開の桜が咲くのだそうです。"

云い話ですね。中国人にもそのような心優しい人が居るのですね。
日本人特有の惻隠の情も徐福さんが持ち込んだのかも知れませんね。
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ(紀友則) の「はな」は桜、桜は枚方市の花に制定されています。
4月3日には枚方の天の川でさくらまつりがあります。

桜は万葉集にも歌われていますね。
“梅の花、咲きて散りなば、桜花(さくらばな)、継(つ)ぎて咲くべく、なりにてあらずや”作者: 藥師張氏福子 藥師というのも気になりますね。
天平2年1月13日、大伴旅人の邸宅で催された宴会のときに詠まれた歌だそうです。
徐福さんが来た時には桜はなかったようですね。

“たけし”に黒沢明より上位の叙勲をしてみたり、ザ・コーブ(そもそも何でザを付けるのか)に賞を与えたり、
どうも赤毛のすることは理解し難い。やはり、キップリンの「東は東、西は西」と云うのは至言ですね。
これも徐福さんの遺伝子が混ざっている?からだろうか?

話が豚(中国語では猪)だ?方向に向かったが 徒然ならざる今日この頃なればお許しください。

木村さん;串本古座高校 マンスリータイムス(2月号まで)を見て思ったのですが、串本古座高校は大変ユニークな教育をしていますね。校長先生の話を私にも聞かせてください。

[306] by : 逵 志保 at : 2010/03/05(Fri) 00:40

鳥居さん、もう春なので次は桜の話を…というわけでもないのですが、この時期になると武漢大学にいらした日本語の先生(日本人)の話を思い出します。戦中、日本軍が故郷を思って学内にたくさんの桜の花を植樹した。戦後、この桜は屈辱的だから抜いてしまおうという話があったけれど、桜に罪はないということで今も満開の桜が咲くのだそうです。そんな場所はいくらでもありそうですが、人がモノが単純に移動するのではなくそこにある背景、知っておきたいですね。
木村さん、「串本の徐福を認める発言」はどういうものだったかも教えてくださいね。

[305] 串本の徐福を認めた校長 by : 木村正治 at : 2010/02/26(Fri) 18:03

早速、認定書を送っていただき有難うございました。
 ここ3年ほど集中的に、徐福に取り組んだ知識が生きました。また忘れていたことなど思い出すことが出来ました。
 新宮徐福の袂にあって、なお忘れられ埋もれていた串本潮岬の徐福の発掘、またそれが認められていくのは容易ではありません。
 しかし望みが無い訳ではありません。
先日、串本古座高校の校長先生が、串本の徐福を認める発言をされていましたので、徐福の諸先輩に報告させて頂きます。

[304] チョコの話、ちょこっと書きます。 by : 鳥居貞義 at : 2010/02/24(Wed) 11:58

志保さん、チョコの話、ちょこっと書きます。
有名ブランド?「ルタオ」の由来分かりましたか?何と道産子、小樽のカタカナ逆読みでした。
ところで、七夕とバレンタインを合体させることで、中国の先生が生徒に西洋かぶれはよくない
ことだと教育的指導?をしていました。それでも若者パワーには敵わないようです。
一番迷惑しているのは聖人バレンタインさんでしょうね。
神聖な?掲示板に書くテーマではないのですがたまにはお茶ブレークにしましょう。

[303] 「徐福検定」「七夕検定」 by : 鳥居貞義 at : 2010/02/24(Wed) 11:05

木村さん、「七夕検定」上級編押印済みの認定書を本日送ります。「徐福検定」は上級編が完成していませんので、「中級編」を「地域編」に変えて押印済みのものを送ります。勿論どちらもラミネート加工していますので、パソコン上で出来るユビキタス検定をPRしてください。

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