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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[324] 徐福の伝説・伝承について by : 高木豊博 at : 2010/05/05(Wed) 12:37

 私は徐福の伝説や伝承については逵志保さんほど詳しく調べている訳ではありませんが、現在はどの伝説・伝承もあたかも全て真実であるとして扱われて、徐福というキーワードが入っていれば何でも通るというような印象を受けます。しかし、その殆どが後世その地域を印象付けるために徐福を利用しているように思えるものです。伝説・伝承を歴史の真実と区分するためには、きちんと規準を設けおかしなものは除くべきでしょう。

 私は伝統・伝承を否定しているものではありません。その中には後世実は本当だったと分かるものが含まれている可能性があります。そのためには、その伝説・伝承の背景をさぐり、むやみに否定しない配慮も必要でしょう。例えば熊野市波田須の地では、徐福の宮の参道で秦の時代の半両銭が発見されていますし、かなり古い釜所(かまどころ)という中国伝の擂鉢もあり、製鉄の際にできる?(けら)の見つかった京楽尾(けらお)という場所もあります。熊野地方は、これらを含め、以前書いたように徐福と縁がある地域と思われます。

 現在の水準でおかしいと思っても、じっくり検証すべきでしょう。例えば血液型による性格判断があります。今でもそうですが、「これは科学で立証されているものではなく、占いのような迷信と一緒だ」という人が殆どです。しかし現在遺伝子や血液型物質と抗体の研究等から、実は血液型と人の性格、病気に対する抵抗性、合わない食べ物などが密接な関係にあることが分かってきました。ABO式では、血液型は赤血球の表面につく糖鎖(とうさ)で区別されます。これが抗原・抗体反応を起こす原因になります。実は植物、動物、病原体などは全て血液型を持っていますので、これとの反応関係でいろいろな表情が出てくることになる訳です。抗体とは、異物の処理を目的に、リンパ球が作る免疫物質です。

 ちなみに人間の血液型は、食べ物に含まれる腸内細菌のA型やB型遺伝子が体内に入り「トランスフェクション」と呼ぶ「遺伝子移入」が原因で区分がなされたようです。人類が誕生した500万年前から紀元前3万年前までは、人類の血液型は全てO型でしたが、紀元前2万年前後に穀物を作り始めた農耕民族にA型が発生し、紀元前1万年前に乳製品を取る遊牧民族にB型が発生します。AB型が発生したのは、たかだか1000年前です。冗談ですが、あれこれ悩んでいた紫式部がAB型の血液を生んだのかも知れませんし、徐福は絶対にAB型ではないことは確かです。いずれにしても、伝説・伝承は偏見で判断をせず、きちんと検証する必要性があるでしょう。私が1年半ほど前から山口県の土井ヶ浜遺跡について書いていますが、紹介した2枚の徐福の名前が記載された中国の古地図がなければ、この地域は徐福研究の対象外でした。これが分かり、徐福の謎が少しずつ分かりかけてきました。

 伝説・伝承の点で、一つ例を示したいと思います。『矢部風土記』という書物があります。江戸時代後期に熊本県矢部地方の伝説・伝承を集めたものです。発行者、発行元、発行日時等、巻末にきちんと記されていますので分かっています。現在多分原本が九州大学の倉庫に眠っていて、明治時代の終わりに書写したもののコピーが山都町の図書館が1冊、それをコピーしたものを1冊私が持っています。他にコピーを持った人もいないようで、殆どの方が知らないものです。その中に面白い挿話があります。「景行天皇が九州に巡幸した際に、椎葉村と矢部(山都市)の境の国見岳(1739m)に登り国見をした際に、遠くの方に山(多分阿蘇山)から火が出ているのを見て、その国を火の国と名付けた」というものです。「火(肥)の国」の由来については、現在やはり景行天皇が葦北から船に乗った際不知火海の火の光を見たことから名づけられたものと崇神天皇が建緒組(たけおぐみ)という土蜘蛛を討つ時に、同じ八代郡白髪岳に至った時に夜空から火が降ってきたことから「火の国」と名付けたとの2つの話しかありません。もし紹介した話が加わると面白いことになります。

この場合九州全体を見て国見をするという話が『記紀』にはありませんので(南九州の高千穂や大分の低い山の2つほど)、実際は何らかの事情で抜けている可能性があります。ただ火(Hi)と肥 (Fi)の音の違いには気をつける必要があります。上記の『矢部風土記』には、「神武天皇が可愛がっていて鳥を、孫の建磐龍命(たけいわたつのみこと)が熊本に入る際に持っていき、これを放った場所を、この鳥の名前が緑丸だったということから、緑川と名付けた」というものもあります。建磐龍命は阿蘇神社の主祭神です。中世の阿蘇地域の戦乱を知られていない事項も詳しく記述してもいて、その点では資料的価値があるかも知れません。

伝説・伝承は、非常に面白いものです。大事にしながら、しかしその背景、内容などを精査して徐福研究を一層深めたいものです。

[323] 髭の鳥居さん by : 逵 志保 at : 2010/05/02(Sun) 00:27

GWになってようやくこのページに来る時間ができました。
徐福伝説とはいかなるものなのか、これほどまでに夢中にさせるものは何なのかと久々に考えさせられたBBSです。
ところで鳥居さん、私の記憶が確かならば四捨五入したらまだ古稀でしたよね。髭がかなり仙人にさせているのだなあと…。

[322] 失礼、米寿→仐寿 by : 木村正治 at : 2010/04/30(Fri) 17:57

大変に失礼しました。仐寿手前の間違いです。

[321] わたしは喜寿 by : 木村正治 at : 2010/04/30(Fri) 17:49

 還暦をとうに過ぎた高木さん、鳥居さんは米寿手前?でしょうか。しかし、そのお元気さには驚かされます。
 私はちょうど喜寿です。お二人には色々あやかりたいとつねづね思っています。
 徐福伝説の誤りを正しながら、どう後継者に伝えてゆくか、串本の徐福にとっても喫緊の課題です。
 串本の橋杭奇岩、「一つ二つと橋杭立てて、心届けよ串本へ」と歌われますが、今尚、弘法大師と天邪鬼の攻防の結果と喧伝されています。
 そんなことを信ずる人は誰もいませんが、観光的な話題に、為になされます。
 徐福伝承地でもこれに良く似た話が伝えられています。
 それらは伝説、お話として承りますが、徐福研究、特に科学的考証、歴史の真実としてのそれには、そぐいません。
 それでは、そうした伝説の類、捏造されたものは、全く価値の無いものなのでしょうか?
 お尋ねしながら、続きを述べたいと思います。
                   つづく
                     

[320] 徐福研究のあり方 by : 高木豊博 at : 2010/04/22(Thu) 20:26

鳥居先生

先生にお褒めの言葉を頂き、恐縮の限りです。今まで徐福については研究らしい研究が行われてこなかったために、各地での殆どが江戸時代に出来た伝承・伝説によりかかり、精査も行われず、その結果先生が捏造と言われるまでに至ったことは残念なことです。不確かなもので町おこしのようなものも行われていますが、かなしいですね。

まず何よりも「上記(うえつふみ)」などの偽書を廃すべきです。次に徐福が神武天皇などと云ったものや、伝承で考霊天皇の時などと最もらしく記されているものは、現在の歴史の成果からは全く有りえないもので除くべきでしょう。江戸時代の人の名前がでてくるのも有り、これもおかしいですね。私の意見は過激のようですが、歴史の重みというものを考えると当然なことと思います。これなくして徐福研究の明日はないでしょう。

捕鯨については、5、6カ月ほど前に私が書いたものがありますのでそれを参照してください。中国との共同研究などが出来れば素晴らしいですが、私のように還暦をとうに過ぎて、中々新しい知識が頭に入っていかなくなった人間には難しいですね。しかし、勉強は続けていきたいと思っています。

木村さん

木村さんからも励ましの言葉を頂き感謝しています。何か書いてみようという時の力になっています。

[319] 捏造される徐福伝説 by : 鳥居貞義 at : 2010/04/21(Wed) 13:02

まえがき
高木さん頑張ってますね。高木さんのようなアプローチの方法は徐福伝説研究に相応しいものと考えます。
捏造される徐福伝説という原稿を書いたのですがあまり刺激的な文をアップすることもどうかと思って、
出来るだけソフトな文言にしようと考えて温めていましたが異常気象下?の寒さではなかなか温まりませんでした。
しかし、高木さんの文章を読んでよい見本として紹介する好機と考えました。
このような文章を中国の友人にも読んで貰う機会を持ち、共同研究すればより良い成果が上がると思います。
実は捕鯨の技術を徐福が日本に伝えたと云うのも捏造ではないかと云う疑問があり、以前から中国側にも共同調査を
提言しているのですが残念ながら反応がありません。
捕鯨の問題を前進させる為にも五穀の研究調査は前回の国際会議でも提案されているので是非進めて欲しいと思います。

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捏造される徐福伝説
「捏造されたヒーロー 遠山金四郎」 棚橋正博著がNHKで紹介された。
桜吹雪の刺青をはじめ、ほとんどが捏造されたものであることを克明に調査している。
そういえば、有名な秀吉の「草履取り」も後世の講談師の作り話と云うことになっている。
徐福伝説も次第に世間に知られるようになって、世間では善悪両面からの捏造が多く見られるようになった。
もう少し科学的根拠に基づいた議論をしたいものです。

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あとがき
『不老を夢みた徐福と始皇帝』ー中国の徐福研究最前線」池上正治編の中に
李連慶先生の中国徐福会発足の趣旨説明が徐福を研究する意義及び方向は」(3頁→14頁)に明確に示されている。
我々が現在やっていることの大方はこの趣意書に従っているが、尚足らざる点を進めたいと思う。

[318] 徐福と大豆 by : 高木豊博 at : 2010/04/17(Sat) 16:45

 私はおかずに醤油をつけて食べるのが大好きで、「そんなにつけたら血圧が上がるよ」といつも皆さんからお叱りを受けています。しかし好きなものはしょうがなく、ひょっとして顔まで醤油顔かも知れません。その醤油の原料になる大豆が徐福と関係があるようですので、それを探ってみたいと思います。

 大豆の祖先はツルマメという雑草です。それがいつ大豆に変わっていったかは不明ですが、日本でいえば4,000年前の縄文時代後期位の辺りでしょうか。中国では東北部(満州)で栽培されていた大豆を、紀元前7世紀初め斉の恒公が満州南部を制圧した際持ち帰り、戎菽(チュウシュク)と名付けたことから、満州が発生地だという説が生まれましたが、現在はインドネシアや中国南部にも見られることから、発生地が南でそれから中国全土に広がったという説も有力になっています。

 大豆は栄養分が豊富で、日本やドイツでは「畑の(牛)肉」、アメリカでは「台地の黄金」、現在では「ミラクルフード」とまで言われるようになっています。それを証明するように古代の中国では最も古い医学書である『神農本草経』に見られるように、食べ物としてだけではなく解毒剤や塗り薬としても用いられていたようです。

 中国での大豆の栽培は紀元前7世紀以前には行われていて、代表的な食べ物であったようです。主食の穀物の総称をよく「五穀」とよびますが、これは五行説に影響を受けた戦国時代以降のことでその前は「百穀」と総称していました。この「五穀」を記した古典の中には必ず大豆が入っています。
 『周礼』天官の鄭玄の注     :麻・黍(きび)・稷(あわ)・麥(むぎ)・豆
 『孟子』膝文公上の趙岐の注   :稻(いね)・黍・稷・麥・菽(まめ)
 『楚辞』招魂の王逸の注     :稻・稷・麥・豆・麻
 『黄帝素問』蔵気法時論の王冰の注:粳米・小豆・麥・大豆・黄・黍
 ちなみに「穀」の意味は「堅い殻に包まれた穀物の実」という意味で、日本では「たなつもの」と呼び「種をつけるものとしての稲」を表しています。大豆は『史記』によれば「五穀」の一つであり、歴代の皇帝みずから種をまくような重要な「五穀豊穣の儀式」で使われていたように、大事な穀物だったようです。
 
 日本では、縄文前期(約6000年前)の山梨県北杜市の天神遺跡から大豆になる前のツルマメやシソなどが発見されていて、福井県三方町の鳥浜遺跡からはもやしの原料になる「リョクトウ」が発見されています。また前期中頃から中期の三内丸山遺跡からも「リョクトウ」が発見されています。その後の時期のものとしては縄文時代中期の同市の八ヶ岳山麓の酒呑場(さけのみば)遺跡や韮崎市の女夫石(めおといし)遺跡から出土した土器に、数多くの小豆の種子とともに野生の大豆痕が5点発見されています。野生の大豆は普通4.5ミリ程度であるが、ここでの大豆は10ミリ前後と大きなものです。そのため大豆の発生地が日本ということもあり得るようになってきています。この5点のうち4点が扁平型をしていて、1点が楕円形です。

その後縄文時代後期〜晩期の遺跡として長崎県大野原(おおのばる)遺跡、同礫石原(くいしばる)遺跡、熊本県の三万田(みまんだ)遺跡からは粘土を焼いた時にできた大型の豆の圧痕が発見されています。これらの圧痕跡は全長約10〜15ミリで、同県のワクド石遺跡出土の土器では、大型の豆の「へそ」の部分も確認されています。分析の結果、これらの大豆は、栽培種の扁平型大豆という結論が出されている。また熊本県の上南部(かみなべ)遺跡や石の本遺跡から発見された土器には小豆と思われる痕跡が見つかっています。その他として、穀物を食べる「コクゾウムシ」の痕跡が山梨県都留市の中谷遺跡や熊本の遺跡から発見していて、中部や九州における穀物の栽培が確実に縄文時代に行われていたことが証明されています。ただし山梨県や九州で発見された豆は、同じマメ科のリョクトウの可能性があるともいわれていますし、弥生時代の大豆とは形が異なっています(扁平)ので、弥生時代のものとは区別すべきでしょう。

 弥生時代に入ると山口県下松市の宮原遺跡から、昭和47年新幹線の工事現場から最古の4粒の大豆が出土しています。その後弥生中期にかけての山口県の美弥市の下村遺跡、弥生後期の静岡県の井場遺跡、滝川遺跡、群馬県の八崎遺跡、千葉県阿玉台北遺跡や秋田県小森山遺跡から大豆が出土していて、大豆の栽培が西日本から東日本に向かい波及していっているのが分かります。平安時代の『延喜式』には、壱岐が大豆23石を納めたとの記事があり、壱岐のみが大豆を納めうる一代産地であったことが分かります。大豆の最古の記録としては、薬用として大豆を下附するよう申請した僧の書状が正倉院に現存していることですが、『記紀』には「オオゲツヒメ」が亡くなった時死体のお尻から大豆が生じたことが書かれています。

 この弥生時代の実際の大豆の広がりをみていくと、山口県からスタートしており徐福が上陸した土井ヶ浜に大豆が最初に持ち込まれた可能性が高くなると思われます。前述したように、斉の恒公が大豆を中国に持ち込みましたが、この斉は徐福が生まれ育った場所(山東半島一帯)です。当然大豆の栽培が盛んだったと思われます。徐福の上陸地は、中国側から日本を描いた最古の地図で1360年頃作成された2枚の地図、『声教広被図』、『水東日記広輪彊理図』に「徐福相」、「徐福祠」とはっきり徐福の名前が記載されている長門(山口県)西部の土井ヶ浜です。まさに『史記』の伝える「五穀」のうちの「大豆」が土井ヶ浜から始まったといえますし、壱岐については航路からみて徐福船団の一部が上陸し、そこで大豆を植えた可能性があるように思えます。

ところで私はお酒が好きですが、大豆を枝豆として食べる風習は平安時代に始まったようです。

[317] 訂正 by : 木村正治 at : 2010/04/04(Sun) 15:57

エルトゥールル号

[316] 串本の徐福と稲生淳 by : 木村正治 at : 2010/04/03(Sat) 16:29

 高木さんには、真に的を射た徐福研究を発表されますので、いつも興味深く拝見しています。
  私は、ようやく会社の決算済ませたところです。
 鳥居さんからお尋ねのあった「串本古座高校長」の、串本の徐福発言について申し上げます。
 発言の載った新聞を紛失しておりましたので、発言者の本人に確認すべく行動したのですが、既に和歌山市の「和歌山県教育センター学びの丘」所長として転任されていました。お会いするには今しばらく時間を頂きたいと思います。
 新聞の内容については、これから新聞社にもあたりますが、記憶の範囲で言いますと、古座串本の意義ある歴史を述べる中で、自ら留学されたイギリスの南端と熊野の南端の、縄文時代以来の相似性を指摘しされ、徐福の渡来を傍証とされていたように思います。
 この先生は「稲生 淳」と申されます。インターネットで検索してみてください。有名な「エルトグルル号」の論文などに触れることが出来ます。
 私としては、両南端のストーンヘッジと潮岬遺跡の太陽祭祀遺跡とを重ねております。

[315] 徐福の時代の中国の生活(3) by : 高木豊博 at : 2010/04/02(Fri) 22:25

(6)娯楽
……古代中国……
 戦乱に明け暮れていた当時の人々の楽しみは、まず狩猟でした。食料の確保、軍事訓練という目的で王候が楽しむのに合わせて、人々も楽しんだようです。大きなラケットのような網を使ったり、犬や鷹で獲物を追ったり、騎乗や馬車から弓を得てみたりしていたようです。市井の野外の楽しみとしては、犬の競争や闘鶏があったようです。
 室内のゲームでまずは円や四角い線が刻まれた盤上で、双六であがりを競う六博というものがあります。18面体のサイコロがあり、「酒来」という文字が刻まれていることから酒を飲んだ時に遊びとして使われたと思われます。縦横17本ずつの線が刻まれた碁盤があり、白黒の石を使い現在のように陣取りを楽しんでいたようです。投壺(とうこ)という遊びもあります。これは矢を投げて壺に入れるゲームで確か「レッドクリフ」という映画の中に出てきていたと記憶しています。
 また生前か没後の祭祀か不明ですが、音楽や芸能を楽しんでいたことを表した画像石があります。ここでは剣を使った曲芸、子供をつるした棒を頭の上に載せバランスを取っているもの、7つの皿の上で舞うもの、いろいろの音色の音楽を合奏しているもの、獣にふんしたもの、騎乗で曲芸を行っているもの、皿回しなどなど様々なものがあります。曲芸は楽器の演奏に合わせて行われていたようで、非常に賑やかなものだったと想像されます。
 楽器としては、横笛、ハープ、青銅の鐘や鉦、竽(う)、磬(けい)、琵琶、太鼓、オカリナ(土笛:塤)、笙、革袋などがあり、日本では以前紹介させて頂いたように土笛の出土例が知られています。
……古代日本……
青銅の鐘と銅鐸の形は似ていますが、日本の銅鐸は四川省や雲南省で出土例のある鐘が稲とともに伝わってきたものと考えられ、私としては中国からの影響ではないように思いますが、両方がかみ合ったものかも知れません。

(7)武器、戦争
……古代中国……
 中国では、新石器時代に既に空堀がある村があるように、絶えず外の敵からの攻撃にさらされていました。そのため武器の発達に目覚ましいものがあります。この時代の主な武器は石、木の棒、弓、戈、盾(干)、短剣、長刀、戟(げき)などですが、このうち青銅製の戈が出来ます。これは刃の下側の柄に接する部分が下に垂れ、切り先を的に打ち込んだり、相手の首を引っ掛けたりする武器です。「干戈を交える」という言葉がありますが、これは戈と盾(干)を持った人間が闘うさまを表しています。
 青銅の武器としては次に矢の先につけるやじりが現れます。石、骨や鉄など多種なやじりも見られますが、青銅のものが最も普及していたようです。短剣から発達した剣・長刀なども青銅製のものが見られます。
 戦いは5人1組で行われていたようです。上記のあらゆる武器を使い戦います。当時の戦士は頭にまげを結っていましたので、それを掴まれると逃げようがなく、首を取られてしまいます。日本の銅鐸に、片方の手で相手の髪を掴み、片方の手に多分剣と思われるものをまさに振りおろそうとしている図が描かれているものがありますが、丁度それと同じ光景が青銅器のたらいに描かれたものがあります。戦いについては以前舟の歴史のところで述べていますので省略させて頂きます。
 すぐに弩という武器の登場となります。弓を「小銃の木部のような棒状の材の先に水平にくくりつけ、弦を引いて手許の方に突出した掛け金に引っかけ、矢を木部の上の溝に載せて番え、小銃と同じ形の引金を引くと掛金が前に倒れ、矢が放たれる。」というものです。非常に強力な武器です。
 武器があれば防護服としても鎧が登場します。小札(こざね)を結び全身を覆う青銅製の鎧が登場しますが、鉄製や革製も多く見られます。頭を保護する兜(冑)も発達しました。
……古代日本……
 弥生前期には、細形の銅剣、銅戈、小型の銅鐸などが、九州北部・中国・四国等に現れます。しかし武器の質も量もはるかに劣っていました。武器や鎧かぶと(冑)の技術は、後に日本に伝えられたようです。同じような形式がみられます。
 
(8)文書・書物
……古代中国……
 文字が出てくるのは、亀の甲や牛の骨に、占用としての甲骨文字がでてきます。骨に刻む関係からか、垂直、水平、斜めの直線が使われています。亀の甲が割れる時に「卜」字形の線になるように、裏側に細い縦溝を掘りその横に円い孔を彫ったため、下側を火で炙った時にはっきりと「卜」の字が出るような仕掛けになっていたようです。しかしこれでどうやって占ったのかは分かりません。この占方法は、弥生時代の日本にも入ってきています。
……古代日本……
 文字はかなり遅れて日本に入ってきたのではないでしょうか。中国では大鍋などの青銅器に文字が刻まれていて、広く文字というものが知られていたようです。しかし各地で異なった字形となっていたため、秦の始皇帝は各地で使用されている文字を統一しますが、徐福であればこの文字を日本に伝えたと思いますが、その証拠はまだ見つかっていません。弥生中期になると文字が刻まれた鏡が見つかりますが、それを分かるまでになっていたかは不明です。
……古代中国……
 占いと同時に易が流行していました。易は八卦で占います。1本の横棒と中央で2つに折れた横棒を3段に重ねて8種の組み合わせを作ります。紙も漢の蔡倫が発明する前に既に出来ていましたが、一般には普及していませんでした。記録は木簡という幅8ミリ程度の木に書き込み、それを糸で束ねていました。解いた時に書かれていた文章全体が「編」で、それを丸く束ねたために「巻」という言葉ができました。
 文房具類も発達していました。筆、筆筒、墨、硯、小刀(書刀)、牘(とく:木の板、現在のメモ用紙)、算木(現在の計算機、加減乗除の他ルート計算もできます)、天秤の分銅、
それらを入れる籠などです。現在とあまり変わりがなさそうです。
 印も発達します。普通粘土に押し封印という意味で使っていました。
……古代日本……
日本のような国には金印の「漢委奴国王」のようなものを渡していたようです。今の日本人は印鑑が好きですが、そのルーツは中国ですが、弥生時代の日本では上記の金印の他は出土していません。

(9)神々
 青銅器には異形の神々が描かれていますが、日本人にはややどぎつく感じるもので、青銅器に描かれているもの以外は、土器に竜の絵が見える程度であまり関心がなかったのではないでしょうか。

(10)祭祀
……古代中国……
 中国では、版築で四角い土壇を作り、いろいろな祭祀を行っていたようです。この祭壇の周りには、祭祀孔が掘られ神様に捧げられたものが納められていたようです。ここにはいろいろな素晴らしいものがあり、金細工、青銅のかざり、玉器、壁、軟玉、装身具、象牙などの他、犠牲になった動物も埋められていました。
 祖先の魂(神)を宿す器具としては「主」というのが知られていました。方形で中央に孔があいている形のもので「社」と呼ばれていました。生垣で囲まれた社の中央に木が植えてあった例もあります。方形の社を円く囲む土壇もあり、「上円下方」という形を表していて、この形式は日本の前方後円墳に影響を与えます。

 ざっと徐福の生きていた時代の中国の生活をざっと見てきましたが、日本の弥生時代、特に前期・中期には中国の文化と共通するものが少なく、徐福の影響はほとんどなかったと考えざるを得ません。これは、出発時は例え大船団であっても逃亡、嵐や弱い構造の船であることによる遭難、食料不足、病気等のため、バラバラな漂流船となり資材をなくし、日本の各地にたどり着くこととなった。そこで生きていくための最低限の生活を強いられたが、幸い青銅という武器を携えていたため残った少数の船で沿岸の村々を襲い食料を確保したこともあったのではないでしょうか。そして現在紀元前1000年に始まるとされる、既にそれなりの発達を見せていた日本の弥生文化に呑まれていくこととなったのではないでしょうか。

 今の徐福研究に言えることは、イメージだけを先行させ肝心な文化比較等の基本的な作業を怠ってきたため、本当の意味での研究というものになり得ていないことです。

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