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10月24日午後から11月7日午前の間に、別形式の掲示板に投稿していただいた内容は、以下のページにてご確認いただけます
http://jofuku-net.com/modules/bbs/

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[519] 象山から帰りました by : 逵 志保 at : 2016/06/20(Mon) 00:19

6月16日、2016中日韓徐福文化象山フォーラムから帰りました。
詳細は改めてお伝えしたいと思います。

[518] 「徐福縁たより」送りました by : 逵 志保 at : 2016/03/28(Mon) 23:50

逵が徐福を縁に出会った方に勝手に送りつける「徐福縁たより」を27日に送信しました。このページ「コラム」にも本文は貼り付けてありますが、写真もあわせてご覧になりたい方、ご連絡ください。

[517] ありがとうございます by : 逵 志保 at : 2016/01/18(Mon) 01:58

後藤さん、ありがとうございます。私も更新しようと思っていました。

[516] 新刊 by : 後藤幸彦 at : 2016/01/17(Sun) 15:53

先古代史の会会長の前田豊が、徐福関連の書を上梓しました。
「徐福と日本神話の神々 彩流社刊 2000円+税」
薬草探し以外の歴史研究としての徐福研究のはじまりです。

[515] 新刊書 by : 後藤幸彦 at : 2016/01/17(Sun) 14:56

テスト記入

[514] 今年もよろしくお願いします by : 逵 志保 at : 2016/01/17(Sun) 09:49

1月16日、出したい出したいと思いながら延ばし延ばしになっていた「徐福縁たより」(私から徐福で出会った方に勝手に送りつけるおたより。ご希望の方がいらっしゃいましたらE-mailアドレスをお知らせください)をようやく書きあげて送りました。
早速各地から返信があり、私の知らないところでさまざまな徐福に関する動きがあることを改めて知りました。
どうしても山積みになってしまう日々届く資料。電話やFAX、
E-mailでの日々の徐福に関する各地とのやりとりも、これを記録しておいたら面白いだろうと思うのですが、それがなかなか続きません。
というわけで、今年はこのHPを自分の徐福のデスクと考えることにして、できるだけHP上に記録してみようかと、いま多くの返信をいただきながら思いつきました。
どうぞよろしくお願いします。

[513] 訂正とお詫び by : 後藤幸彦 at : 2015/11/24(Tue) 21:01

当方徐福の研究をいたしておりますが、その中で、土井ヶ浜人類学ミュージアム名誉館長の松下孝幸氏が中国において大量の甕棺を発掘したといいふらしたのですが、実際には、彼は砲弾型の甕棺を1個のみ発掘したということです。
当方の大変な誤解でしたのでここに訂正し、お詫びもうしあげます。

[512] 有難うございます。時々お邪魔します。 by : 高木豊博 at : 2015/10/10(Sat) 17:31

徐福の問題は、今の日本に取り邪馬台国の次ぐミステリーと考えます。情報も非常に限られていて、小論文としてまとまって記述することが非常に難しいテーマです。それでも残るいろいろな考古学の資料から見えてくるものがあります。

土井が浜の人骨は山東半島の人々のものと同じですし、抜歯の場所も同じです。山東半島は斉の国でした。太公望の出身地です。この人たちはもとは、黄河のずっと西の方から来たことが分かっていて、紀元前の山東半島のリンシという町の人骨はヨーロッパ人種であることが、東京大学と北京大学の調査で分かっています。

徐福が山東半島の人たちを連れてきたのであれば、ヨーロッパの人種としての血を若干でも受け継いだ人々でしょう。徐福の徐族は昔から海洋と縁がありました。海の道案内をしていたようです。徐福が何故選ばれたかについては、このことから探ることは可能だと思います。

わずかな手ごたえですが、段々と徐福の全貌が見えてきています。私もアフリカから戻ったばかりで、なかなかまとめて資料に当たることは難しくできることは限られていますが、この掲示板に少しずつ投稿して行きたいと考えていますので、よろしくお願いします。そうなれば、他の皆さんもまたこの掲示板を注目すると思います。

[511] ありがとうございます by : 逵志保 at : 2015/10/02(Fri) 00:41

高木さん、ありがとうございます。
高木さんのように、いろいろなご意見がここに書き込まれるようなものになるといいと思っています。

[510] 何故日本に徐福の記録がないか by : 高木豊博 at : 2015/09/20(Sun) 23:49

紀元前210年徐福の船団は中国を離れ、日本に向かい山口県の土居ヶ浜に到達します。そこから各地に向け、非常にゆっくりと進出していきます。しかしこのことが、日本の歴史の記録の中ではほぼ忘れられているようです。そこで何故そうなっているのかについて、少し考えてみました。原因は主に4つあると思います。なお各地に残る伝承は、全て修験道の荒行の地に徐福を祭ったことで生まれた後代の作文です。

(1)刻木結縄での記録では十分な歴史は記録できない
まず古代の日本では歴史というものは、どのように記録されて来たのでしょうか。まず木に刻みあるいは縄に結った方法があげられます。
随書倭国伝では、「無文字,唯刻木結縄。敬仏法,於百済求得仏教,始有文字。」とあり、「文字はなく、唯木を刻み、縄を結うのみ。仏教が伝わって初めて文字が表れた」と書かれています。古代は、文字変わりに縄が使われていたようです。漢字は支配者の一部しか理解出来ないものだったのでしょう。文字が記録された銅鏡もありますが、ただ模様として眺めていた可能性があります。
「二中歴」という鎌倉時代初期の歴史書には、「年始五百六十九年 内卅九年 無号不記支干 其間刻木結縄 以成政」とあり、年号が始まる前39年間は「刻木結縄」で政治のことが記録されていたと書かれています。また明要という6世紀中頃の年号の記事に「元辛酉文書始出来結縄刻木止畢」とあり、「元年の辛酉の年に、文書を書くことが始まり、縄を縫い、木を刻むという記録が停止された」と書かれていて、当時の状況が見えてきます。古代は、木や縄を用いて歴史をも記録して来たのです。
縄による記録方法は、沖縄に藁を結った記録が残っている(藁算)のみで、本土では記憶が薄れてきていると思います。沖縄では税金を管理する際に使われていたようで、縄の結び目の方法で、大小、暦日、数量、男女などを表現したものです。この縄による記録方法は、古代中国でも使われていたことが「易経」などの記事にあります。
本土での縄の記録のヒントになるのが、神社における注連縄(しめなわ)です。注連縄は神聖な場所や清純な場所に人々が立ち寄らないようにする、一種の区画ですが、神社では正面に配置されていて、皆さんが見ているものです。この注連縄は、別名七五三縄とも呼びます。〆(しめ)の子の藁を元の太い棒状の結縄から7本(筋)、5本(筋)、3本(筋)と垂らすことから名付けられたようです。
しかしこの方法では、身近な話題の情報を伝えることができても歴史的な記述を十分に伝えることが難しいと思われます。

(2)漢字の伝承がなされなかった
徐福の集団のなかには、当然漢字をこなす人々が混じっていたと思いますが、分かれて進出し弥生文化の中に溶け込む内に、きちんとした伝承がなされなかったことも原因の一つではないでしょうか。弥生時代の遺物には、文具類が出土しません。失われたか、漢字を知らない底辺の人々が、徐福集団の基本をなしていたのではないでしょうか。

(3)国家としての口伝が伝達されなかった
では稗田阿礼のような口伝ではどうでしょうか。「阿礼」は女性の名前です。特に記憶に優れた巫女が出来事を代々口伝してきたのではないかと思われます。しかしこれらの人々は、位が低く当然名士としての扱いは受けていません。
 古事記では「天地(あめつち)の初めて発(ひら)けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき」とあり、私が徐福と考える天之御中主神の記事はこれだけです。日本書紀も同様です。これは下記の『淮南子』の記事にみられるように、徐福の渡来後も倭国全体がまだまだ分裂あるいは分割した状態で、地域間の行き来がされていず、統一政権を紀元後2〜3世紀に迎えるまで、国全体としての情報伝達というものがなされていなかったことを証明するものでしょう。
『常陸風土記』にある「ここ碓井から西に高来(たかく)の里がある。古老がいうことには、「天地(あめつち)の権輿(つくりはじめ)、草木がものをよく言うことができたとき、天より降って来た神、お名前を普都(ふつ)大神と申す神が、葦原中津之国を巡り歩いて、山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた。(後略)」という記事は、地方における巫女による口伝ですが、地方でもこうゆう役割を担い後世に伝えていたと思います。この中の「普都大神」は徐福のことではないかと私は考えていますが、かろうじてこの地方の伝承のみ奇跡的に残ることが出来たようです。
『淮南子』は、前漢の時代、徐福の東渡より約90年後の編纂ですので、徐福の時代の直ぐ後の状態を知る上で重要な資料です。
この巻5時則訓に、「青丘の樹木の野(倭国)では、次のような政令が発布される。(前略)禁止事項をゆるめ、閉鎖を開き、行き止まりを通じ、障塞(しやうそく)を開通させよ。交際をなだらかにし、怨みや憎しみを棄て、労役や処罰を免じ、憂患を除き、罰刑をとりやめよ。関所や渡しを開通し、在庫(庫財)を出し、外敵と講和し、四方を鎮撫し、柔恵を施し、剛強なふるまいをとどめよ。」とあります。非常に閉塞した社会の状況であったことがうかがえます。

(4)中国本土に知られないような努力をしていた
徐福は秦から逃亡してきていますから、中国の人々には知られないような努力もしていたのではないでしょうか。それが分かるのが、陶淵明(とうえんめい:365〜427年)が同時代の記事として描いた『桃花源記』です。そこには桃源郷に至った際の記述に続いて、下記の文章が続きます。
自ら云う、「先の世に、秦の時の乱を避け、妻子・邑人を率いてこの絶境に来たり。またここより出ず。魏晋を論ずるなし。」(中略)此の中の人、語(つ)げ云う、「外人の為に道(いう)に足らざるなり」、と。
注:「外人の為に道(いう)に足らざるなり」とは、他の人には話さないようにという意味です。
ここには、後に「桃源郷」と呼ばれるユートピアが描かれています。ここの住民は、秦の時代に逃れてきて住みついた人々で、周りの人々とは殆ど交渉がなさそうです。
また「のち遂に津(しん)を問う者無し」という記事もあります。津(しん)は渡し場という意味ですが、これは「どう行ったら良いか分かる人がいなくなった」ということです。しかし実際は、徐福の渡来先はこっそり中国でも知られていて、明の時代に作成された2枚の地図(広輿彊理図(こうよきょうりず)と声教広被図)で、長門の西に徐福祠、徐福相という記載となったのでしょう。陶淵明は、徐福の600年後の人ですが、その状況を知っていたと私は考えます。

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